岩手県立大学副学長塚本哲人先生のお祝いの文章

   「科学談話会」に寄せて     − その発足、昭和23年のこと −                      岩手県立大学副学長 塚本哲人  「科学談話会」は昭和23年(1948)5月に誕生したと伺っています。この談話会の歴 史は半世紀をまさに超えようとしています。この間、毎月1回欠くこともなく例会を開催 されてきたと知って、その伝統に驚くとともに、言葉では表せない敬意をこの会に抱いて います。この敬意が筆をとらせたことは申すまでもありません。  「科学談話会」が結成された昭和23年という年は、私にとって忘れられない年である ことに気付きました。大正生まれの「旧制」育ちの私は、この年の3月31日に、卒業生 として経験した最終の卒業式に臨みました。岩手県立大学の生みの親でもある故工藤前知 事は万事にわたって大先輩なのですが、兵役とキリスト教青年会リーダーとのため、卒業 を延ばされてこの卒業式に参列されたのでした。  あのころの東京は衣食住のどれもが窮乏していました。空襲で焼け残った親戚から卒業 祝にもらった中古背広一式で私は式に出席しましたが、復員と称した日本の軍隊から釈放 される時に給付された軍服を着た卒業生も少なくありませんでした。そして、式後、大学 当局の心尽くしとかで、講堂に隣接するグランドで飲んだ割当のビール1杯のことが妙に 頭にこびりついています。  しかし、私たちの心の中には躍動するものもあったようです。例えば、私の場合、民主 化が絶対的価値となった戦後のこの国では、ジャーナリストと大学教員の社会的地位と役 割は必ず向上するものと確信していました。その片隅にでも地歩を得んものと、研究室に 残る私は、前途の希望に胸をふくらましていたと、今に鮮明に記憶しています。  また、この「盛岡」に初めて出会ったのも、昭和23年でした。恩師の紹介状をもって 盛岡駅に降り立ったのは8月上旬の暑い日でした。恩師の門下と自認される今は亡き森嘉 兵衛先生のお宅に行きました。どのような乗り物に乗って行ったのか、先生のお宅がどの 辺りであったのかを全く覚えていません。ただ先生のお宅に泊めて下され、親身になって 盛岡近郊農村を克明に御案内いただいたことだけはよく記憶しています。なお、次にお会 いしたのは、先生が岩大の教育学部長のころ。お忙しい中、私の依頼を快諾されて、東北 教育学会で平泉中尊寺のお話をしていただきました。このときにも、戦前派の恩師と森先 生の「信頼」関係についての無限定的ともいえる深さをあらためて知った次第です。  「科学談話会」は、以上のような昭和23年のころを、私に思い出させてくれたのでし た。

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