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について
土木学会誌4月号 新世紀のコンクリートを考える 昨年だったか、山陽新幹線を始めとするコンクリート崩落事故が相次ぎ、 「コンクリートクライシス」なる言葉が何処からともなく盛んに叫ばれるようになった のは記憶に新しい。そう言った時期に合わせたように「コンクリートが危ない」 (岩波新書)が出版され、高度成長期以来行われてきた品質よりも量産を優先する コンクリート構造物の作業コンセプトに警鐘を鳴らしたのだが、 今月号の冒頭でその著者である小林一輔氏と岡村甫土木学会長の対談が掲載されており、 特集の主題に沿った様々な議論がなされている。 コンクリートの打設とは大変困難な作業である。とは言え自分はコンクリート工学・ 道路工学の講義を通じて、所謂理論としてのコンクリートについて一通り学びはした ものの、実際にその打設作業に直接触れたのは学生実験で一度試験体を作成しただけ なので、その程度の知識であれこれ分ったような説明をするのは聊かおこがましいのだが、 少なくとも机上理論だけでは決して片付かない作業である事だけは何とかお伝えしたい。 日曜大工等で市販のセメントを扱った経験のある人もおられるだろうが、基本的に コンクリートの打設とはセメントと水、そして強度を高めるための細骨材・粗骨材 (砂・砂利など)を過去の研究結果・経験から導かれた示方書に沿って一定量混合した ものを練り、それを型に流し込んで固めるという作業である(このままのコンクリート は圧縮と比べ引張に極端に弱いので引張耐力を鉄筋に持たせたものが鉄筋コンクリート である)。だがここで仮に同じ量の各材料を同じ様に練り混ぜて固めたとしても、 それが必ずしも同じ強度を持つコンクリートを生むとは限らないのだ。何しろ相手は 一様ではない流動体であり、気温・湿度と言った作業環境にも敏感なのである。 また型に流し込む際にも、水分が多すぎれば容易に充填できるものの内部で材料の 分化が起こってしまい十分な強度が得られないし、逆に水分が少な過ぎれば無論充填に 時間がかかり施行が非常に困難になってしまう。ほんの小さな試験体を作成するのですら 決して容易ではないというのに、それが橋梁やダム、トンネルといった大規模な構造物を 対象とする作業であれば、それが如何にデリケートな作業であるかお分り頂けるだろうか。 上記のように只でさえ困難な作業であることに加え、量産主義のような風潮が重なれば 作業のクオリティが低下するのは必然であろうし、実際に昨年のような崩落事故が 起こる以前からも専門家達がその安全性に危惧を唱えていたのも十分頷けるだろう。 しかし、コンクリートクライシスと呼ばれる警鐘は、アルカリ骨材反応・塩分・中性化 といった原因でコンクリート内部の鉄筋腐食を引き起こす「海砂」の使用を完全に 止めたと言って良いほどの効果を生んだとの事で、今回の崩落事故が引き起こした騒動 は少なくとも一定の成果の元に終結しそうである。 その上で小林・岡村両氏はこれからのコンクリート構造物のクオリティ向上のため、 次に挙げる二つが必須条件であると述べている。一つは技術者の教育である。それは 技術者(設計・施工・発注等建設に携わる全ての人間を広義に指す)がある程度高い 技術レベルを習得していなければ、せっかく開発された新技術や新材料が普及せず、 分野全体の発展を妨げることになってしまうという理屈である。そしてもう一つは 発注システム全体の見直しである。これはソフト的な問題であるため多少理解し難い 問題なのだが、ここでは悪しき例として旧国鉄が挙げられている。高度成長期、 国鉄は限られた技術者・期間で大量の構造物を造らねばならなかった。そこで採り入れ られたのが「完全責任施行」「完全設計外注」と呼ばれる、本来は発注者側と受注者側 とが仕事内容を検討し合いながら、それぞれが責任を持って協力し合い施行するという 方法であった。しかしながら実際には完全なお任せ状態で、発注サイドでは現場に おいて一体どんな仕事がなされているか知りもしないというのが実状であったらしい。 ここで基本に立ち戻るのだが、土木技術者の宿命とは「世のため人のため、良いものを 安く造る」事であると、岡村氏は巻頭論説で述べている。しかし現在は技術が意味を 持つようなシステムになっておらず、技術がないことを前提にシステムを作っている 状態で、これでは高くて悪いものしか出来ない、と重ねて述べている。必要不可欠なのは 技術であると。「いいコンクリートを作るには、親切に、丁寧に」という吉田徳次郎先生 の言葉が紹介されているが、まさにその理念が実践され活かされるようなシステムが 求められているのだろう。 2000.9.19 清水 立