シルクロードの伝説

甘粛人民出版社編:絲路伝説 濱田英作訳、サイマル出版会

平成11(1999)年7月15日から10日間の
キルギス共和国および中国新疆ウイグル自治区の旅に参加することができました。
事前にこの本を薦められ読んでいったことは、旅行中もその後も大変参考になりました。
訳者の埼玉女子短大教授濱田英作先生から、ここで紹介する許可をいただきました。
(その後、濱田先生は国士舘大学21世紀アジア学部に移られました)
シルクロードに関心のある方は、この本を読むことをお勧めします。

大雁塔と小雁塔 シルクロードの起点 − 古都西安には 唐代の様式の、大小二つの塔(大雁塔と小雁塔)が残っている。 大雁塔は唐の高宗の永徽三年(紀元六五ニ)に建てられたもので、現在七層残り、 高さは六十四メートルある。 小雁塔の方は、唐の中宗の景龍年間(紀元七〇七)の建築で、もとは十五層あったが、 地震のために二層崩れ、いまでは十三層となっており、その高さは四十三メートルである。    (l) 言い伝えによれば、大雁塔と小雁塔は、唐代の名僧、玄奘によって建立されたという。 その昔、西のかた天竺(てんじく)へ経典を求める旅に出た玄奘(げんじょう)は、 西域の葫蘆灘(ころだん)まで来たところで道に迷ってしまった。玄奘は三日三晩 歩きつづけたが、石ころだらけのゴビの砂漠をぐるぐる回るばかりで、 水も尽きかけ、心は焦るばかりだった。 まわりは見渡すかぎりはてしないゴビの荒れ地で、らくだ草以外に 生えているものはない。玄奘は、その日の午前中いっぱい歩き回ったが、 またはじめの場所に戻ってきてしまった。自分で目印に積んだ三つの石のかたわらに 腰を下ろした玄奘は困りはて、空を見あげて大きなため息をついた。 そのとき、玄奘は師匠のことばを思い出した。 ……出家者は善を本とし、ただ誠の心を持て、 そうすれば必ず助けが得られるものじゃ……。 そこで玄奘は、香を三つ焚き、木魚を出して経文を唱えはじめた。 経を三度唱えたとき、空にいきなり長い鳴き声が二声響いて、頭がまだらの大小二羽の 雁が目の前の地面に降りたった。これを見て玄奘は喜んだ。これは必ずや自分を導く ために仏祖が遣わされたものに違いない。玄奘は急いで大きな雁のもとへ走り寄り、 深々と礼拝を繰りかえしたのち言った。 「私は大唐の仏僧で玄奘と申す者でございます。西天へ経文を取りにまいります途中、 この地で道に迷い、はや三日三晩、水も食べ物も尽きはて、このままでは死を待つ ばかりです。もし私をお導きくださいましたならば、長安に戻りましたのちに、 お礼の印に塔を建て、必ず供養をさせていただきます」 すると不思議なことに、大小の雁はその玄奘のことばを理解したらしく、 お互いにうなずきあうと、鳴き交わしながら羽を広げてゆっくりと舞いあがり、 砂漠の迷路から玄奘を導いて救いだしたのだった。長安に戻った玄奘は、そのときの ことばを忘れずに大小二つの塔を建て、大雁塔の方に持ち帰った経典を納めたのである。   (2) こちらもまた、古い話である。 はるか昔のこと、釈迦牟尼仏は深山のなかの、とある古廟で修行していた。ある日突然、 大嵐となり、見たこともないような雨降りになって、洪水が道を破壊し、山に食べ物が 届かなくなってしまった。 それでも、はじめのうちは、弟子たちは溢れた水面を不安な顔で眺めながらも、 よくがんばって経を唱えていた。しかし、三日がたつと、空腹に耐えられなくなった 弟子たちが山を下りていった。五日が過ぎ、また何人かの弟子たちが去っていった。 十日目になると、寺に残っていたのは釈迦牟尼仏ただひとりとなっていた。 もうその頃には大雨は止んで、水もゆっくりと引き始めていた。釈迦牟尼仏は飢えて 動くこともできずに、寺の前にある大きな平石の上に立ち、遠くを眺めていた。 大雨と洪水に洗われた深山は凄まじいありさまで、寺の壁はいたるところ崩れ、塀は倒れ、 洪水が運んできた大きな古木が、山の斜面のあちらこちらに横だおしになっていた。 雲間から太陽が顔を出し、温かな陽射しが釈迦牟尼仏の濡れた体を暖めたので、 釈迦牟尼仏は思わず気が遠くなりかけた。すると突然、空から鳥の鳴き声が降ってきた。 頭を上げて見ると、それは大きな雁のー群だった。 釈迦牟尼仏はそれを見て一瞬心に考えた。 ― この雁がもしも落ちてきてくれたら なあ − こう思ったとたん、なんと数羽の大きな雁が地面に落ちてきたでは ないか。釈迦牟尼仏は躍りあがったが、すぐさま自分の気持ちを押さえた。 そうだ、なんで雁が自分から落ちてくるわけがあるだろう。これは普通の雁ではない。 おそらく私を試すためのものだ。山に籠り、何年も苦しい修行をして、ようやく それが終わろうとしているのに、いまここで欲望に負けて雁を食べ、飢えを満たして いいものだろうか。こう釈迦牟尼仏は考えた。 空腹をこらえて石から降りた釈迦牟尼仏は、雁の死骸を集めてねんごろに葬り、 その場に塔を建てて雁塔と名づけ、また何日か経を読んで供養したのだった。 そののち、釈迦牟尼仏の修行は遂に達成され、ありがたい仏祖となったのだった。 修行中の釈迦牟尼仏の、「十日飢えても、邪念動かず」というこのまことの心を 忘れないために、のちに各地で雁塔を建立するようになり、その大きなものを大雁塔、 小さなものを小雁塔と称するようになったのである。 千金帖 西安の碑林に、「唐三蔵聖教序碑」という石碑がある。この碑の文面は、唐の太宗皇帝 〔李世民。在位紀元六二六〜六四九年〕が玄奘法師の翻訳した仏典につけた序文で、 高宗皇帝〔李治。在位紀元六四九〜六八三年〕の咸亨二年(紀元六七一)に刻まれたもの である。この石碑はまた、「千金帖」とも呼ばれている。 いい伝えによると、その年、高宗皇帝はこの石碑の碑文を書かせるために 城門の上に触れ書きを出して、書の名人を招き寄せようとした。しかしそのころ、 玄奘法師のシルクロードの旅はすでに世間に知れわたっており、偉大な玄奘の ために、だれひとりとして石碑の宇を書こうというものはいなかった。 それはそうである、これはごく普通の碑文ではないからだ。 もし、うっかり碑文の字を書き損じて汚してしまったら大変と恐れていたのだった。 碑文を書くのに誰も申し出がないので、弘福寺に懐仁(かいじん)という和尚が、 皇帝にお目にかかって言上した。 「碑文の字のことで、私によい考えがございます。これはもう、万全の策と申せましょう」 高宗皇帝はだれも名乗りを上げないのを悩んでいたところでもあり、自信に満ちたこの 言葉を聞いて、おおいに喜んで言われた。 「なにがよい方法があるのならば、遠慮なく申してみよ」 懐仁は言った。 「もし陛下のお許しがありますれば、ある高名な書家を招いて、碑文の文字を書かせる ことにいたしたいと存じます」 「それはだれのことじゃな」 「王義之(おうぎし)〔四世紀、東晋の書家〕でございます」 高宗は、これを聞くなり、大声で笑われた。 「もしもあの書聖、王義之がこの碑の字を書くならば、それこそわれらの願いであり、 また後世にも言い伝うべきことでもあろうが、惜しむらくは、王義之は昔の人であるから、 それはできない夢物語じゃ」 しかし懐仁はまじめな顔で申し述べた。 「決して夢物語にはございませぬ。陛下が紙にただ一筆、天下にご命令を下されて、 広く王義之の墨跡をお集めになり、私に命じてその字を選ばせらるるならば、かならず や碑文は完成いたしましょう」 高宗はこれを聞くや手を打って喜び、そこで懐仁を石碑制作をつかさどる役目に任じ、 王義之の書を広く世間から集めさせて、その字で石碑の碑文を刻んだのだった。 石碑が完成したのちに考えてみると、字を集めるにあたってかかった金額は、一字に つき銀十両を超えていた。そこで、ここから「一金を一字に換える」という言い伝えが 生まれ、やがて人びとはしだいに「唐三蔵聖教序碑」のことを「千金帖」と呼ぶように なったのだという。 五泉山の由来 いまから二千年あまり前、前漢の時代に、漢の武帝〔劉徹。 在位紀元前一四一〜八七年〕は、驃騎(ひょうき)将軍霍去病(かくきょへい) 〔紀元前一四〇?〜一一七年〕に二十万という大軍を率いて匈奴を攻撃させた。 大軍は長安を出発し、西へ西へと何日も苦しい行軍を重ねたあと、 ある日のたそがれどき、一木一草も生えていない山の前にやってきた。 全軍の人も馬もみなすべて疲れはてて、それから先の道もけわしかったので、 霍去病は、山のふもとに兵営を造り、ゆっくりー晩休むことにした。 しかし、暗くなっても、部下は誰も水を見つけられず、むなしく帰ってきた。 