建築工学 土木工学 建設工学
について
土木学会誌6月号 「土木遺産は世紀を超える」 意外に思われる方もいらっしゃるかも知れませんが、本学科に限った事かどうかは定かで はないにしろ、土木学科において土木史について触れる機会は殆ど皆無に近いのです。 様々な講義の中で土木史に触れる事が出来た数少ない機会と言えば、1年次の「橋の文化 史:Bert Heinrich編著 宮本裕・小林英信共訳」に関するレポート提出と、景観工学・都 市計画学などで聞き慣れない建築家の名とその理論に触れる程度、所謂「土木史」と銘打 って史学的な講義を行うような事はないのです。それは本学科が他の土木学科とは異なり、 非常に広い分野を統括して扱う学科であるからかも知れませんので、前述のような状況が 全ての土木学科に当てはまるとは捉えないで下さい。只、建築学科で建築史について学ぶ のが必然であるのに対して、土木では必ずしもそうではないと言う事を、本特集について 記述する前に述べておきたかったのです。 建築雑誌5月号「建築と味」に関して私は「古いものを重んじるのは豊かな考え方である」 と言うような事を記述しましたが、土木建設物を対象とすると話はそう簡単ではないでし ょう。民家や細々とした生活用品であれば、大切に手入れしてその命を永らえる事がその 物自体の価値を高める事に繋がる、と言うような記述だったのですが、土木構造物は橋梁 ・トンネル・港湾など、それ自体が社会基盤として非常に大きな役割を担う建設物である ために、その耐久性や信頼性が最も重要視される性格を持ちます。故に年月を経て味が出 るとか言う以前に「老朽化」こそが克服すべき最大の課題であり、技術の進歩がもたらす 構造物の遺物化は建築の場合よりも深刻な状況を生み出します。 目先の利益ばかりに固執した粗悪な構造物であろうと、長期的な視野を持って設計され、 半永久に渡る使用に耐え得る完全な構造物であろうとも、いずれ何らかの理由でその役目 を終える時が来ます。その時に例えば古城であれば、使用されなくなった後も保全して観 光地として活用する手段が考えられますが、それが長年社会基盤として住民の生活を支え てきた土木構造物となると話は変わります。もしその構造物が完全に用途を失った遺物で しかない場合に保全作業を施したとしても観光地として利用するのは難しく、保全後の扱 いが建築物のそれよりも意図に乏しいでしょうし、また現在の技術の梃入れを行ってでも 未だ価値のある構造物であったとすれば、その改修工事に保全と言う理念を持ち込む事自 体が非常に難しくなります。 ここで以上のような事を踏まえ、土木遺産=文化遺産と言う条件が満たされた幸運な例を 紹介します。 湖畔橋は北海道千歳市支笏湖東岸、千歳川河口に位置する道内最古の英国製鋼橋です。橋 長64m、主構間隔5m、200ftピン構造ダブルワーレントラスと言う構造を持つこの 橋は、現在支笏湖温泉街と休暇村・野鳥の森、モーラップ方面を結ぶ散策コースとなって おり、歩廊を設け人道橋として使用されています。湖畔橋は明治32年第一空知川橋梁と して北海道官設鉄道上川線(空知太~旭川)の砂川・妹背牛間に架けられましたが、設計 荷重が小型機関車であったために輸送量の大幅な増大について行けず現役を引退、支笏湖 に移設され「湖畔橋」に生まれ変わったのです。移設された当初は王子製紙株式会社が発 電所建設工事の資材輸送を目的とする王子軽便鉄道(通称「山線」)に使用されていまし たが、その山線が昭和26年に廃止され、「湖畔橋」は支笏湖のシンボルとして千歳市に寄 贈されました。故に第一空知川橋梁として24年、湖畔橋に移設されて74年、実に計98 年の月日が架設より経過しているのです。この橋の設計はイギリス人のC.A.W.Pownall、 イギリス製の鋼・銑鉄混合トラスとして全国で60橋近くが架設され、同じ型式のトラス が箱根登山鉄道、早川橋梁などで未だ現役として使用されています。 