漢字文化の硬直性とカナ文化の融通性

中国の漢字文化は完成された文化である。
ということは発展性が乏しい。これは外国の文化を受け入れるとき
カタカナ文字で対応してきた日本人の知恵と比べるとよくわかる。

日本人は相手がすぐれたものを持っている国や人だと尊敬するが、
自分よりランクが下だとわかったら、掌をかえしたような態度をとる。
これはよく外国人から指摘される点で、日本人も反省したほうがよいと思う。
しかし、自分たちよりすぐれていることがわかったら、どこの国の人でも、
人種をこえて尊敬の態度をとる。たとえば王貞治は名前からしても中国人だが、
世界の打者として日本人は認めているから、日本政府も国民栄誉賞を与えるに
やぶさかではなかった。
(邱永漢も日本籍をとる前も後も、相当社会的評価を受けてきた存在だったから、
日本人から不愉快なあつかいをうけなかったと書いている)
しかし、王貞治や邱永漢は例外であって、多くの中国人や韓国や北朝鮮の人は
日本人の排他性や閉鎖性を感じて、不愉快な印象を持っているだろう。

とここまで述べて、邱永漢は、中国人にはそういうところがないと続ける。
しかし、それは中国人が頭が低いからではなく、逆に自分たちこそ世界の文明文化
の中心に位置しているという中華思想にとらわれていて、人に学ぶという
謙虚さに欠けているからであると述べている。

邱永漢がそのことに気がついたのは、1948年に台湾から香港に亡命して香港に住んだとき。
(彼は1945年に東大を卒業しながら、台湾に帰国すると、国民党政府からマークされた)
香港はイギリスの統治下にあり、そこに住む中国人は、イギリスのおかげで
中国の内戦から守られ、物質的にも豊かな生活を享受していた。
それにもかかわらず中国人は(この場合ほとんど広東人)、西洋人を鬼(クワイ)と呼び、
西洋人の女は鬼婆(クワイボウ)と呼んでいた。イギリス人は英国鬼、アメリカ人は美国鬼、
フランス人は法国鬼である。自分たちよりきれいな家に住んで、中国人の自分たちに
子守をさせたり、部屋の掃除や洗濯をさせて給料を払ってくれる主人夫妻に対して
も、中国人の阿媽(アマ)たちは陰では鬼郎(クワイロウ)・鬼婆(クワイボウ)
と呼んでいたという。
邱永漢の夫人の実家でも、英語教育が盛んで子どもたちが親たちの前で
ボーイフレンドやガールフレンドとダンスをするようなひらけた家であったが、
白人のことを鬼郎・鬼婆と呼んでいたという。
それでいながら、アメリカ留学から帰ってきた親戚がアメリカ人を連れてきて、
結婚式を挙げるときには親戚一同が集まって祝福したという。
邱永漢は、日本人のほうが西洋文明を積極的に受け入れているように見えるが、
日本人は西洋人を敬して遠ざけ、決して気を許そうとしないのに対して、
中国人は鬼郎・鬼婆と呼んでも平気で家族の一員として受け入れているので、
どちらが受け入れる心のスペースが大きいかということでは、簡単に結論が出せ
ないと述べている。どっちもどっちということだろうか。
中国人の知らない一面を見た。

ここまでが実は前段である。ここから、本題の中国の漢字文化と日本のカナ文化の
比較に入る。漢字はその文字自身が一つの完成した文化を意味している。
それぞれの漢字に意味があり、その成り立ちにも理屈がある。たとえば、男という
は、田んぼの中で力一杯働く姿を表した文字であり、溺は水の中で弱ってしまった
という意味である。日本人は、その延長として、すぐに弱ってしまう魚に鰯という
字を作ってあてた。漢字はその文字の中にものや現象の本質をとらえている。
だから、漢字は完成度の高い文字であるといえる。

