岩手大学工学部宮本裕のお祝いの文章

  科学談話会60周年を迎えて    岩手大学工学部  宮本 裕  科学談話会は、終戦後に続いた台風による大水害をきっかけに昭和23年5月に、荒廃し た国土を復興させようという若い研究者たちが集まって結成された会だった。最初は自分 たちが研究したことを発表しあって互いに切磋琢磨するミニ学会みたいなものであったが、 次第に啓蒙活動に力を入れる会に変わっていった。  私は昭和46年4月岩手大学赴任以来科学談話会に参加してきた。この会の創設に深くか かわられた小川博三元北大教授に学生時代からも一方ならぬお世話を受けてきたので、そ の縁もあってできるだけこの会の世話をしてきた。  当時の例会の会場は岩手医科大学の付属病院棟の上の会議室だった。岩手大学農学部の 幹事は亡くなられた菊池修二先生で、岩手大学教養部幹事の石川栄助先生が教育学部の会 員もまとめて世話してくださった。会場が近いので、岩手医大の多数の先生方が参加され、 熱心な質疑応答が続いた。医大の八木舎四教授は学会の質疑のような鋭い質問をされるも のだから、講師の中には最後に怒ってしまう方もいた。  私は科学談話会の幹事として、菊池修二先生から昭和48年10月に「科学談話会25年の歩 み」を作る仕事をまかせられた。「科学談話会25年の歩み」は、以前に当番幹事の盛岡気 象台が作った記念資料を参考にさせていただいた。以後5年ごとに「科学談話会の歩み」 を作るようになった。なお、「科学談話会の歩み」発行も講演回数の中に加えたのは、こ の「科学談話会25年の歩み」の作成の時に菊池先生から指示されたものであった。  昭和48年5月から例会の会場は、できたばかりの高松の池畔の盛岡市立図書館に変わっ た。それ以前の会場は主に岩手医科大学会議室、時には岩手大学の教室と会場が変わり、 会場を固定した方が運営にも都合がよいと考えられたことと、盛岡市の文化事業とすべく、 図書館の佐藤好文氏と小森一民氏の一方ならぬご尽力があったからである。  農学部、工学部、気象台、教育学部(石川栄助先生が退官されてから教養部の会員はな し)、岩手医大というサイクルで5年に1度回ってくる当番幹事が、その年の月例会の企画、 会員の連絡、会費徴収、決算報告等をしてきた。  科学談話会の創設には岩手山測候所廃止反対運動が1つのきっかけであり、気象台は熱 心な団体会員であったのだが、転勤者が多く会員数が減り、幹事から脱退をもちかけられ た。事情を理解した私は何度か気象台に直接出向き、気象台が科学談話会を辞める意志を 確認した。5年に1度の当番幹事が4年に1度回ってくるのでは忙しくなるし、新しい血 を入れるためにも新団体会員の組織を作ることが必要であった。こういうわけで県立大学 に新団体会員組織を作り、平成10年4月から1年間県立大学の高橋富士雄先生に例会のお 世話をしていただいた。  毎月の講演を聞くと、講師の人柄とか説明のテクニックあるいは発想の転換など良い刺 激を受け、自分の講義にも参考になることが少なくなかった。ある講師は講演の中に美し い花の写真を入れて、話の流れを変えるときの一種の栞のように使用していたが、これは 自分の講演にも利用させてもらった。  いろいろな講演の思い出があるが、岡田幸助先生がそれらについて述べてあるので、な るべく重複しないものを取り上げてみたい。海外旅行の話が印象に残っている。たとえば ドイツのニュルンベルクのゲルマニア博物館で手術道具(歯科の道具だと記憶している) を見たということを話してくれた医大の先生の話を聞いた私は、後にその博物館でそれと おぼしきものを見てきた。またある医大の先生はアメリカ留学をしたとき、映画館の窓口 でチケットを注文する英語が通じなくとうとう映画を見られなかったという某大学教授の 話をされた。私もパリで盛岡にもあるファスフードの店で注文しようとしたら聞き取れな いという態度をされ、紙とペンさえあればと思ったが、しばし考えてから、その商品に関 係のあるドイツの北の町の名前を言ったら、にっこり笑った若い売り子から了解という顔 をされたことがある。どうやらアクセントの位置が違っていたらしい。久木田禎一氏の言 葉「日本人の旅行は確認の旅」というのはつまり、絵はがきやガイドブックにある凱旋門 とかハイデルベルクの古城を見て安心してそこで写真を撮りたがるということであろうか。 確認も現地に来たという実感を味わうには大切であろうが、自分なりの発見もまたあって もよいものである。科学談話会の講演がきっかけで確認や発見やそこから広がる自分の心 の世界というものがあると思う。ユニークだったのは大沢博先生の「啄木短歌の秘密」だ った。「東海の」ではじまる短歌にこそ啄木の愛する多くの女性が秘められているという 説を述べるかたわら、砂山の砂を掘っていたら「ぴすとる」が出てきたという歌を、あれ は啄木の幼なじみの女の子が死んで、その女の子恋しさに土葬を掘ったら白骨が出てきた という体験を歌ったものだと解説した。この解釈が正しいかどうかはともかく、ユニーク 性という点では大沢先生の説は、欧米に行ってもひけをとらないのではないかと思う。ド イツの地理学者ウェーゲナーの大陸移動説が最初あまりに大胆でその原因がよく説明され なかったため当時は受け入れられなかったが、現在では地震の原因となるプレートテクト ニクス理論と表裏をなすものとして認められている。菊池修二先生が当時はなかなか日本 人が行かれなかった中国の奥地の旅行記を話されたときは、内容が多く菊池先生も力が入 って延々と講演が続きとうとう午後9時を過ぎるまでになってしまった。菊池先生がモン ゴルの馬乳酒を飲んだときの感激を味わいたくて、後に私もキルギスに行ったとき現地人 のテントで飲むことができた(現在は東京のモンゴル料理の店で飲むことができる)。こ の長い講演をされたあと、それからしばらくして菊池先生は旅立ってしまった。家族と、 あれは菊池先生が科学談話会の皆さんにお別れの言葉を述べた機会だったのだろうと話し 合ったものだった。  この会がかくも長く続けられたのは、科学を愛する市民が毎月の講演会に集まって支援 してくれたこと、5年に一回の世話人幹事の努力もさることながら、なによりも文化都市 盛岡を育てる市立図書館の支援が大きかったと思う。盛岡市立図書館の日頃から変わらぬ 協力と支援を感謝して、この文章をまとめる。

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