部下思いの雀去病は、人も馬も喉の渇きに苦しむのを見て、ついにみずから馬に乗り 水を探しに出かけた。だが、水はみつからない。気性のはげしい霍去病は、「ここに 水が出ないはずはない!」と叫びながら、そばの山肌に向かって宝剣をさっと突き刺し、 力をこめて宝剣を抜き取ると、そこから清らかな水が流れだしたという。 こうして、霍去病はまた四度剣を突き刺し、四箇所から、清らかな泉を湧きださせた。 こうしてできたのが、今の蘭州の町の南にある五泉山といわれる。 ちなみに、この五つの泉の名は、甘露(かんろ)泉、慧(けい)泉、蒙(もう)泉、 摸(も)泉、それに掬月(きくげつ)泉という。 嘉峪関の石はどうして運んだか 嘉峪関(かよくかん)にやってくれば、城壁の基礎が大きく長細い石で築かれているのが、 かならず目に入る。昔の人はこんな重たい石を、いったいどうやって運んだのだろうか。 長さが二メートル、幅が五十センチ、厚さが三十センチもある巨石が何万個もある。 こんな大きな重い石をどうやって運ぼうか。すると、ある年寄りの親方が、知恵を出した。 まず山の上からふもとまでー本の道を作る。寒さがいちばん厳しいころに、 道の上に水を流す。すると流れた水が凍って、長い氷の道ができるので、 石をその上に乗せて滑らせるのである。 こうして、石工たちは、夏のあいだに石を切り、冬になると氷の道を滑らせて運びだし、 何千何万もの石を、嘉峪関まで届けたのである。 (北京の故宮にも、こうして冬の氷の道を運んだ岩がある)         玉門関 玉門関は小方盤城(しょうほうばんじょう)ともいい、 敦煌県の西北に広がるゴビのなかにある。 昔はシルクロードの重要な関所だったところである。 この関所をなぜ玉門関というのだろうか。それには、こんなおもしろい言い伝えがある。 シルクロードに商人たちが通るようになってから、新疆のホータン(和田)の玉が中原に 大量に輸入されるようになった。ところが奇怪なことに、玉を運んできた駱駝が小方盤誠に 一歩入ると、たちまち病に倒れてしまうのだった。玉の運送にあたっている役人は 困ったが、どうすることもできなかった。 ある日のこと、また玉を積んだ駱駝隊が小方盤城に入ってくると、駱駝はつぎつぎと ロから白い泡を吹いて倒れ、立ちあがれなくなった。 そのとき、ウイグル人の駱駝引きの年寄りが言った。 「申しあげますが、こりゃ玉が災いをしているに違いありません」 「なんだと、玉が災いをするとは、それはまたいったいどういうことだ?」 役人は聞いた。 老人は答えた。 「玉も故郷の土を離れて、千里の道をやってきております。ご祈梼をしてやらないと、 また悪さをするでしょう」 役人はしばらく黙っていたが、やがてこう言った。 「お前の言うとおりにしたいのだが、どのようにすればよいのかな?」 そこで老人は言った。 「和田の玉を、小方盤城の城門にぐるりと積みあげればよいでしょう。 そうすれば、関所に入るとき、その光を見た玉たちは、まだふるさと思いこんで、 二度とわざをしないでしょう」 役人は他にすることも思いつかず、やむなく年寄りの言うことに従った。 これ以後、小方盤城の城門には、ひとまわり積みあげた和田の玉石がきらきらと輝く ようになり、小方盤城という名もまた、玉門関と改められたのであった。 そして、玉を運んできた駱駝も倒れるようなことはなくなったという。 大仏の額の赤い点 敦煌の「千仏洞」[莫高窟〕に大仏像がある。地元の人は、親しみをこめて 「大仏爺タアフオーイエ(だいぶつさん)と呼んでいる。 この大仏は、高才百尺[三十三メートル〕をこえ、見あげるような九層の楼閣の なかに座わっている。背の高い人でも足の甲まで届かないし、 からだを反らして仰向いても、ようやくその下あごが見えるだけである。 門の扉ほどもある耳の上では、らくらく四人座って麻雀が打てるのだから、 その大きさがわかるだろう。 大仏は簡素だが優雅な衣をまとい、片方の手はやわらかく膝におき、もう片方の手は 胸の前に立てている。円満な顔は神秘的でいて、慈悲に満ちた笑みをたたえている。 なかでもその眉と眉のあいだの大きな赤い点は無数の見学者の目を引きつけ、 大仏をいっそう神々しいものにしている。この赤い点にまつわる話を紹介しよう。 ロシア十月革命の年〔一九一七年十一月〕、金髪碧眼の「老毛子ラオマオズ」が当地へ 逃げてきた。