岩手県庁が科学技術庁の支援を受けて始めたパソコン通信「ハイテクネットとうほく」
には支援の委員もつとめたので、私はたくさん投稿したものでした。
それらの投稿した記事の大部分はその後整理して、結局私のホームページの
あちこち配置いたしました。つまり、頭の体操になったわけです。
「ハイテクネットとうほく」に投稿した記事の中で、どこにも転載
されなかったが、いくつか忘れられないものを、ここに転載します。
「ハイテクネットとうほく」でコンピュータ通信を学ぶことができました。
オフラインも毎年のように盛岡で開催しました。何度目かのオフラインでは、
岩手県技術アドバイザーの(長老的存在の)遠藤さんを囲んで、岩手県工業技術
センター、岩手大学、岩手医科大学、県立宮古短大、一関高専などのネットワーク
の関係者が集まりました。
このときの写真 ONLINE TODAY JAPAN, 1995.6 に載っていますが、こういう人間のネットワークが岩手大学を中心とした岩手県インターネットへと発展したのだと思います。岩手県インターネットはTOPICにつながっています。
この雑誌はNifty のユーザ誌ですが、全国の卒業生から見たという反応がありました。
日中友好協会の会長であった井上靖は中国でも有名である。
「昭和7年から11年まで京都ですごした。卒業を1年遅らせたので、 それでなくてさえ老学生であるのがますます老いた学生になった。 学生といっても大学に籍を置いてあるだけで。私は卒業しなくてもいいような気持ちに なっていた。」 「私のこれまでの生涯では、京都の大学時代が一番暗かったと思う。 全く希望のない時代であった。大学卒業前長女をもうけた。 私は何もかもめんどうくさくなっていたので、卒業は取りやめるつもりでいたが、 妻から東京にいる私のところへ卒業論文締切の日を電報で通達して来て、 ことしこそは子供のために卒業してもらいたいというようなことを手紙で言って 来たので、しかたなく京都へ帰り、卒業論文らしいものを書いた」 これは本人が書いた文章であるが、昭和8年には有名な滝川教授事件が京大で起こって いる。 金沢の四高を卒業してから大学を出るまでの長い歳月は、しかし井上靖の旺盛な 創作力をつちかうのに、役に立ったと思われる。 人生に無駄なことはない。 芥川章作家井上靖にしても、卒業するのに家族の強い願いがあったからという。 本人は卒業する気は全然なかったのだが、家族の頼みで、しかたなく妥協した、という ようなことを本人がいっているのをどこかで見たことある。 私は、だから学生が、大学をやめたり卒業する意欲を持たないとき、この井上靖のこと を思い出す。 そして、ともかく卒業することを勧める。
井上靖の年譜 明治40年(1907) 北海道旭川で生まれる。父は陸軍の軍医 大正2年(1913) 静岡で祖母の手もとで育てられる。 この環境は「あすなろ物語」「しろばんば」に描かれる。 昭和2年(1927) 第四高等学校に入学、金沢で4年間柔道にうちこむ。 昭和5年(1930) 九州大学法文学部入学 昭和7年(1932) 九州帝大退学、京都帝大哲学科入学 昭和10年(1935) 京都帝大名誉教授足立文太郎長女ふみと結婚 昭和11年(1936) 京都帝大卒業、サンデー毎日の懸賞小説に応募し 「流転」で千葉亀雄賞を受ける。毎日新聞社大阪本社入社 昭和25年(1950) 「闘牛」により芥川賞授賞 昭和26年(1951) 毎日新聞社退社 昭和32年(1957) 第2次中国訪問日本代表団として山本健吉、中野重治 らと中国各地を回る。 「天平の甍」 昭和33年(1958) 「天平の甍」で芸術選奨文部大臣賞授賞 「楼蘭」 昭和34年(1959) 「敦煌」 昭和35年(1960) 「敦煌」「楼蘭」により毎日芸術大賞を授賞 昭和38年(1963) 沼津市千本浜で「井上靖文学碑」の除幕式が行われる。 この資料は筑摩書房日本文学全集(昭和52年3月)によったので、 死去は記載されていない。
地元の新聞の夕刊から、読者のエッセイです。 仙台で踊りを教えている友人から電話があった。 「ゆかた会をやるから来ないか」という電話だった。賛助出演で越中おわらをする、 八尾(やつお)からの出演もある。 この読者はいさんででかけて、感激したということを書いてあった。 以下に引用が続きますが、最後の私のコメントを書きます。 越中八尾(やつお)二百十日風の盆、祭ばやしのような、リズミックなエネルギーに あふれる曲ではない、佐渡おけさのように頭にかぶりものをすることくらいしか知識は なかった。 エル・パーク仙台のギャラリーホールが「ゆかたざらい」の会場。 越中おわらを始める前に舞台に上がった三味線、胡弓(こきゅう)、歌い手、踊る内容 について、八尾から来た人が説明する。 300年の歴史を有する野趣豊かで素朴、そして気品のある胡弓の哀調をおびた音色の 優雅さを聞いてほしいと結んだ。 