仏教こぼれ話

ここでは、自分で勉強した仏教に関するメモを書きたいと思います。
自分のメモですから、他の皆さんには興味がないかもしれません。<そのときはごめんなさい>


今NHKテレビで、特別番組ブッダを放映しています。
毎月1回のシリーズで3回まで放映されました。
それを見て関連のことを本で調べたりしています。

クシャーナ朝のインド支配により、原住民のインド人が略奪や暴力的支配に苦しんで
その結果、仏教を信ずる人が増え仏像も作られたと説明されていました。
すなわち、クシャーナ朝は1世紀半ば〜3世紀前半に、インドや中央アジアを
支配した古代王朝です。

これは、紀元前2世紀後半に東方から移動しバクトリア地方を征服した大月氏が、
領内に5翕侯(きゅうこう、諸侯)を置いたのです。5翕侯については、彼らを土着の
民族とみる説と、大月氏の一族とみる説とがあるようです。

1世紀半ばごろ、5翕侯の一つを出していたクシャーナ族が
クジューラ・カドフィセース(カドフィセース1世)のもとに強大となり、
他の4翕侯を倒して自ら王と称し、南方のガンダーラ地方にまで征服軍を進め、
その子の代に領土をさらに北インド中部にまで広げました。

この王朝にカニシカ(カニシュカ)王が登場すると、都をガンダーラ地方の今の
ペシャーワルに置き、中央アジアから中部インドに至る大帝国を統治したというのです。

NHKテレビではカニシカ王は大いにインド人を苦しめたため恐れられ
たそうですが、晩年どういうわけか、彼はアショーカ王と並ぶ仏教の大保護者となり
今に知られています。

西暦230年に魏に使者を送った大月氏王の波調は、
クシャーナ朝末期のバースデーバとみられています。

このころから王朝は、イランに興ったササン朝ペルシャの攻撃を受けて領土の西半
を失い、地方政権にその東半を奪われて急速に衰退し、3世紀半ばごろ滅びて
しまいます。

 クシャーナ朝の領土には、インド系、イラン系、ギリシア系、中央アジア系の
諸民族が住み、民族と文化の融合がみられました。

NHKテレビでも放映されましたが、貨幣の銘文にはギリシア語、イラン語、インド語が
書かれ、貨幣の裏面に打ち出された神像には、イラン、メソポタミア、ギリシア、
ローマの神々とヒンドゥー教の神々、仏像などが混在していました。

 クシャーナ朝時代の西北インドでは、当時伝統的な小乗仏教の諸部派
が隆盛であったが、新たに興った大乗仏教が、この地の諸民族に受け入れられ
栄えたわけです。

またギリシア・ローマの造形思想と技術が流入したこの地で、1世紀末ごろ初めて
仏像が刻まれ、ガンダーラ美術が起こったのです。

一方、ほぼ同じころ、帝国南東部の都市マトゥラーでも、独自のインド的様式をもつ
仏像彫刻が作られています。これらは互いに刺激を与えながら交流を深め
仏像様式を作り上げていったようですが、テレビではマトゥラーでまず釈迦像を
作ろうとするアイデアが生まれ、最初の釈迦像は日輪だったのを、ガンダーラ美術で
具体的な釈迦像へと具体化していったと説明していましたが、学問的にはこれから
のテーマなのでしょうか。

 クシャーナ帝国は、中国、インド、イラン、ローマといった大文明圏を結ぶ交通路の
中央に位置し、したがって経済的に繁栄したのです。帝政期ローマの文献は、当時
ローマからインドに大量の金が流出したことを伝えているが、ちょうどこの時期に
クシャーナ朝によって大量の金貨が発行されている。このクシャーナ金貨の重量基準は
ローマ貨幣の基準に従っているそうです。昔とはいえ、案外世界的規模で
貿易や文化の交流があったのでしょう。

仏像が作られた、この地方のまとめとして整理しておきましょう。
 ガンダーラではヘレニズム・ローマ文化の影響を受けて西方的な色彩の濃い
仏教美術が行われ、灰青色の片岩または千枚岩による石彫が作られ、
一方、この王朝の東方の拠点都市マトゥラーではインド古来の伝統に基づいた
赤色砂岩による仏教およびジャイナ教彫刻が作られました。

 元来クシャーナ族はイラン系宗教を信奉していたと思われるが、
カニシカ王の外護のもとに当時繁栄をみた都市の商業資本が
仏教やジャイナ教の造寺造塔を推進したのでありましょう。

さて、前漢武帝が匈奴に対抗するため、匈奴の仇敵月氏の存在を聞いて、
匈奴挟撃の同盟を月氏と結ぶため、張騫を使者として派遣したわけですね。
あのとき大月氏は、肥沃で外敵の少ない地に安住していたので、匈奴と戦う
意志はなく、漢の申し出を断りました。

