密教
 メモです

密教といえば空海 でも最澄も早くに密教をもちかえった
弘法大師入唐1200年記念展を見てきたので、
この機会に密教について調べたことをメモしておきます。

胎蔵マンダラ(コーラス型)と金剛界マンダラ(ドラマ型)を
セットにして日本に持ち帰ったのは空海。実は2つをセットにしたのは
中国人のアイデアであった。

元祖インドから直輸入したチベットでは、金剛界マンダラのみである。
金剛界マンダラでは、同じ仏が違う場面状況で何度も登場する。
これに対して、胎蔵マンダラでは本尊の胎蔵大日如来をはじめ407尊
という大多数の仏たちが総出演する。

東洋では、自分と違った思想や文化を完全には否定しないで、
どこかに長所でもあれば、それをとりこんで、その長所を生かして使っていこうとする。
仏さまと神さまを一緒におまつりしたり、民間信仰を仏教に取り入れたりするのは、
日本独特の習慣というよりも、東洋文化の特色というべきであろう。
我々の回りにも、日本固有のものだと信じているもののなかに、古代インドの哲学や、
シルクロードの風俗や、中国の思想や習慣が、形を変えてまぎれこんでいるのである。
密教はこういった東洋思想の特徴をそっくり受けついでいる。
密教はその根底に大乗仏教の思想をふまえた上で、古代インドから中国、日本の
いろいろな宗教や哲学を包み込んでいる。
現在、真言宗のお寺で、星祭りの祈祷が行われているのも、もともとの密教が
天文学と密接な関係をもっていた名残である。
だから、密教はインドの民族信仰から、呪術、妖術、さらに自然科学までも包み込み、
それらを整理して、全体の体系の中に組み入れているのである。
(三十三間堂のさまざまな神々 七福神 寅さんの帝釈天
それらを見ると、インドや中国や日本の神様がごちゃごちゃになっていることがわかる)
 顕と密
仏教の教えを表面的な意味で受けとるのが「顕」
それから一歩踏み込んで、本質的な理解に達するのが「密」
例として
日常生活のなかで、嫌な人間だと思っていた人に対して、
親しくつきあってみると、本当は気さくないい人だった
という経験がよくある。
この場合
最初の表面的な評価が顕で、後の経験を通じての見方が密
ということになる。
この場合、時間がたって、その人が別人に生まれ変わったわけではない。

弘法大師のたとえ話
道ばたの雑草を見て、何も知らない人は、それを踏んで行ってしまうかもしれないが、
植物や薬草に詳しい人がその草を見て、これは腹痛に効く、あるいは神経痛の特効薬
だと知るのである。
あるいは、じゃまだと思いけとばしてしまう石にも、岩石鉱物の知識のある人が見て、
その中に貴金属の要素を発見することがある。
こういうふうに、同じものを見ても、本質的なものを見抜く目をもった人と
そうでない人とでは、ものの値打ちが反対になってしまう。
経典をじっくり読んでも、通り一遍の理解しかできない人もいるし、言葉の奥に
ひそんでいる深い意味をしっかり把握する人もいる。

マクロコスモス(大宇宙)とミクロコスモス(自分)
仏法は、はるか遠い世界にあるのではなく、自分自身の中にあるのである。
マクロコスモスの中にミクロコスモスがあり、またミクロコスモスの中に
マクロコスモスがある。
仏教では、俗なる現実の世界から、聖なる世界へと進んでいく。
密教は、現実そのものが理想の世界だと考える。
俗なる現実のなかに、聖なるものが象徴的に存在すると考えてもよい。 

 最澄と空海
最澄の比叡山から日蓮も法然も親鸞も栄西も道元も出てくるのに
空海の高野山からは目だった宗教家は出てこない。
最澄が偉いのかと思ったら、そうではなく
未完成の最澄のお寺だから、弟子がみたされず新しい仏教を興していったのだろう。
その点、空海はえらすぎて真言宗を完成させてしまったから弟子達はすることがない。

