建築工学 土木工学 建設工学
について
建築雑誌6月号 民家再生のネットワーク 建築雑誌5月号、土木学会誌6月号と「保全」に関する記述が続きますが、今月号では その対象を民家に絞った特集が組まれています。2000年と言う一つの節目を迎えた事に 少なからず関係して、今世紀を振り返りそこから新たな道を模索しようと言う風潮が高 まっているように感じます。しかしそこで重要な事は、とかく過小評価し勝ちな「過ち」 を確実に吟味し反省する事でしょう。 では我々日本人が20世紀に犯した過ちとは−。 日本人は元来「舶来物」と言う言葉が重宝されたように、新物好きな民族性を持ちます。 古くは邪馬台国卑弥呼の時代から、日本は他国の思想・文化・宗教などあらゆる優れた要 素を吸収する事に努力を惜しみませんでした。聖徳太子による遣隋使は、決して航海技術 が発達していない時代に幾人もの犠牲者を出しながら、文字通り命懸けで他国に学ぼうと したのです。歴史の浅い島国である事に加えて極東に位置する事で文化の交流自体が困難、 これらの地形的要素が異文化に対する並々ならぬ関心の高さと、それらを学び取る勤勉さ を育んだ事は想像に難くありません。今ではこの新物好きな民族性が「猿真似」と揶揄さ れる事も少なくありませんが、少なくともこの時代。この勤勉さが日本文化を形成する原 動力となったと信じる事が出来ます。 先史・古墳時代から飛鳥〜奈良〜平安…安土・桃山の時代までは、当然ながら現在のよ うに情報が瞬時に世界中に伝達されるような技術は存在せず、文化を学ぶ事とそれらを独 自に熟成させる時間とが、ある程度のバランスを保っていたのだと考えます。従って単な る真似事ではなく日本人の持つフィルターを通して異文化を消化し得ていたのです。 江戸時代に入ると「鎖国」と言う極めて閉鎖的な状況が、1600年代前半〜1800年代後半 にかけ約300年もの長きに渡って続きます。この頃は日本人の海外渡航全面禁止、ヨーロ ッパ・中国船の寄港は長崎に限定、スペイン船の来航は全面禁止と、異文化との接触すら ままならない時代でした。日本の歴史上、これほど他国との交流が規制された、逆に言え ば日本独自の文化が熟成された時期は他にないと言う事が出来、浮世絵・能・狂言などに 代表されるような豊かな庶民文化が栄華を極゚ました。度々飢饉に襲われ、経済的に必ず しも豊かではない時代だからこそ、貧しさと戦う町民・農民・下級武士など社会の基盤を 支える庶民の間で、「根性」「武士道」と言った思想・豊かな文化が生れたのです。外界 からの情報が遮断だれる事がもたらした、喜ぶべき副産物であると思います。 しかし近代化の波は1853年、アメリカ合衆国使節マシュ−・C・ペリーの来航、日米和 親条約締結を契機に開国〜明治維新〜文明開化と急激に日本の情勢を変化させ、日本人の 好奇心を大いにくすぐる欧米文化の爆発的な普及を促す事になります。欧米化と近代化が 同義、且つ至上命題として扱われ、300年分の情報が堰を切ったように一気に流れ込んで 来たのです。 しかし国策として図られた近代化は必ずしも中身の伴ったものではありませんでした。 そこには鎖国以前に保たれていた吸収と熟成のバランスは存在せず、猿真似と取られても 仕方の無い表面的な欧米化が公然と行われてしまったのです。当然ながら、江戸時代に育 まれた文化との調和が成されるはずもなく、強引な欧米化は日本の生活習慣・文化を「雑 多」を通り超えて「混沌」化してしまい、日本人の勤勉さは欧米文化に対する劣等感にす り替わってしまいました。 では日本の犯した過ちとは、鎖国〜開国と言う状況がもたらした不自然な情報過多、それ による吸収と熟成のバランスの崩壊でしょうか。それとも欧米化こそが近代化であるとし た国策でしょうか。しかし近代化ならば明治維新以前にも数多くの機会があった事は前述 の通りですが、過去行われた異国文化の組み入れは、必ず自国風土との相違点を吟味した 上で、その溝を埋めるべき適切な接点を見出すプロセスが存在していた筈です。その過程 こそが文化を文化として消化する、熟成をもたらす重要な要因だったのです。欧米で長い 歴史を経て育まれた独自の文化が、気候・風土・生活習慣の全く異なる日本でそのまま応 用出来る筈はないのです。昨日まで紋付袴に髷を結っていた人間が、突然タキシードとネ クタイに口髭をたくわえたのでは不調和にも程があり、滑稽ですらあります。オーバーで はなくそう言った乱暴な異文化への転換が様々な分野で行われたとすれば、我々の犯した 最も大きな過ちとは、近代化と銘打って日本独自の文化を放棄し、そのあり方を忘れてし まった事ではないでしょうか。それが現在の日本の、盆・正月と近い感覚でキリストの生 誕を祝う真似事が出来てしまう歪な文化の形成に与えた影響は少なからずでしょう。 生活習慣とはその地に住む人間の長年の経験により育まれる年輪のような物で、他に似る 事はあっても全く同じ習慣が存在する事はありません。便所や風呂をとっても異国にはそ れぞれの様式があり、初めて目にするものには信じられないくらいの違和感を覚えます。 日本古来の建築に出会う機会は、残念ながら現在では自ら探さなければ見つからないで しょう。それが民家ともなればますます稀少であり、代々住み続ける家に代々伝わる様式 を引き継いで生活しているような本物の「日本の民家」と言うのは、本当に数少ないもの でしょう。 ここで今月号、「民俗学と民家再生」と題された佐藤重夫氏(日本民族建築学会会長)の 記述について触れます。