無気力の心理学             

 

だいぶ前に一関高専の

佐藤清忠先生から借りた本についてです。

 

当時の感想メモを整理して書きなおします。

 

高校生や大学生に見られる

どうせ自分はダメなんだ、という獲得された無気力感

がどうしてできたのかを分析して

努力すれば好ましい変化を達成できる、いわゆる効力感を

持たせるには、どう教育していけばよいかを

いくつかの考えるヒントを示している本です。

 

なお最後に日本vsアメリカの文化比較を行っていますが、

東洋vs西洋のものの考え方の違いがあることが

理由だと思います。

そのことについても、私の感想を書くつもりです。

 

無気力の心理学 その2         

 

著者は 波多野誼余夫(はたの・ぎよお)と稲垣佳世子(いながき・かよこ)

中公新書 599

 

心理学者がイヌや人間の実験をして明らかになったことは

ものごとの成功・失敗は自分の統制でできない場合

つまり偶然や、運・不運によって決まると考えている被験者のほうが

無気力になりやすい

ということであった。

 

無気力の心理学 その3         

 

自分は頭が悪いからダメだ

と思い込んで、すぐ投げやりになる子どもに、

努力することの意義を教えてみる実験「治癒教育」

「治療教育」でした。

 

Aグループ

 いつも十分成功しうるような、やさしい到達目標が与えられた

Bグループ

 やさしい目標に中に、ときどき高い目標を意図的にまぜた。

 到達目標を達成できないという「失敗」経験を、5回に1回の割で

 与えた。

 

このような治療教育を25日間続けてから、教育効果をはかるテストをした。

(なお最初にことわっておかなかったが、全員は失敗にであうと

やる気をなくす無力感の子どもたちであった)

 

Bグループの子どもたちは、問題のむずかしいテストを受け、失敗にであっても

それ以後にガクンと成績が下がる子どもはいなかった。

それどころか、失敗の後、努力して成績が上昇するのが見られた。

 

こりに対してAグループの子どもたちは、失敗にであうとガクッとくずれ

今までの力が出せなくなる傾向はそのままだった。

失敗を克服可能なものとみて、ねばり強く取り組む傾向は、単純な成功経験だけ

を与えたのでは強められなかった。

 

無気力の心理学 その4         

 

努力をすれば、何事もうまくいく

というものではない。

努力しても自分以外の原因で失敗してしまうことはある。

 

努力万能主義への修正意見

1.子どもたちに、自分にあった分野、自分がとくに力を発揮できそうな分野を

さがすよう奨励する。

どの分野で自分がよく力を発揮でき、どの分野は自分は比較的不得手か、といった

自分の能力や適性や興味を正確に知っておくことは、よりよく人生をいきる

ためには重要であろう。

 

自分にとって「やりがい」のある課題を選び、そこでの努力の有効性を

確認してはじめて、本当の自信が得られるものである。

 

2.ただ「努力せよ」というよりも、どのように努力するか、そのやり方を

工夫することに重点をおくよう促すことである。

失敗が続いたさい、いちばん必要なことは、こんなふうにしたら

うまくいくのではないか、といった具体的な改善策を思いつくことである。

 

無気力の心理学 その5         

 

人間には、自分は自分の行動の源泉でありたい、自分の行動の主人公でありたい

という基本的な欲求がある(心理学者デチャーム)。

自分が自分の行動をコントロールしているという感じのもてなくなった活動は

したがって好まれなくなる。

 

誰かの命令ではじめたとか、何かほかの「やむをえない」事情のために

努力した、というのでは、「ヤレヤレ」といった成功に伴う安堵感はあるにせよ、

本当の効力感にはつながりそうにもない。

 