こう言った由来のある橋を「現地で原型保存、しかも現役で使用する」を基本思想として 平成5年以来様々な現況調査が行われ、平成9年ついに現地架設がなされました。現代の 技術により蘇った湖畔橋が同じ場所で歩道橋として、そして生涯現役として復元されたの です。 この例は橋の持つ歴史的・技術的価値が評価され、尚且つ移設された先が観光地として利 用されるに足る土地であったために、社会基盤としての役割を果たさなくなった後も景観 を構成するパーツとして、そして北海道の歴史を振り返るモニュメントとして、橋そのも のの価値が生かされやすい状況にあったために実現した稀有な保全例であると思います。 前述の通り湖畔橋の歴史的・技術的価値は保全するに足る十分なものであると思います し、この保全事業により生まれ変わった湖畔橋は観光地を彩る普遍的な価値を有する事に なるでしょう。実際に保全工事を発注した千歳市、施行を引き受けた横河メンテナック社 の英断には敬意を表しますが、この事例が様々な幸運によってもたらされたものである事 は確かです。資本主義社会と言う利潤のみを追求する産業形態は、老朽化し用を足さなく なったインフラを単なる「遺物」としか見なさず、より効率的で整った社会基盤の整備を 技術の進歩によって「勝ち取る」事を至上と考えます。よって湖畔橋のように幸運にも引 退後土地のシンボルとして復元されるものばかりではなく、活かされる術を失いただ廃棄 される状況も生じるのです。 ここで資本主義の抱える「スクラップアンドビルド」と言う根本的な性質が招いた、より 深刻な例が本特集で紹介されていますので記述しようと思います。 萩原豊彦氏(松井田町教育委員会社会教育家文化財係長)の記述では、近代化としての鉄 道産業の成果とその限界が語られています。松井田町は「交通の難所」と言う地形的条件 を抱え、横河-軽井沢間の碓氷峠は11.0kmの間に26箇所のトンネル、66.7‰の勾配によ って「煤煙」と「牽引能力の限界」と言う蒸気機関車にとって克服し難い弱点をもたらし ました。しかし群馬・長野県地方の経済を支える重要な幹線であった碓氷線は明治45年、 前述の解決策として日本初の「電気機関車」「石炭火力発電所」「変電所」による電化区 間となったのです。しかし利潤を求める資本主義は北陸新幹線開業によりこの碓氷線の鉄 路を廃止させました。幹線鉄道の寸断は日本初の事で、当然ながら他に代替する交通手段 に乏しい地方自治体の過疎化・高齢化を加速する結果を招きます。 ここで氏は重要な記述をしていますが、碓氷線の鉄道構造物は文化財、近代化遺産として 第一級の評価を得ており、それらを地域資源として活用した「ウォーキング・トレイル事 業」、線路敷き・橋梁・トンネル・変電所跡からなる区間を遊歩道として再生するなど様 々な整備計画が展開されています。しかし重要な事は、そのような事業が全くのゼロから のスタートではなく、むしろ廃棄された遺物とその失われたインフラとしての価値を取り 戻す作業、つまり負からのスタートであると言う事です。幹線の廃止に見舞われた地域に とってはまさしく起死回生の策なのです。 先に挙げた湖畔橋との違いはまさにそこにあります。湖畔橋の場合ですと、第一空知川橋 梁としての役割を引退しても、そこに新橋梁が架設される事で社会基盤としての役割はす ぐに新技術が取って代わりました。そして幸運にも第二の役割を与えられ、そして最終的 にモニュメントとして存在し得たのも、橋梁と言う構造物の持つ役割の流動性があって成 せたものでしょう。しかし土木構造物は規模の大小も様々であるとともに、その与えられ る役割の大小も様々です。碓氷線のように地域にとっての心臓のような役割を担う社会基 盤が遺物と化した時、その地域社会に与える影響と保全作業の難しさは甚大なものになり ます。 土木構造物はその多くが人々の生活を支える根幹を成す性格を持ちます。それ故、保全に あたっては単に保全する事の豊かさとか美しさなどでは片付けられない難しさがあるので す。 2000.10.25 清水立