無意味な人生などひとつもない

五木寛之:無意味な人生などひとつもない 「無意味な人生などひとつもない」 これだけははっきりと言える。 誰かのためだけに生きてきた、孤独に生きてきた、ただ呆然(ぼうぜん)と生きてきた。そのいずれの生き方も... どんな生き方をしようとも、それでいいのです。 もし、人よりすぐれた野心やエネルギー、才能などを持ち合わせたなら、それを十分に発揮して世のため人のために 尽くせばいいのです。 有名になればよい、みんなを楽しませればよい。世の中の役に立てばよい。 それはその人自身の幸せなのであって、他人に自慢することでもなく、周りが称賛しなければならないことでもありません。 そういうふうに生まれてきて、そうした才能を開かせる機会を得たことを謙虚に感謝することです。 もし無名のまま一生を送ったとしても、この世に生まれてきて、そして五十年生きた、七十年生きた、 いや、わずかに一年生きたとしても、その「生きた」というだけで、人間として大変大きな意味のある仕事を しているのではないか、と私は思います。 あなたの人生は、この広い世界でたったひとつしかない。ほかと比べて優劣を見る必要もありませんし、真似をする必要もないのです。 私は、人は何かを成すことがなくても十分ではないか、と思っています。 「何を成し遂げてきたか」という人生の収支決算も、二番目、三番目ぐらいで考えたほうがよいのではないでしょうか。 人間とは、生まれてきて、生き続け、そして”今”を懸命に生きている存在です。そこにまず人間の最も大きな価値があるのです。 社会の役に立つ人間は立派な人間だから存在する意味があり、社会の役に立たない人間は存在する意味がない、という考え方。 あるいは勝ち組・負け組と言って、競争に勝った人間をもてはやすような時代の風潮をみていますと、それは違う、と思わずにはいられません。  人生は長い旅路です。今日勝ち組であっても、明日はわからい。 「人生の意味とは」などと悩む必要もありません。私たちのいのちがここにあるだけで、すでに奇跡です。 その”いのち”は、複雑なこの世界に絶妙な調和でもって自己を保ち、毎日を生き抜いている。 その一言をもってしても、もう十分に意味がある。 人生の長い旅路の中で、何が正しいことかなどわからない。人生は選択の連続です。 その選択の場面で「あれか、これか」ですっきり決められるなら、それはそれでもいいでしょう。 でも、なんとなくいずれにも決めがたいと思ったら、「あれも、これも」でもいいのではないか。 それによって混乱が生じても、その中から生まれるものをみてみたほうがいいように思うのです。  (思うに「あれも、これも」という灰色のケースもある。そのときは 「あれも、これも」がいい) 悩み苦しむ「あなた」、そのままでいい  (辛い楽しい現実をそのまま受け入れることが幸せ) 著者は 大河の一滴 を提案する。 大河を形づくる一滴 確固たる「自己」を確率できたと思えても、大いなるいのちの循環の中にあるとすれば、それは いつか大海の水の中で溶け合って消滅してしまうものです。 自分という個性ではなく、生命エネルギーのようなものとして繰り返し循環している。 自分はそのひとつの形態にすぎない。そう思うと、自分の子孫を残さなくてはいけない、名を残さなくてはいけない といった考えは必要なくなる。 いのちはそこにあるだけで奇蹟ですし、個の貴重さは言うまでもありません。 しかし、個のいのちはありとあらゆるものに支えられて生きて、いつしか大いなる循環に還る そう想像しますと、 「私」というものはかけがえのないものですが、儚いものでもある。 加えて、いつ死が訪れるかわからないという宿命も背負っています。 私たちが意識できる部分、あるいはコントロールできる部分など、ほんのわずかなのではないか。 にもかかわらず、それを忘れて「私」という存在にこだわりすぎると、どんどん自分の首を絞めてしまうことになるのではないかと思うのです。 ストレス社会と言われて久しいですが、そのほとんどの原因は、この点にあると思います。   (ありのままの自分、現実を受け入れればいいのに、現実無視の理想にこだわりすぎるとストレスをまねく) よく「本当の自分」という表現を耳にしますが、そんなものは幻想です。 ”今のあなた”こそがまさに「自分」そのものなのです。 その悩み苦しむ「あなた」で十分すばらしいのに、ありもしないものを求めてさまよっている。 私たちは、いつもどこかに不安を抱え、緊張して生きています。 