人間は児童期以降、青年、成人と成長するにつれて、「したくなくても

しなくてはならない」という活動が増えてくる。

「お母さんを悲しませないため」「入学試験に合格するため」

「義理のため」....等など。

このような理由からイヤイヤながら勉強する、不承不承仕事をする

という場合も生じうる。

ここで、努力の結果がうまく実を結べば、無気力感にはおちいらずにすむであろう。

だが、これによって効力感の獲得にまでは至らないのではなかろうか。

したがって、児童期以降の段階では、自律性の感覚、自分の行動は自分がはじめ、

自分がコントロールしうるのだという感覚を、効力感獲得の前提として取り上げることが

必要なのである。

 

自分でものごとを決める自由が許されている環境のもとに長期間いた

子どもに、自律性の感覚が強いと考えるのは自然なことだろう。

 

世間体や義理でなく、自分の意志で、自分の考えで

行動を起こせば、やる気が違う。

そして幸運にも、努力によって成功を得られれば、満足感も大きい。

 

無気力の心理学 その6         

 

自律性の感覚を発達させるには

 

(自分の意志とは無関係な)外界からの報酬や評価がこないようにすればよい

 

やりがいのある課題と取り組める状態にあることが必要

 

自己選択の機会をもたせる

多くの選択肢のなかから、自分で自分の好む活動を選ばせる。

その時、自分は自分の行動の主人公であるという感覚をもてることが大切である。

 

(自律性の感覚がそれ自体プラスの価値をもつためには、

自己統合、つまりその人らしい生き方につながる

といった条件が必要である)

 

無気力の心理学 その7         

 

効力感を育てるには

他者との暖かいやりとり 

が必要である。

 

「仲間から認められた」「自分のしたことで家族がとても喜んでくれた」

「自分たちの発言が仲間の関心をひきつけた」

このような経験に、生きるはりあいを感じ、

「よしまたがんばるぞ」という思いにかられたことが

日頃少なくないであろう。

 

日本では、このような対人関係の中に効力感を認める考えはあたりまえであるが

アメリカでは少ない。

アメリカでは個人的達成が強調され、

効力感は、もっぱら自分の努力に伴う知的業績によると考えられてきたから。

 

競争する社会では、お互いに友好的でなくなる

その結果、仲間から認められて強まる効力感は、育ちにくい。

 

仲間同士で教えあったり、経験者が未熟者に教えることのできる社会では

効力感の育つことが認められる。

 

無気力の心理学 その8

 

目標達成だけでは効力感は生まれない

本人が自己向上を実感しうることが必要であり、自己向上が本人にとって

価値のある、真に好ましいものでなければならない。

(有名大学に首尾よく入れたとしても、それを親や友人が喜んでくれたと

しても、それがただちに効力感をもたらすとは必ずしもいえない。

せっかく大学に入ったのに、やりたいこと、やりがいのあることを見つけ

ようともせずに、無気力に暮らしている人はおどろくほど多い)

 

 

大学合格は、自己向上の条件であって真の目的にはならないから。

 

無気力の心理学 その9

 

本人が自己向上を実感することは、いかにして可能になるのだろうか。

エキスパートになる過程についての最近の研究の紹介。

 

上手な職人の仕事ぶり、野球の投手の投球

熟達者の的確な判断は、結局彼らがその分野に関してよく構造化された知識をもち、

それを上手に利用しているためだ。

この知識の構造は、スキーマ(schema)とよばれる。

スキーマはある意味では複雑な式次第のようなもので、状況をにらみつつ

次の行動を決めるさいの下敷きとして働く側面をもっている。

同時にこのスキーマを使って自他の行う行動が認知され、意味づけられ、記憶され、

評価されることになる。

 

専門の棋士は将棋の対戦が終わったあとで、ほとんどの駒の動きを再現できる

という。ピアニストも、2時間のあいだ、楽譜を見ることなしに演奏を行う

ことができる。

これらの人々が、もともとどの分野でも記憶がよいかというと、決してそうでないこと

がわかっている。

彼らのおどろくべき記憶力は、その分野かぎりのもので、発達したスキーマの

おかげなのだ。

 