しかし、日本には漢字の入ってくる以前に大和言葉があった。そして、それを
記録する文字を日本人は漢字から作り出した。すなわち漢字の略字化としての
ひら仮名とカタカナである。あは安、いは以、うは宇、えは衣、おは於と
そのルーツははっきりしている。それぞれの字に特定の意味はなく表音文字である。
日本人は漢字を思想表現の手段として受け入れたが、大和言葉の上に新しい
表現を加えただけのことであり、日本語が中国語に変わったわけではない。
だから、日本人が西洋文化を受け入れたとき、英語でも、ドイツ語でも、
フランス語でもローマ字で表現される言葉を容易に受け入れることができた。
もともと表音文字にすぎないカタカナだから、どんな外国語でも、カタカナを
使えば日本語に変えることができる。外国の新しい概念を説明するのに
従来からの日本語で説明できないようなときに、カタカナを使った新しい日本語で
表現するようになった。大和言葉はもともとそうした対応が可能な言葉で
あったのである。

ところが、漢字だけだとそういうふうにはいかない。漢字はもともと一字一字が
すでに完成した意味を持っていて、しかも一つの音で成り立っているから変化の
しようがない。
(もっとも西洋の言語が同じローマ字を使いながら、ドイツ語やフランス語や英語
がお互いに通じない言語に変わっていったのに対し、北京語と広東語と四川語は
発音するとまったく違う言語に聞こえても、漢字で書けば同じ字になっている
のは、象形文字がそれ自体完成した構造になっていて簡単に変更できないから
なのであろう。それゆうに、中国は分裂の歴史に見舞われながらも、漢字が
中華文明の統一を守る働きをしてきたともいえよう)

日本のおけるカタカナ社名の氾濫は私もいかがかと思わないでもないのだが、
NTTも日本電信電話(公社)も、もとはといえば外来語であり、大陸から輸入
した使い古した外来語ならよくて、西洋の新しい外来語ならけしからんと
いうのはおかしいじゃないかと邱永漢が指摘するのはなるほど一理があると思う。
カタカナ好きの、日本人の言葉における流行心をみごととらえている。
邱永漢が子どもの頃は、読めない漢字にカナのルビをつけたという。
外来語も本来のローマ字が読めないものだから、カナのルビをつけて、
そのフリガナをそのままカタカナ表記したのだという邱永漢の説明は、日頃あまり
カタカナ言葉の由来を考えていない私にとって、啓発を受けたことであった。

中国の場合、中華思想が名実とも強大だったときは、胡瓜とか蕃薯ですませられ
たが、列強が上海の租界地を支配するようになってからは、クラブは倶楽部と
と書くようになった。可口可楽はコカコーラのうまい当て字であるが、
外来文化が押し寄せてくると、ゴルフが高爾夫というなどローマ字に「フリ漢字」
をする表現が多くなってきた。
邱永漢が台湾で日本語をしゃべれない女たちが日本の歌謡曲を歌うので、近寄ると
カタカナでなくフリ漢字をつけた紙切れを見ながら歌っていたという。
(日本人は同じアイデアを千数百年以前に実施した)

中国人と日本人の微妙な区別がつかない西洋人でも、漢字とカナの区別がわかる人なら、
外来文化を受け入れるに際して、日本人のほうが器用で、中国人のほうが不器用
である理由がわかるのではなかろうか。
漢字の文字はそれ自体が意味をもっていて、象形文字であると同時に象徴文字
でもある。貝という文字は貝殻の形を意味する。貝殻をお金として使用した歴史
があるので、お金を意味する「貨」という字ができた。貝はお金の意味があるから、
お金を集める才能は財である。こう考えると、漢字はよく考えられて作られた
文字である。しかし、漢字の作られた当時の人智をこえる新しい事象を説明しよう
とすれば、字そのものが不十分であるのは仕方のないことである。
先端技術や化学薬品は漢字の表現力をこえてしまっている。(新しい元素の発見
される度に新しい漢字を作る中国人)

その点、カナは漢字文化を取り入れることもできれば、ローマ字文化を容易に
受け入れることもできる。中国人はローマ字文化の内容をいちいち漢字に翻訳し
ないと、現象そのものすら理解できない。日本人は漢字にカナをふって受け入れ
たように、ローマ字にカナをふって受け入れることが簡単にできる。
そういうわけで、外国語の名詞と名詞をつなぎあわせるだけで新しい日本語になり、
日本人同士で意思の伝達をするのに何の支障も感じないのである。
(カタカナの氾濫は日本人の中にも問題視する人はいるが)

 カタカナ表記論