清水 立 卒業研究

 建築工学 土木工学 建設工学
 について

建築雑誌5月号 「建築」と「味」

「味のある」という表現を我々は用いますが、これはどうやら日本固有の表現らしいの
です。例えば英語で「taste」と言えば「味」の他にも「趣味」「嗜好」「好み」と言った
意味を持ち比較的広義な用法があるようですが、所謂「味も素っ気もない」と言った表現
に「味」という単語を組み入れるのは特異な事であるようです。ではこのような場合に
我々のいう「味」とは一体何を指す言葉なのでしょうか。

これは誌面からの引用ですが、写真の世界で良い写真を形容する表現として「空気が撮
れている」というのがあるそうです。同じく建築においても傑作と呼ばれる作品に対して
「空間がある」と言った表現を用いる事があるそうなのですが、このような曰く言い難い
印象を形容する際に専門家達は独自の感覚で言葉を当てはめる事があるようです。

「味」もそれに近い表現ではないでしょうか。例えば「味のある人」とか「味のある文章」、
反対に「味も素っ気もない絵画」と言ったニュアンスを、日本語を母国語としない人に
説明するとしたら、我々は如何なる言葉に置き換えるでしょうか。

「味のある人」とは所謂良い人悪い人と言った人格に関する評価ではなく、その人の仕草
や物の考え方、哲学・思想などを総合的(というほど定量的でないにしろ)に「雰囲気」
と言った漠然とした概念で判断し、それらを自分の物差しで評価した時にその「雰囲気」
が偶々ツボにはまるとでも言うか、それでも少しニュアンスが違うとは思いますが、薄っ
ぺらな表現を当てはめるならば「面白い人」と言う形容と根底では繋がっている気が
します。

「味のある文章」とはそれが必ずしも良文であるとは限らず、むしろ文法的に的を得ず
一目では著者の真意を捉えかねる悪文である事の方が多いかも知れません。しかし「文」
として美しかったり、その存在感が圧倒的であったりと、これも単なる良し悪しを超えた
感覚的な表現でしょう。

「味も素っ気もない絵画」を英訳すると「dull」=「つまらない」が一番近いかも知れ
ません。絵画に対する評価は「緻密」「繊細」「大胆」など構図や画法に関するものから
「華やか」「淡白」と言った色彩に関するものなど様々ですが、そのどれかが単純に優れ
ているかと言って「味わい」が生れるとは限りません。極端に言えば林檎を直方体で描こ
うとも空を黄色に塗り潰そうとも、反対に対象を可能な限り緻密・正確に表現しようとも
「味わい」とは直接結びつかないでしょう。

簡単に三つの例を挙げましたが、そのどれにも共通する事柄があります。「味わい」とは
そう形容される人の意思、物であればそれを創造した人間の意思とは無関係に生れる評価
だと言う事です。

では「味わい」を生み出すための要素とは一体何なのでしょう。今月号の巻頭対談(林望
氏:作家、書誌学者・藤森照信氏:東京大学生産技術研究所教授)ではその一つの要素と
して「時間」が挙げられています。対談では論点を「建築」に絞っているため、先に挙げ
た三つの例では上手く当てはまらない結論かも知れませんが、確かに我々がある物に対し
て味わいを見出す時、その対象物が如何なる時間を経て現在に至っているのかと言うのは
重要な要素の一つであるかも知れません。コンパクトディスクがこれだけ普及している今
でさえ尚LPを信奉する人々が後を立たないのは、言うまでも無くLPが持つ独特の味わ
いを求めるからであり、その味わいを生み出すのは端的に言って「古臭さ」、つまり時間
でしょう。音質や機能だけを見れば明らかにLPがコンパクトディスクに勝る筈が無いの
ですが、アナログならではの温かみや懐かしさが手伝って不便な再生などの過程全てを愛
する収集家が今も多く存在するのです。日本ではあまり一般的な話ではありませんが、
アンティークに対する欧米の人々の関心もそれに近いものではないでしょうか。

