道元
 1200-1253

永平寺をひらいた道元
なぜ越前にということで調べてみました。
比叡山とも浄土真宗とも禅宗の臨済宗とも対立して、
政治的に京都を追われ、越前の信者たちに迎えられたんですね。
永平寺を開いてから 弟子が造った能登の総持寺がのちに横浜に移りました。

道元は鎌倉中期の禅僧、日本曹洞宗の開祖。
内大臣源通親を父、摂政太政大臣松殿藤原基房の娘を母として生まれた。
はやく両親に死別し、養父で伯父の藤原師家が制止するのを振り切って
比叡山に入って修行した。だから最初は天台宗の教学を修めた。

彼の疑問
いっさいの衆生はもともと仏であると天台宗では教えるのに
すでに仏である人がなぜ修行しなければならないか。

比叡山での修行に見切りをつけ、三井寺の公胤(こういん)を訪ねた。
公胤もそれには答えず、中国で禅宗を学んでくるのがよいと
入宋を勧めた。
そこで、栄西門下の明全(みょうぜん)に参じた。

それから1223年(貞応2)明全らと入宋し、浙江省天童寺に赴いて
臨済宗大恵(だいえ)派の無際了派に参じた。
そののち天台山に赴いて、万年寺の元吠(げんし)に参じて、
明州では大梅法常ゆかりの護聖(ごしょう)寺など
諸寺歴訪の旅を続け、最後に天童寺に赴いて
如浄(にょじょう)に参じて入室問法の末、ついに大悟した。

日本に帰って建仁寺に身を寄せた。
道元は坐禅こそ仏法の正門であり、しかも大安楽の法門であるとして
坐禅の方法や心得をひろく大衆に説き勧めた。
そのため、天台衆徒の弾圧を招き建仁寺を追われて
深草の安養院に赴いた。

それからも精力的に説法を続け、「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」
の述作を開始して、天台、真言、臨済、真宗などの諸宗に
鋭い批判を浴びせ、末法思想や念仏、祈裳などを厳しく非難した。

比叡山は強大になった道元一門に対する非難を朝廷に訴え、
朝廷もその言い分を認めたので、道元に対する天台衆徒の弾圧は
いっそう激化した。

結局、道元は門下に集団加入した越前波著(はぢゃく)寺系の
大恵派(彼らはなんと臨済宗だったのに曹洞宗に移った)の
人々の働きかけと、
俗弟子の波多野義重の招きを受けて、
その所領である越前志比庄に下り、翌年大仏寺を開いた。
1246年(寛元4)6月、大仏寺を永平寺と改めて現在に至っている。

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