普段はそのことは忘れてしまっていますが、こころや気、体が弱った時には、頭をもたげてくるのではないでしょうか。 それはどんなに明るい気質の人でも、体の強い人であっても同様です。 だからこそ、私は「気休め」が大切だと感じています。そして、人にもどんどん「気休め」を言うべきだ、と考えているのです。(著者に「今日は顔色が良くないですね」と心配してくれるのは やめてほしい) 言葉というのは不思議なもので、良い言葉は良い波動を生み出すのです。     −−−−−−−−   五木寛之:ただ生きていく、それだけで素晴らしい 生きる「目的」を意識しすぎない 「ストレス」にはちゃんと意味がある   影があるから光がわかる 「孤独」でいい。絆を安易に求めない ネガティブ思考から、真のポジティブ思考が生まれる  不運が襲ってきたら、はね返すより居直るほうがいい。 不運を柔らかく引き受ける。 幸せも不幸も大切な「人生の一瞬」 感情のひだを刺激して、こころを元気づける  幸せを感じられない時には、心の栄養素を探してみる。 小さな歓び、感謝 深く大きな溜息をついてみる 不安はちゃんと感じたほうがいい  自信を持つことと、不安を持つことは対立しない。 「他力」の風を感じてみる  見えない力が背中を押してくれる。 鬱の時代には、鬱で生きる 「ブレない人」など、ありえない  変化し続けることが、生きるということ。 無用な人、無用な出来事など一つもない  無用と思うものが、思わぬ進化をもたらす。    〜   〜   〜 五木寛之:不安の力 不安は安心の母 ← 失敗は成功の母 不安は生命の母だと感じる。それは、いいとか、わるいとか、取りのぞきたいというようなものではない。 不安は、いつもそこにある。 人は不安とともに生まれ、不安を友として生きていく。 不安を追いだすことはできない。 不安は決してなくならない。 不安のない人生などというものはない。 人は一生、不安とともに生きていく。  不安を敵とみなさず、それをあるがままに友として受け入れていく。 不安というのは、人間が本来持っている強い防衛本能 不安をたくさん抱えている人は、体に警告を発する優れた警報器をそれだけ多く持っているのだ。  むしろ喜ぶべきである。 不安はなにかの便りを運んでくる大事なメッセージ。 それは、あなたの心身はもう限界だよ、これ以上無理な仕事はしないほうがいいよ、という心と体からの忠告かもしれない。 著者は、いままで不安を友として生きてきた。 これからも、不安と仲良く付き合いながら生きていきたいと思っている。 (一種の森田療法)    ☆   ☆   ☆ 五木 寛之 (著),帯津 良一 (著)  健康問答 平成の養生訓 (平凡社ライブラリー) 健康法は「これ一つ」ではダメ  「玄米さえ食べていれば...」「ありがとうの言葉さえ忘れなければ、すべてはうまくいく」(五木は それは怪しいと思う) 水は体の要求におうじて、のどが渇いたら飲めばいい。 塩分は生きるうえで必要である。 ある程度、意識的にとったほうが良い。 牛乳は無理して飲まなくてもいい。好きな人は、適量を飲んでも問題ない。 一日三十品目食べなければいけないという、栄養学的な根拠はあいまい。基本は好きなものを食べること。(危険分散らしい) 空腹を感じていたら、朝食はとるべきだろう。無理して食べることも、無理して飢餓状態をつくることもない。 コーヒーは,嗜好品として適量飲むなら良い。 (帯津医師は 適量なら毎日酒を飲んでも良いという) 緑茶がガン予防になるかは、なんともいえない。効果をあまり期待しないで楽しんで飲むほうが良い。 命は流れて動くもの。ある瞬間をとらえて、完治したか、しないかを論じても、意味がない。 (五木の考えは 病気に完治なし) かぜをひいたら、熱は無理して下げないほうがいい。時間にゆとりがあれば、漢方薬で、ゆっくりと下げたほうが良い。 ガンの早期発見が幸運とは、いちがいには言えない。 ストレスは、人間が背負わなければならない宿命のようなもの。なくすことより、うまくつき合うことが大切。 明るく前向きに生きることは大切で、心身にも良いのだけれど 無理に明るくすることはない。泣きたいとき、落ち込んだときは、自分の感情のままに、泣いたり、深くため息をつけばいい。 人生には、ほどよい終わりの時期がある。そのタイミングを、しっかりとつかみたい。 (人生80歳で死ぬのがよいそうだ。) 長寿の人は、他力本願である。 長寿だからといって、決して幸せじゃない。あるがままに生きて、死んでゆくのが理想である。