清水 立 卒業研究

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土木学会誌5月号 岐路に立つ大学教育

 今月号の特集では、現在を時代の中で戦後・高度成長期と並ぶ第3の変革期と捉え、
大学に主眼を置きながら世界気候そのものに至るまで幅広く、これより先如何なる方向
へその船首を導くべきかという議論がなされている。ここで、主題そのままの極めて
広域に渡る議論を自らの瑣末な意見で踏み荒らすよりは、「一学生」としての立場から
自らのあるべき姿勢を書き正す方が、より主題に即した内容になるのでは、と考える。
それは、現段階で「大学とは」「社会とは」などと書き立てるのは意義に乏しい、
筋違いと言えば言いすぎかもしれないが、あまりにも現状を客観視した、言い換えれば
自分の事は棚に上げ、と言ったニュアンスの文章になってしまうと考えるからである。
こうしたシステム全体の変革を考える場合、何よりも採り挙げられるべきものは、
具体的に「何をどうすれば」と言った物理的な変革よりも先ず精神的・思想的な変革で
あるはずで、ならばその議論の矛先を真先に外に向けるべきではないと考える。

 自分は高校在籍時から比較的明確な目標を持ち、そこに到達するための一手段として
大学を選択したつもりである。従って大学に対して「其処に行けば何かが」と言った
ような妙な幻想や漠然とした期待は持ち合わせていなかったし、3年半在籍してその
認識は正しかったと感じている。「心構え」と言えば少々大袈裟になるが、本当に必要
なのはやる気とかいう精神論ではなく、自分のすべき事をどれだけ確実に把握出来て
いるかという事に尽きると思う。大学のカリキュラムについて言えば、(自分の在籍
する学科に関しては)余程勉学以外の生活に比重を置かない限りは、恐らく進級・
卒業に苦労する事はないだろうと思う。只それは定期試験に全精力を傾け、単位を掻き
集める事にのみ専念するならばの話であり、学生の本分とはあくまで其処を最低ライン
とした上での目標設定ではないかと思う。勿論優秀な成績を収めようと思えばそれは
決して容易な事ではないし、心の底から全講義に多大な熱意を持って取組む事こそ自ら
の本望であると言える学生もいると思うので(稀有だと思うが)、あまりこれが絶対論
だと考えて欲しくないのだが、大学という空間があまりにも外界から遮断された場所で
あるためか、何年か在籍するうちに学生生活こそが自分を支配している全てである
ような錯覚を覚える事があるのだ。勿論将来大学に残り研究に身を投じたいと考えるの
ならばそれでも良いのだが、そうではなく、明確な目標を設定出来ずに学生生活に
溺れてしまうと卒業が迫ってきた時に果たして何も見当たらないという事態に陥る。
狭い社会で日々のルーティンに悪戦苦闘し、外に向かわない評価をされる事に慣れて
しまうと、不意に自分が何のために学生としての生活に貴重な時間を費やしているのか
見失ってしまう時がある。少なくとも自分はそうだった。優秀な学生が優秀な人間・
人材では必ずしもないということだ。

会誌内における対談で「技術者に気概が感じられない」というフレーズが多用されて
いるが、もし上記のような不安定な状態のまま社会に出て、それでも目の前の作業を
片付けることの苦労には慣れているから仕事もそれなりにこなし、いつのまにか新人と
呼ばれなくなった事に気付く、という状態が起こり得るならば其処に「気概」が存在
するだろうか。

結論だが、学生として忘れてはならない事は「自分が学生である事」と「自分が何の
ために学生として居るのか」という二つのみである。


聊か主題から逸脱した文面になってしまったが、冒頭でも述べた通り変革を求めるなら
先ず己にその矛先を向けるべきであり、あえて機構に対しては何も記述しなかった。

2000.9.19 清水 立