岩手大学教育学部菅原正和先生のお祝いの文章

  科学談話会との邂逅 岩手大学教育学部  菅原正和  今から31年前、1977年(昭和52年)の春、4月1日の盛岡は雪降りだった。私と家内は、 新婚間もない家財道具を札幌から盛岡へと輸送し、盛岡駅に降り立った。まだ若かった私 の胸は、幼いころを過ごした県南奥州の地(現奥州市前沢区)への懐かしさと、自然が美 しい小京都盛岡にある岩手大学で始める研究・教育(心理学)に夢を馳せ、希望にあふれ ていた。 赴任して間もなく、当時日本学士院会員で農学部の科学談話会幹事をしておられた菊池修 二先生(故人、岩手大学名誉教授)から、科学談話会の歴史についてご説明をいただき、 高名な統計学者石川栄助先生(故人、岩手大学名誉教授)が担当しておられた文系学部の 幹事を引き受けるようにとのご依頼を受けた。爾来、今日まで31年間、多くの学問領域と 第一線の研究に触れることが出来、同僚の幹事の先生方・講師の先生・歴代市立図書館長 と館長補佐・職員並びに会員の皆様に心から感謝申し上げます。 科学談話会の各記念誌からは、会を創設された今は亡き先人の高い志と理念が生き生きと 伝わってくる。戦争で疲弊しきった故郷に追い討ちをかける様に、二年連続巨大台風(昭 和22年9月キャサリン台風と昭和23年9月アイオン台風)が襲い、アイオン台風襲来の際は、 岩手県だけでも688名の死者を出している。科学談話会創設の理念は、瀕死の郷土を科 学の力を結集して再建しようとするものであった。今日で言う大学の所謂「地域貢献・社 会貢献」先駆者の最たるものだったのである。 人間の幼児期の記憶は、何歳から可能なのであろうか。心理学者の記憶研究では、平均 3歳からであるとされているが、事実との照合においては個人差が大きく三島由紀夫は2歳 の体験も鮮明に記憶していると記している。私の幼児期の鮮明な記憶は、もの悲しく、し ばしば子どもの頃の悪夢として登場した。当時国道4号線は中心街を除いては殆んど砂利 道で、前沢町−水沢町(未だ市になっていなかった)間を馬車が行き来し道路端では子ど ものキャッチボールが可能だった。ある朝目覚めて庭を見ると、いつも見えるはずの東北 本線の線路と国道4号線が忽然と消滅し、門の前を大きな川が流れていた。濁流の中には 牛や犬と犬小屋、嬰児篭(旧乳幼児をいれておく藁製の篭)、何枚もの畳等が浮き沈みし て悲しげに流されていた。 後に小学校に入ってから、この悲惨な光景が昭和23年9月の アイオン台風と呼ばれていることを知った。 戦後の厳しい逆境を乗り越えて、日本の社会と岩手を再建された先人のご辛苦に比べれば、 今日の経済的、研究環境の悪化とそれに伴う多忙さと苦労は比較にならない。 来年3月、 私は32年間の大学勤務を終えて定年を迎える。しかし退職後は、一心理学者として蓄積し てきた知的財産を科学談話会等を通して少しでも社会的に還元しなければ先人に申し訳な く、学者としての一分がたたないと感じる今日この頃である。

  科学談話会のページの始めに戻る。