最澄はともかく何でも経典を集めた。
お相撲さんに、技のデパートと呼ばれた力士がいましたが、
さしずめ比叡山は経典文献のデパート。

密教の曼陀羅も、ある意味ではデパート
中心の大日如来の回りを、インドゆかりの神や仏でぐるり囲んだ。
そうしてしだいに、見ごたえのあるように整えられていった。
水滸伝や三国志、あるいは日本なら、四十七士の話や次郎長伝のように
後の人が追加したり整えていった。セーラームーンもそうではないかな。
複数の方が深みが出てくるし、迫力があるから。
ゴレンジャー(かなり古い)、キャンディーズ(これも古い)
モーニング娘、女子十二楽坊
 複数効果をねらっているのは曼陀羅が手本かもしれない。  

密教とは
文字よりも経典よりも、感覚的なもので体得するようにできている。
曼陀羅あり、音楽(声明)あり、香を焚くetc. 
こうして真理の世界にムード的に入っていく。
フィーリング化を通じて真理に入っていく。

東京国立博物館で見てきた
独鈷(とっこ)、三鈷、五鈷
これらは本来は武器だった。クジラ捕りの銛(もり)の形をしている。
それを装飾化させ、先端をとがらせず内側に向けるように直した。
仏教的な意味づけをした。三鈷は身口意の三密をあらわし、五鈷は五智をあらわす。
師から弟子に伝える灌頂の儀式も、もとは国王が集めてきた四海の水を王位後継者の
頭にそそぐ儀式を、(これはいいと)真似して仏教に取り入れた。
密教では(真言宗も天台宗も)護摩を焚く。これはバラモン教で、天の神に供物を
早く届けるのに(遅く届くと効果も遅くなると思ったか)煙で迅速に届けようとした
方式を取り入れたもの。
ただ、同じことをしているように見えても、仏教的な意味づけをしている。
すなわち、我々の煩悩を消す知恵の火を象徴しているという。

このように密教とは、もちろん仏教にもそういう性質があるのだが、
いろいろの雑多なものを取り入れながら、それを仏教的に整理して意味づけして、
思想化していったのである。
つまり、多くの民族の宗教や習俗や習慣などのデパートなのです。
ただ、空海の密教の場合、最澄の比叡山は経典のデパートとされるが、
空海ではさすがに体系をよくまとめて専門店化したということでありましょう。

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最澄と空海
あまりにも対照的な二人
最澄は幼いときから仏教を正式に学び
遣唐使になったころ既に桓武天皇の寵愛を受けていた。(官立の正統派)
空海は大学は中退するし、遣唐使になる直前まで私渡僧であった
当然朝廷では無名であった。(私立の在野派)


最澄と空海は同じ時期に唐に渡る。
最澄はすぐ中国から帰って、桓武天皇から比叡山に戒壇を設置することを
認められた。それまで奈良にしかなかった官僧認定権を最澄が獲得した。
同時に最澄は正統な密教指導者として公認された。

空海が帰国する直前、最澄の後ろだてである桓武天皇は亡くなる。
そして、このことが最澄と空海の地位の微妙に変わるきっかけとなる。
桓武天皇は、自分に逆らう奈良仏教集団を、最澄に灌頂を強制させて従わせた。
むりやり集められ導師最澄から灌頂されられた奈良側は、
空海がもたらしたのが正統派密教であることを知って驚喜した。
空海も奈良側の期待に応え、朝廷から請われて東大寺別当の任も上手にやりこなせた。

最澄は自分の密教が不完全なものであることを知って、真面目に
年下の、位も低かった空海に頭を下げ、教典を借りたり、空海から直接密教を学ぶ。
この最澄の真面目さを今日誰でも感心する。

空海は天才だった。最澄は真面目だった。
理趣経を貸さなかった空海。 
手の内をすべてさらすと、最澄に乗り越えられることをおそれたのだろうか。

無名の僧空海のもちかえった文物の目録(今も残る)を、黙々と写し取る最澄
あくなき学問的探求心、無名の僧に教えを乞うその素直な態度に
今日の我々は感動する。学者の理想を見出す。