おそらく腕のいい職人や、芸術家やスポーツマンは、自分の仕事を自分なりに

評価し、そこからある種の内的な満足をひきだしていると考えられる。

 

どうしたら、その道の熟達者になって、効力感をもたらしうるのだろうか。

3つのポイント(創造と愛と自己統合)

1.創造により自分を価値ある存在として確認しうる根拠は、自分なりの

 ものをつくりあげているという満足感である。

 自分の活動やその所産は、自分の創造したものだ、という感じがもてればよい。

2.自己実現が、他者との暖かい交流、人の役に立ちうるという満足に

 もとづけばよい。

3.自己統合とは、自分が自分らしくあること、といいかえることができよう。

 伝記的人物は、他者からはっきり区別されるユニークな個性の持ち主である。

 

小学生の時、友だちが言っていたことだが

人は何のために勉強するのか

自分のためだけではなく、他人を幸せにするために努力するのだ

という言葉を忘れない。

ゲーテのファウストも誰もが知り得ない真理を極め、絶世の美女と結婚しても

満足せず、世の人々が幸せになる干拓工事(土木事業)をして始めて

満足だと叫んだ。

 

無気力の心理学 その10

 

効力感を伸ばす学校教育

評価の仕方を工夫する。

 

学習前の状態と学習後の状態を比較する。

ある学校では、陸上競技のさい、生徒たちに過去の自己最高記録と競争させた。

これは、生徒たちからとても喜ばれた。

自分の努力の手ごたえを実感できるためであろう。

 

相対評価は、効力感の育成という点から、ことに具合が悪い。

これは、効力感を伸ばすどころか無力感を育成してしまうおそれがある。

相対評価は、つねに他人との比較のうえでなされる。

どんなに自分が進歩しても、他人がそれ以上であれば、評価のうえには何の

プラスの変化も出てこない。

(失敗の連続による無力感をわざわざ作り出している)

 

効力感を育てるには、自分の熟達が自分で実感できる課題と取り組む経験が

必要である。

少しむずかしそうだったが、やってみたらなんとかできたという場合は、

そうした実感が得られる。

 

ある学校で、各個人の達成度にあわせて、個別に宿題を課すようにした。

そうすると、宿題をやってくる者が増えた。

 

知識の伝達を効率化すること自体はよいとしても、それが最大の目標になって

しまうと、問題を解くおもしろさも、自分の能力についての正確な認知も、

また効力感も発達しにくいと考えるべきだろう。

 

仲間同士の教えあいは効力感の形成に重要で、特に教える側の子どもの効力感

の形成に寄与することが多い。

 

私ごとではあるが、私の高校時代の数学の先生は、相対評価をするように指示されて

いながら、個々の学生の努力をみて絶対評価をしてくれた。

そのためAがクラスで5人を越える場合がままあったが、この先生のおかげで

私は数学が嫌いでなくなったと思う。

この大学の教官となって、ある日同窓会名簿を見たら、なんとその先生は

この大学のしかも私の勤務する学科のOBだった。

それから、札幌のある高校の校長先生になった、その先生のところへ

挨拶に行ったものだった。

 

無気力の心理学 その11

 

無力感・効力感の日米比較

 

いままで述べたことは、アメリカの研究が主であって、

日本には違う事情があるように思われる。

 

アメリカでの研究成果は、そのままでは日本にはあてはまらない。

 

アメリカは、典型的な達成志向社会だといわれる。

たえず自分の能力を発揮し、それを高めていくことが期待される社会である。

 

アメリカではよく、「あの人は昔はえらい先生だった」という表現が使われる。

(今ではたいした研究をしていない)

日本では、昔えらければ、その後とくに決定的な失敗をしないかぎりは、

いつまでもそのえらさが保持できる。

 

