岩手大学(工学部)名誉教授宮本裕のお祝いの文章

  科学談話会70周年を迎えて    岩手大学名誉教授  宮本 裕  科学談話会は、終戦後カスリン台風などによる大水害をきっかけとし昭和23年5月に、 荒廃した国土を復興させようと若い研究者たちが集まり結成された会だった。 最初は自分たちが研究したことを発表しあい互いに切磋琢磨するミニ学会みたいなもので あったが、次第に啓蒙活動に力を入れる会に変わっていった。 その研究の一部は北上川五大ダム建設につながっていったと考えられる。  私は昭和46年4月岩手大学赴任以来科学談話会に参加してきた。 この会の創設に深くかかわられた故小川博三元北海道大学教授に学生時代からも一方ならぬ お世話を受けてきたので、できるだけこの会の世話をしてきたのである。  当時の例会の会場は岩手医科大学の付属病院棟の7階の会議室だった。 1階にはまだ下足番がいて、そこで靴をスリッパに履き替えたものである。 岩手大学農学部の幹事は亡くなられた菊池修二教授で、岩手大学教養部教授の石川栄助先生 は教育学部の会員もまとめて世話してくださった。 会場が近いので、岩手医科大学の多数の先生方が参加され、熱心な質疑応答が続いた。 中でも八木舎四教授は専門用語をまじえながら医学会における質疑のような鋭い質問をされる ものだから、講師の中には真剣な質疑応答が続いてから最後には怒ってしまう方もいた。  思い出すのは、その頃に秋田駒ヶ岳の噴火があって、故岡野磨瑳郎先生(当時岩手大学 教養部教授)が秋田に所用があって、帰り道に夜の仙岩峠を越えるべく車を走らせていると、 闇に動物の光る目玉を見たと講演の中で述べられたことである。 後から振り返ると、あれは秋田駒ヶ岳の噴火を予知した狐や狸のたぐいが活動していたのだろう。 たまに見かける動物たちがあのときは特別に多かったと、災害時の動物の予知能力と異常行動 を指摘されたことが印象に残っている。はたして、その動物の異常行動の後に噴火が起こった のである。  私は科学談話会の幹事として、菊池修二先生から昭和48年10月に「科学談話会25年の歩み」 を作る仕事をまかせられた。 「科学談話会25年の歩み」は、以前に当番幹事の盛岡気象台が作った記念資料を参考にさせて いただいた。 以後5年ごとに「科学談話会の歩み」を作るようになった。なお、「科学談話会の歩み」発行 も講演回数の中に加えたのは、この「科学談話会25年の歩み」の作成の時に菊池先生から指示 されたものであった。  昭和48年5月から例会の会場は、できたばかりの高松の池畔の盛岡市立図書館に変わった。 それ以前の会場は主に岩手医科大学会議室、時には岩手大学の教室と会場が変わり、 会場を固定した方が運営にも都合がよいと考えられたことと、盛岡市の文化事業とすべく、 図書館の佐藤好文氏と小森一民氏の一方ならぬご尽力があったからである。 それから、小森一民氏は市立図書館長となられ、科学談話会の温かい支援を続けられた。  農学部、工学部、気象台、教育学部(石川栄助先生が退官されてから教養部の会員はなく なり教育学部の会員のみとなり、教養部は人文社会科学部に改組された)、岩手医科大学と いうサイクルで5年に1度回ってくる当番幹事が、その年の月例会の企画、会員の連絡、会費 徴収、決算報告等をしてきた。  科学談話会の創設には岩手山測候所廃止反対運動が1つのきっかけであり、気象台は熱心な 団体会員であったのだが、転勤者が多く会員数が減り、幹事から退会をもちかけられた。 私は何度か気象台に直接出向き説得したが、気象台の科学談話会を辞める意志はかたく退会して しまった。 一時期は気象台OBの工藤敏雄氏が気象台幹事の代わりを務めてくださったが、工藤氏は亡くなってしまった。 5年に1度の当番幹事が4年に1度回ってくるのでは忙しくなるし、新しい血を入れるため にも新団体会員の組織を作ることが必要であった。こういうわけで岩手県立大学に新団体会員 組織を作り、平成10年4月から1年間県立大学の高橋富士雄先生に例会のお世話をしていた だいた。 岩手県立大学においては、高橋富士雄先生のあとを高野淳一先生が幹事となって世話をして くださっている。  毎月の講演を聞くと、講師の人柄とか説明のテクニックあるいは発想の転換などで良い刺激 を受け、自分の研究や講義にも参考になることが少なくなかった。ある講師は講演の中に 美しい花の写真を入れて、話の流れを変えるときの一種の栞のように使用していたが、 これは自分の講演にも利用させていただいた。  以上長々と述べたが、発会当時の会員も少なくなり、当時のことを知る人も減ってきたので、 科学談話会の歴史の参考になるかと思い書いたものである。 なお、今年の3月まで盛岡市立図書館で科学談話会の世話をしていただいた大矢 修氏から 下記のような感想をいただいたので、ここに記載しておく。 ・沢山の先生方とめぐり会え、更にいろんなお話をお聞きして、自分の教養の幅が広がりました。 ・幹事の先生方も非常に協力的で、スムーズに毎月の談話会を開催することが出来ました。 ・年に1度の幹事の先生方との杯を交わしての懇親会は、更にいろんなお話が聞けて楽しかった です。 ・私なりに参加者を増やす方策を考えて、市職員が皆見ることが出来る掲示板に掲載するなど して、参加者が毎回20人くらいになったことは良かったと思っています。  この会が70年も続いたということは感動的なことである。まことにめでたいことである。 人間なら古希になるわけである。宮沢賢治の「革トランク」の言葉を借りるなら、 こんなことは実にまれなことなのだ。  最近、菜園地区で教育会館が建て直された。科学談話会の創設者の一人の小川博三先生は かねがね、盛岡城跡公園から岩手山が見えなくなったことを嘆いていた。その障害となっていた 教育会館が低く建て直されたので、小川先生をはじめとする関係者の努力がむくわれた ことになった。 これも科学談話会の功績の一つかもしれない。 啄木の石川啄木の「不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心」が、私の旧友に よると 「空に吸われしではなく、ビルに吸われしである」いう感想も過去の話となったのだから。  この会がかくも長く続けられたのは、科学を愛する市民が毎月の講演会に集まって熱心に 討論に参加したことと、5年に一回の世話人幹事の努力もさることながら、なによりも文化都市 盛岡を育てる市立図書館の支援が大きかったからと思う。 盛岡市立図書館の日頃から変わらぬ協力と支援を感謝して、この文章をまとめる。

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