海外の小説などを読むと(特にイギリス人作家のものが多いのですが)古い家を安く買い
取り、好みに合わせて改築した上で住むと言う行為が日常的に行われています。これは
日本ではまず見られない行動でしょう。まず日本では同じものを長く使い続けると言う
行為自体美徳としない趣があります。車や家電製品・家具であっても壊れればそれを修繕
して永らえるより先に、新しいものを手に入れようとするのが一般的であるように思われ
ます。「おさがり」と言う言葉があるように、基本的に使い古されたものを低く見る考え
方が根付いているようです。よって文化遺産でもない民家を百年単位で手を加えつつ住み
つづけると言う行為は、都市部においてはほぼ全く見られないと言って良いと思います。

「将来はマイホーム」と言うのが一般的なサラリーマンの目標であるような言い方があり
ますが、そのマイホームであっても日本ではおそらく20〜30年が寿命である一過性の
ものでしかないのです。それが良い悪いと言う評価は全く別問題ですが、「味わい」を
生み出すのが時間であるとするならば日本において建築物に「味」を見出すのは困難で
あるかも知れません。

対談では単なる時間が味わいを生むのではない、と言うような事も述べられています。
時を経る過程で熟成されたものだけが味わいを持ち、単に古く廃れて腐敗するのとは一線
を画す、と言うのです。それらを食品にかけて「発酵」と表現しているのですが、果たし
て建築を対象とすると「熟成」とは如何なる状態なのでしょうか。

それを知るには実際に熟成し味わいを有するに至った建築物に触れる他ありません。
ここからは飽くまで私の個人的な感想なのですが、私は日本で建材としてよく見られる
トタン(亜鉛をめっきした薄い鋼板)が嫌いです。新しくてもあまりに味気なく、かと
言って古びても錆びしか身につかず腐敗して醜い。アルミサッシも同じ印象です。これら
を対談中の言葉を借りて表現するならば、所謂「発酵せずに腐敗する」建材なのでしょう。
しかし悲しいほどこれらの建材が多く見られるのは、その使い勝手が良いからでしょうか。
同じ建材でも木材やレンガなどは年月と共に熟成し、建築として然程優れていなくとも
それだけで何とも言えない「味わい」を生み出します。私は海外旅行の経験がないので
実体験として語れないのですが、映画や写真などで目にする限り、ヨーロッパに見られる
町並みと言うのはそれだけで絵画のような美しさを放っている気がします。おそらくそこ
に長い年月に渡って存在し続けて来たのであろう民家・教会・路地など、そのどれもが
見事に時間を年輪に変え熟成に至っているのです。それは建材は勿論の事、生活様式・
建築様式が異なるための特徴であると言えばそれまでなのですが、「物」に対する考え方
の違いそのものがこのような差異として現れているように思えます。日本のように建てて
は壊す、所謂「スクラップアンドビルド」と言った風潮からは決して生れない景観でしょう。

それらに単純な憧れを持つ事は飽くまで私の趣味の問題なので「それが日本に必要だ」
などとは言えませんが、現在行われているような開発(大小関係なく)が、果たして100
年・200年と言う単位で考えた時に、一体どれだけの価値を持つのだろうかと言う危惧は
残ります。確かに「建てては壊す」と言う行為を繰り返せば建設業者の利益は保証され
ます。一つの物を大切に手入れしながら代々使い込むと言う考え方は、資本主義に相反
するものかも知れません。ですがようやく環境に対する配慮がさかんに叫ばれるように
なった今、「物を大切にする」と言う基本的な事をもっと真剣に捉えるべきではないで
しょうか。それは単に古いものを愛する懐古主義のような物ではなく、家なら家、家具
なら家具に積み重なる時間を否定的にではなく一つの歴史として重んずる、非常に豊かな
考え方だと思います。

                              2000.10.18 清水立