その後、月氏は野心的大王国に成長し、インドを苦しめ、その結果
篤い仏教信仰が生まれ、芸術的な仏像が創作されたのでしょう。

世の中が乱れたり、異民族に侵略されたり、支配されて
人間も人生を考え、心のやすらぎを求めて
いっそう宗教心に傾くのでしょうか。

そうしてみると、キリスト教もローマ支配のヨーロッパにおける
ゲルマン人や(フランス人の先祖の)ゴート人の救いを求める心によって
大いに広まっていったのかもしれません。

シャカ族の子孫がネパールに生きていると民放番組で放映されていました。
それによると、シャカ族の末裔はモンゴロイドであったとか。
自分たちこそシャカ族の子孫であるという一族の人々の中の赤ん坊には、
蒙古斑(お尻の青あざ)があった。

これが本当なら、仏像はインド人をモデルにしたもので本当の釈迦ではないことになる。
髪の毛もちりちりのお釈迦様の顔は当時のインド人の顔だったのでしょうか。

もっとも最初の仏教では、お釈迦様の遺言どおり、仏像を作らなかったのですから、
本当の姿はわからないのです。

最澄(天台宗)と空海(真言宗)
 空海は完全に密教ですが、最澄は密教も学んだ発展途上の宗教人だったのです。
最澄の比叡山延暦寺からは、その後多くの宗教家を生む。
(ブラックホールではなく、ホワイトホール)
たとえば若き日の法然、親鸞、栄西、道元らはみな比叡山で修業した。 日蓮も天台宗の寺で出家した。
それに対して完成された空海の真言宗からは誰も新しい宗教を生み出す弟子は生まれなかった。

偉い空海からは独立していく弟子は生まれなかった。
最澄のように頼りない先生は優れた弟子をもつことができる。これは某学科のある教授の
弟子たちが活躍しているので、聞いたら弟子本人たちが言った言葉でした。

寄付を強要するのは宗教ではない 瀬戸内寂聴
なぜ墓をつくってお彼岸にお墓参りに行くのか。それは忘れないためである。
亡くなった人の魂は、暗いお墓の中でじっとしてはいないと思う。いつも愛する人のところに来ている。
守護霊なんてあやしいことを言う人がいるが、あれを信じては駄目。あれはお金儲けのために言っていることである。
もし守護霊というものがあるとすれば、それは愛する人の霊である。
愛する人の霊があなたのことが心配で、肩のあたりに来てくれるのである。
死んだ人の祟りがあるという人がいるが、そんなことは絶対にない。
死んだ人は仏様になるのであるから、祟りなんかはない。
仏教では、魂は仏様になる。仏様というのは人を困らせたり、いじめたりしない。だから仏様なのである。
愛する人に死に別れた方は、できるだけ多く、その人を思い出してあげよ。
愛する人の魂は死ねばあなたと一体となって、いつもあなたの中に住んでいる。
この寂聴の言葉は貴重である。真実と思う。

賽の河原信仰 後の人の作
お釈迦様の生まれたインドでは、亡くなった時に5歳以下の子どもは、
何にも汚れがないから、清めなくてもいいという。
世俗に汚れた普通の大人は、遺体を聖なるガンジス川の水で清めたりして、
それから薪で焼いて清めて灰にする。
しかし、5〜6歳以下の子は焼きもしない。
なにも世間の汚れに染まっていないから、まっすぐ極楽に行くと信じている。
これは現代インドのヒンドゥー教の考え方だが、おそらく仏教でも同じだったろう。
それなのに、日本では水子供養とか地蔵信仰というものがある。
すなわち死んだ子どもが、冥土の三途の川のほとりの河原(賽の河原)に行き、
そこで石を積み塔を作ろうとするが、大鬼がきてこれをこわし、困りはてているところに、
地蔵菩薩が現れて子どもを救う、というもの。
日本版「シジフォスの岩」である。
これは、飢饉でやむを得ず生まれてきた子の命を奪った親たちを見て
仏教者たちが、貧乏でやむを得ないと思いつつ、命の尊いことを教えるため
作った話であろう。親の方も失った子どもに対して後ろめたい気持ちもあるから
この伝説を受け入れてしまったのであろう。
なお、「賽の河原」、「賽銭」、「賽の目」は、同じ「賽」の字であるように
「塞の神」といえば「道祖神」のことであった。
そして「賽」の原義は、「塞の神」への「奉りもの」の意で、「賽銭」をさした。
また、賽子(さいころ)は、神との関わり合い、神占の道具であった。
だから同じ賽の字が使われるのである。
衆生の身代わりになって地獄での苦しみを救い、子どもの姿で現れると考えられた
地蔵菩薩と、在来の道祖神信仰が習合したものだと考えられるのが
「賽の河原」の地蔵信仰である。

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