彼らはあたりで乱暴狼藉をはたらき、美しい壁画や塑像を勝手気ままに破壊 した。敦煌の人びとはこの知らせを聞いてひどく心を痛め、だれからともなく 連れ立って「千仏洞」にやってきた。そして、相談して何人かを選んで「老毛子」の もとへやり、乱暴をやめるよう頼むことにした。 ところが「老毛子」たちは人々の願いに耳を傾けるどころか、かえっていばりちらし、 まるで自分の庭のようにふるまいはじめた。なかに赤髭の将校がいて、 高慢にもそっくり返り、片手に鞭を、片手に拳銃を持って、中国人たちを 脅しつけるのだった。 一同は歯ぎしりしながら棍棒を振りかざし、「老毛子」たちにうちかかろうという雰囲気 になってきた。年寄りたちは「老毛子」の馬鹿にした様子を見て、怒りのあまり体を ぶるぶる震わせながら、大仏殿にひざまずいて口ぐちに祈りはじめた。 これはまずいことになってきたと見た「老毛子」たちは、サーベルを抜いて無残にも 村人たちに切りつけ、さらに機関銃を組み立て血なまぐさい殺戮をはじめようとした。 あの赤髭の将校は大仏殿に押しいり、お祈りをしている人びとを軽蔑の目で見やると、 やにわに拳銃を抜いて構え、大仏爺の額めがけて撃ちはなした。銃声とともに、 弾は大仏の額に命中した。とたんに大きな音がして、鮮やかな赤い血が泉のように 噴きだし、鼻筋に沿ってしたたり落ちたのだ。 これを見て驚いた赤髭は、ぎゃっと叫んで表へ走りでた。するとそのとき、 黒雲が四方より巻き起り、雷鳴が轟いて稲妻が走り、風が吹きあれて砂と石が 舞いあがった。赤髭は崖下に放りだされて、墜落して死んでしまった。 残りの「老毛子」たちも、死んだ者や怪我をした者がでて、みな泣いたりわめいたり しながら「千仏洞」を逃げだした。中国人たちは目をつぶって地べたにつくばり、 涼しい風が顔にあたって、頭の上で雷が鳴るのを聞くばかりであったが、 不思議なことにかすり傷ひとつ負うことはなかった。 こうして、大仏の額には赤い点が残り、これを見るたびに人びとは、あの恐ろしい できごとを思いだすとともに、ますます大仏爺をあがめるようになったということである。 ハミ瓜の由来 ハミ(哈密)は、シルクロードの古城である。だがハミを有名にしたのは、 シルクロード名産メロン ―― 哈密瓜ハミグワである。 哈密瓜の果汁は甘く、ウイグル族は、「庫洪グホン」と呼ぶ。香りただよう哈密瓜 (ハミウリ)は、それはそれは甘く美味しいメロンである。 「紅心臉ホンシンリエン」は色があざやかで、さくさくして汁が多い。 「黄蛋子ホワンタンズ」は小ぶりで皮は黄色く、果肉は真っ白だ。「黒眉毛ヘイメイマオ」 は実がつまっていて香りがさわやかで、果肉は緑色である。「老頭楽ラオトウラ」は 柔らかくて汁気が多く、香りは強い……。 では、そもそもなぜ哈密暗瓜というのか。それにはこういう話がある。 清の時代、哈密の王は、領地から採れる哈密瓜を貢ぎ物として、はるばると都へ運び、 朝廷に献上した。各地の瓜をいいかげん食べ飽きておられた乾隆皇帝 〔愛新覚羅弘暦。在位紀元一七三五〜九五年。清朝全盛期の三皇帝の最後の人で、 清朝文武の黄金時代をつくった〕は、哈密王から贈られたこの長い瓜をひと目見るなり 珍しがられ、太監(たいかん)〔宦官〕に命じて切り分けさせられた。包丁が入るや、 すぐに香りが部屋いっぱいにただよった。乾隆帝は幾切れか召しあがったが、 汁が多く、柔らかく、なめらかで蜜の味のする哈密瓜(ハミウリ)に おおいに喜ばれた。そこで乾隆帝は、かたわらの太監にお尋ねになった。 「この瓜の名はなんと申すか」 ところが太監は、この甘い瓜が哈密からの献上物だということを知っていただけで、 なんという名だったかなど、忘れてしまった。思いもかけぬ皇帝の質問に あわてた太監は、見る間に顔を真っ赤にした。だが、賢いこの太監は機転をきかせ、 身をかがめてお答えした。 「聖なる陛下、哈密瓜でございます!」 「哈密瓜とな?」 乾隆帝はしばらく考えておられたが、やがてうなずくとおっしゃった。 「哈密瓜、よき名じゃ!」 こうして、乾隆帝みずから命名されたことになったこの哈密瓜が、新疆産の甘い瓜の 名前となり、いまに至っているのである。                              実はハミ瓜はピチャンの特産 吐魯番の葡萄 銀山道と水豆の話