日本では、主任教授ともなると、もっぱら教室内の管理に専念し、研究上の

役割というのは、さまざまな対立する議論をどう調整するとか、あるいは予算を

もらってきて大きな研究計画が可能のようにするとかいったことに

とどまる場合がほとんどであろう。

アメリカでは、大学教授としての有能さは、なによりもまず魅力的な研究計画書

を書く能力にあるといってよい。ひとたびこの研究計画に対して予算が

交付されることになった場合には、研究上のイニシアティブをとることもまた彼に

期待されている仕事であって、彼の役割は若い共同研究者の意見をまとめて

いくということにとどまるものではありえない。

(ここの文章については全面的に賛成するものではない。

日米を問わず、研究者が独創的なアイデアで研究できるのは、せいぜい30歳

前後と言われている。ノーベル賞受賞者が、その後自己の記録を伸ばすような

すぐれた仕事を続けているとは思われない。

マイクロソフト社のビル・ゲイツにしても、もはや自分でプログラムは書かない

だろう。構想は練っても。

アメリカの教授がすぐれた研究計画書を作っても、その通りに研究が実現する

ならハッピーなことだ。しかし、いつも成功する計画書は八百長的ではないか)

 

(ここまでは夕べ家で書いた内容だが、今思いだしたのは

その専門分野によって、学者の活動年齢が異なることだ。

半分ジョークとして聞いてほしいが、工学部のある学科は経験がものをいう分野

があり、そこでは教授は助手より沢山経験をしているから、教授の方が

知識が多い。したがって教授は名実とも尊敬され、保守的学科となっている。

これに対して最近の研究成果が著しい分野では、たとえば教科書も数年

たったら古くなって使えなくなるというほど技術革新がめざましく

したがって、その分野では古い知識の教授よりは、若い助手あるいは

最先端の実験をする大学院の学生の方が、リードしている。

したがって、こちらの学科は進歩的。

しかし、心理学とか人間の心を扱う学問などは、若い人がいくらすばらしい

理論を作って、理路整然と整理しても、生きている人間を知っているのは

年をとった経験者の方が上なので、ある程度の年のこうといったものが

大事と思われる。

お医者さんにしても、エリート大学を出たばかりの秀才の若い医師より

しわまじりの、赤髭的医師の方がなんとなく信頼できそうに思われる。)

 

アメリカでは、日本的な謙虚はおよそ無意味、ないしはかえって有害である。

「私は、まだよくわからないのですが」とか「たいした研究をしたわけでは

ないのですが」といった前置きはアメリカで発表するさいには絶対にしては

ならない。

(日本では、そういう謙虚さがないと、叩かれる)

(欧米人に評価されない表現の1つに、「つまらないものですが、

さしあげたいと思います」という日本人の謙譲の美徳の言葉がある。

欧米人は「つまらないものをどうして人によこすんだい」

「立派なものですから、ぜひ差し上げたい」となぜ言わないんだ

と思う。

よく見られるカルチャーショック)

 

また、議論で簡単にいいまかされたり、相手のいうことがもっともであると

受け入れたりすることも、この社会では決して推奨されない。

たとえ旗色が悪くても、大きな声を出して、相手がしゃべるのもおかまいなしに

まくしたてて相手が黙れば勝ち、というのが、アメリカ的やりくちなのである。

 

こういう努力こそが、アメリカでは個人の効力感を育てることだという共通の

意識がある。

 

これに対して、日本の場合は親和志向がずっと強いものになっている。

結局のところ、人と人の結びつきを大事にするということである。

自分の達成とか自分の能力を発揮するということ以上に、他の人たちに

喜ばれる、受け入れられることに価値をおく、といいかえてもよい。

 

無気力の心理学 その12

 

日本の受験戦争

能力競争の回避

 

日本の大学入試の競争は大変なものであるが、

これはむしろ将来長期にわたる能力競争を避ける機会として働いている側面が

大きい。

企業に入ってから、その社員同士が面と向かって能力において競争することは、

企業の団結を低めることになる。

さまざまな会議の場で対立する意見が出され、一方だけが採択されることは

しこりの残るものになる、と日本では考えられている。

(アメリカでは、みんなの前で徹底的に議論されるという)