氏は文中で「住宅の欧米化が現在の家族崩壊を導いた」と記述し ています。欧米では基本的にプライバシーの概念が日本よりずっと敏感に扱われ、住宅は 個室の集合体とする「個室主義」が大前提として存在します。それに対して日本では木造 家屋による一空間性、空間として仕切られているのは便所と風呂くらいで、居間ひとつで 食卓を囲み、そこに布団を敷いて家族全員で寝る、と言うのがオーソドックスな習慣とし て馴染んでいました。 しかしいつの頃からか2LDK、4LDKと言った個室主義家屋が主流となり、それが住居の 質を向上させるとばかりにあっと言う間に都市から農村までその流れが広まってしまいま した。それが日本の家族コミュニティを育む習俗を崩壊させてしまったと言うのです。 自分は1978年、こうした変化の真っ只中に生れたのですが、父親の職業のおかげで転勤 族として小さな頃から比較的様々な住居で生活する機会に恵まれました。当然狭い家と広 い家がある訳ですが、幸運にも私は上記の表現を借りるならば「個室主義」と「一空間主 義」、双方の型の生活を経験しています。個室主義・一空間主義と言いますが、空間を仕 切るものによってその性質は大きく異なります。1フロアが居間と2.3の小部屋に仕切ら れていたとしても、その境界がふすまやアコーディオン扉である場合と、鍵の掛かるよう な洋風扉とでは心理的な閉塞感が全く異なるのです。 私が小学校時代に住んでいた家は、父の職場にあたる事務所と家族が生活する住宅部分と に分かれた平屋でした。事務所と住宅部分こそ重い扉で仕切られてはいましたが、住宅部 分は6畳半ほどの居間と4畳半の別室が3つ、そして居間と連結した台所と言う決して広 いとは言えない空間でしたが、そのどれもがふすまで仕切られているため家族が寝る時意 外に閉められる事はなく、まさに単一空間として、今思えばプライバシーなど微塵も考え られない生活でした。毎朝晩家族全員で食卓を囲み、たまに両親に怒らればつの悪い思い をしてもたかだか狭い家で逃げる場所がない。その頃放映されていたアメリカのホームド ラマの生活様式が妙に格好良く見えたのを覚えていますが、幼少の頃にあれだけ家族が密 着した生活を経験出来た事は非常に幸運だったと思います。 我々が一般的に「良い家」というものを想像した時、上記のような密着した空間を持つ日 本式の家を思い浮かべる人がどれだけいるでしょうか。現に私も幼少の頃から、誰から教 わるともなく欧米式の生活に「格好良い」「お洒落」と言うような肯定的な印象を持って いました。無意識のうちに日本の文化は下世話で古臭いもの、欧米は全てが斬新で洗練さ れている、と言う不思議な固定観念を持っているのです。実はこの考え方自体が先程述べ た「日本人の犯した最大の過ち」に違いないと思うのですが、ではなぜ私(だけではない 日本人の多くが)がこのような不思議な考え方をしてしまうのでしょうか。 冒頭でも述べた通り日本人は非常に新物好きです。おそらくそれはいつの時代も変わらず、 「先進」と言う言葉に我々は他には無い魅力を感じるのです。しかし鎖国によって国内と 国外で時間の進み方にズレが生じてしまってから、新しい物=欧米文化・古いもの=日本 文化と言う図式が潜在的に成り立ってしまったのです。加えて表面的な文化転換が強引に 行われてしまったために、自分達の持つ文化自体の本質を忘れてしまい、文明開化から130 年余りが過ぎた現在もそのズレと劣等感が消え去らないでいるのではないでしょうか。 以上のような背景を踏まえると「民家の再生」と言う物が如何に難しい仕事かがはっきり して来ます。古寺や遺跡のように歴史的価値の高いものを、所謂「遺産」として保護・保 全するならばそれは保全そのものが目的であるために、問題は技術的・経済的なものに限 られるでしょう。しかし民家とは文字通り人の生活する場であり、例え文化遺産級の価値 を有する建築物であっても改修後も民家としての機能を果たさねばなりません。そのため にはただ単に見かけを新しくしたり、建物として弱った部分を補強するだけではなく、時 代の接点を見出さなければならないのです。 例えば100年以上前に立てられた木造家屋を再生するとすれば、当然間取りは当時の生活 様式に合わせて設計されたものですので、そのまま復元したのでは現在の生活様式と適合 するものにはなり得ません。かたや再生を以来する所有者にしてみれば、わざわざ古い建 物を改修してまでその命を永らえたいと思っている訳ですから、内装にしろ外装にしろ全 くの別物にされてしまったのでは新築した方がどれだけ早いか分からないと言うものです。 ですから再生とは、その建物の価値を確実に吟味しつつ現在の生活様式に適応出来る様な 梃入れを行う、つまりそれが「時代の接点」を見出す作業なのです。そしてその作業を異 国文化をつまみ食いして来た我々の過去が更に複雑にしてしまっているのです。 不自然な近代化がもたらした歪な文化すらも日本人の勤勉さは熟成させてしまおうとし ています。それこそが現在の民家を再生するにあたっての最も大きな困難であると言える でしょう。歪なまま馴染んでしまった雑多な文化の中で何処を日本の文化としての整合点 と見出すのか。「混沌が文化である」と言う考え方もありますが、実際に古民家を再生す ると言う状況に直面した時に、どうしてもどこかに線を引かなければならないのです。単 に景観的な一様化を図ったり、建物の原型を再生するだけではなく、文化と文化の接点を 見出す事こそが最も難しく、また最も求められるプロセスなのです。 2000.11.3 清水 立