真言宗は空海以後、多くの俊才が出たが、教義を発展させるという仕事は
ほとんどしていなかった。
あまりにも空海が完璧な体系をつくりすぎたから。

最澄は中国から持ち帰った資料を整理しきれず、奈良仏教や会津の僧との
論争にも時間をとられ
未整理を憂えつつ死んでいった。
それは後世の日本の仏教にとってよかった。
天台密教の成立は最澄が死んでから。
鎌倉仏教の祖師たちは最澄のもちかえったものを部分的に独立させ深めていった。
空海のように密教を完成させ弟子達の創作意欲をもたせなかったのに対して
最澄は貴重な資料を比叡山の豊富に残したまま死んでいったことは
日本の仏教史に大きな貢献をしたのではないだろうか。

空海のしかけ 
山の神は稲作の神ではなく、農耕以前の狩猟採取の神であった。
もともと山林の行者であった空海が、まだ山の民として
信仰を持ち続けた人たちのために
東寺に八幡神(自分は、むかしはインドの神だった)をまつったり、
稲荷神という山の神をも、東寺の鎮守神として迎え入れたらしい。

神仏習合は奈良時代以来、大きな流れとなったであろうが
土俗性の残る当時の日本社会に、中国からもちかえった密教という
仏教思想を抵抗なく受け入れさせるため、空海が工夫したのであろう。

そしてこのことは、日本の密教寺院が、宗教統制を図ろうとした
明治政府の神仏分離廃仏毀釈政策のねらいうちにあって、
大打撃をこうむる伏線にもなった。

天皇の庇護を受け、政治の力にうまくのった空海だから
時代が変わって、政治から反対の扱いをうけるのは、歴史の皮肉で
よくあること。

両部は不二である。
両部とは、精神の原理を説く金剛頂経系の密教(金剛界)と、
物質の原理をとく大日経系(胎蔵界)の密教をさす。
この2つは、2につして1つである。
インドに置いて別々の発展をしてきたこの二つの密教を
空海は、1つの大家図の中にまとめてしまった。
これは、不空の密教でも、恵果の密教でもなく、空海の密教を
成立させることになった。
両部は不二である。 空海は、槙尾山から香気寺のあたりの山々を
めぐりながら、考えたのだろうか。

すでに帰国した最澄が、密教を紹介して一世を風靡していた。
無名の空海は、両部の密教を相承し、その正統後継者をもってして
最澄と対峙するつもりの空海は、自分で納得するまで理論の構築
に専念していたのだろう。

叔父阿刀大足が空海の所に逃げ込んでくる。大足が侍講をつとめた
伊予親王が、兄の平城天皇により謀反の疑いをかけられ、自殺に
追い込まれた。
しばらく、なりをひそめていた空海は、平城天皇のあとに弟の嵯峨天皇
が位について、空海を都に招くまで待っていた。

大日如来から受戒して空海は八代目。 6世紀にインドで生まれた密教。

空海が最澄から請われた「理趣経」を見せるのを断ったのは
この教典がセックスを描いていて、「男女交媾の恍惚の境地は
本質として清浄であり、とりもなおさずそのまま菩薩の位である」
という表現が誤解を招くことを恐れたからだろうか。
それとも、単なるいじわるだったのか。
(東寺の弟子達にもテキストとして「理趣釈経」を与えなかったという)

東寺講堂の立体曼陀羅は見る価値がある。が公開しているだろうか。
1965年まで1000年以上秘仏として非公開だったから。

東寺に隣接した学校「綜芸種智院」は庶民にも門戸を開いた
日本最初の私立総合学校。東寺の学校は身分の高い貴族の師弟しか
行かれず、苦労した空海の意志でできたらしい。
「貴賤を論ぜず、貧富を看ず」教育の機会均等化をかかげた。
教師と生徒の経済的保障もした。

松長有慶:密教とはなにか、人文書院
頼富本宏:大日経入門、大法輪閣

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