 

入社した人々のすべてが管理職につけるわけではないから、なんらかの選択という

ことは不可避になる。選抜がある以上、そのための能力競争もまた避けることが

できない。そこでこの入社後の競争を緩和するために用いられているのが

学歴主義であるように思われる。

(少なくとも公務員試験はそうだ。数に限りあるポストの指定席を入手する

ための試験だ)

 

アメリカでは、能力の証明へとつながる外的な成功が基準になって、

活動や熟達に内在する満足度が無視されがちである。

そういった社会では、たえず競争に勝ち続けている人は一時的にせよ効力感を

もつだろう。しかし、そうでない多数の人々は、実際には効力感をもつことが

むずかしいばかりでなく、無力感におちいりやすいのである。

 

これに対して日本の場合には、人々の社会的承認を求める傾向が大きい。

社会的承認というのは、同じく外的な基準ではあるが、これは他人との

つながりを大切にするという点で、人々の実存的欲求の充足につながりやすい

側面をもっている。

また社会的承認は努力によっても決まるから、それは外的な成功基準によって、

より左右されにくいともいえる。

 

このように考えると、現在の社会を効力感の条件としてくらべるかぎりでは、

アメリカに比して日本の社会はまだましだともいえるかもしれない。

 

社会的承認に重きがおかれる社会の中では、ともすると斉一主義が強まり、

人々は何をするにも他人の目を気にして暮らさなければならない。

(外界からの暗黙の強制に応えなければならないので、日本人も苦しい)

 

大学受験戦争に勝った者が、公務員試験の合格した者だけが

与えられた職場で活躍するわけではなく、

そうでない者でも努力すれば、それ相当の評価を受けた方がよいので

(会社や役所でも、昇任試験が盛んになり)

これからの日本社会でも。一生競争になるであろう。

 

無気力の心理学 その13

 

まとめ

 

日本とアメリカの比較をしているが、

目立とうとするのがアメリカでの成功のひけつで、

日本は逆に控えめにしなくてはならない。

アメリカのこのやり方は、実はヨーロッパ人の特質である。

 

日本の謙虚さも東洋の道徳観からきたもので

背景には西洋と東洋の対立がある。

 

日本の和の哲学も、もとをさぐれば儒教の孔子にまでたどりつくだろう。

 

帰国子女がアメリカで是とする行動を、教室や世の中でとろうとすると

否定の判定が待っている。

逆に日本の良い子が、そのままだと欧米では愚かな子どもとみなされてしまう。

 

大人もしたがって、海外に渡航したら、日本と逆のことをしないといけない。

頭を切り替えて、そして日本に帰ってきたら、また価値観を切り替える

必要がある。

 

どちらが良いかというよりは、生活価値観、文化の違いであろう。

 

子どもの能力を引き出すため、効力感を育てるのに、個別の出題をすれば

よいと書かれてあったが、

私は講義の後、宿題を出すが時間が許せば、初級、中級、上級の3種類の

問題を出している。

それぞれ学生の能力に応じて適度な問題を解けばよい。

 

また、大学最後のまとめとしての卒業研究の時に、私の講座では

個々の学生の能力や特性や興味によってテーマを変えている。

卒業研究は、その学生の能力を出し切って最高のものをまとめれば良いのであって

能力や特性が異なる学生は、したがって成果のレベルも異なるはずで

これを同じ尺度で計ろうとすると、ある高いレベルの学生にとっては

物足りない基準になるし、人より要領の悪い学生には厳しい基準になるから。

もっとも、最近よく見られる、教授の研究の分担という任務を負わされた

卒業研究の場合は(学会論文集なみの)厳しい基準になるから、

学生たちは皆大変であろうが。

 

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