お師匠さん(このエッセイの作者の友人のこと)が八尾におわらを習いに行き意気投合 され、9月1日からの「風の盆」があるにもかかわらず、みんなで仙台に来たという。 編みがさを目深にかぶり、白地に紅の模様、帯は黒のキリッとした衣装、 八尾よいとこおわらの本場二百十日をオワラで踊る。 しなやかな踊りの中に哀愁のみ漂うわけではない。胡弓の音には芯の強い意思表示が 感じられる。 皆そのムードにすっかり酔いしれ、身動きするする者など一人もいない。数千のぼんぼり、 万灯、まん幕で飾られた町中を老若男女練り踊り歩く姿をほうふつとさせてくれた。 「おわら」、終わってもボーッとしてその余韻がしばらくは消えずに座席にいた。 私の父方の祖父母は富山出身である。富山県東砺波郡城端から北海道開拓に渡った。 祖父は一族が病気などで資産を無くし、北海道開拓を思いたったが、祖母の実家は裕福 な家だったので、北海道に渡ることはやめて離婚して実家に帰るよう親に勧められたとか。 しかし小さい子供もいて祖母は家族と一緒に北海道へと旅だったのである。 開拓の苦労をさんざんして、祖母は死んでいった。その時私の父は末っ子だったので、 まだ小学校入学前だった。 祖母が富山を懐かしみ娘に、このおわら節を踊って見せたということを娘(父の姉で 20年くらい前に亡くなった)である年寄りから聞いたことがある。 祖父の写真はあるが、祖母の写真はない。 二百十日の風が吹く9月1日から3日間、坂の町、八尾は「おわら風の盆」一色に ぬりつぶされる。
岩手医科大学教授の後、岩手女子高等学校校長を勤めた
方言の研究家の小松代融一氏の文章。
方言に興味をもったのは、小松先生は平泉町出身、伊達藩の言葉、それに対して (1931に)勤務先の盛岡の岩手女子高校では生徒の言葉の南部弁が全然わからない。 「見れる」、「起きれる」 これは当時の指導要領に誤りであると記されている。しかし、 盛岡の生徒はこの言葉を使っていた。 平泉では、この表現は使わず、「見んにええ」、「受けえる」とかいう。 (私も北海道で中学生の時に、見られるはいいが、見れるは正しくないと習いました。 しかし実際はみんなで使っていた) 世の中には知られていないが、盛岡にはすぐれた表現の仕方がある。 泣くつもりはないけど自然になけてくる、この状態を表す言葉は県南にはない。 盛岡では「泣かさる」と言います。「笑わさる」「食わさる」なども同じ表現です。 (私なら、泣けるでもいいが、泣けてくるとつい文学的表現でいいたい。食わさるとは 旅行先で満腹なのに珍しい物を出されて、つい手がのびる状態ですね) 「しばれる」は北海道の人は独特の言葉だというが、盛岡でも使われる。あれは、東北 から行った言葉であろう。
不登校で悩む少年、少女の姿は痛々しい。向き合って、どんな言葉が少しでも子供たちを 安らげるものなのか思案する日々だ。 昨年の夏、あるグループと早池峰山に登った。日は高くジリジリと照りつけた。 日ごろの運動不足で足は重く、心臓の鼓動は早く、息切れも激しくなった。 途中、ヤッケを脱いでTシャツだけになったが、それでも体は熱く重かった。 「頂上はもうすぐだぞう」とリーダーの励ます声がした。頭がクラクラした。 「倒れたら皆に悪いぞ、医師なのに一番駄目だ」と、あえぎ、はうように進んだ。 その時、後方で、子どもを気遣う若い母親が、弱々しく心細げに「大丈夫? 岩が危ないからね、気をつけて」と声をかけていた。 母親自身の不安をそのまま子どもにぶつけた声だった。その声で私は体がふにゃふにゃと なりそうだった。 その直後、前方で別の母親の声がした。「大丈夫、大丈夫、見ているからね。心配ないよ、 ほら行ってごらん」 明るく温かく自信のある大きな声だった。力が抜けてしまっていた私に、その母親の声が 傍らの渓流の清水のように染み入った。 その子はすいすいと登っていった。急に力がわいてきた。 タイミングのよいリーダーの「休め」の号令にも助けられ、無事全員が笑顔で山頂に たどりつけた。胸いっぱいに涼しい空気を吸った。 いっときの苦しみの中だったが、二種類の「大丈夫」を聞いた。一つには力を失い、一つ には力を得た。 診察室を出た大自然の中で、薬物ではなく、人の声にいやしの力のあることを、心と体に 深く感じさせてもらった。 人に備えられた力をもっと信じ、心から「大丈夫、大丈夫」と声をかけよう。 特にもあの少年、少女に。 (斎藤恵子医師:カルテの余白から、岩手日報4月8日)
郡山から東へ向かって10キロ 梅、桃、桜が毎年たて続けに咲き誇り3つの春を呼ぶことから つけられたという、ロマンティックな名の町がある。 この三春(古くは御春とも記された)の町はずれに 日本最大にして最古と呼ばれる枝垂(しだれ)桜が立っている。 淡い紅をまとった花々がいっせいに地面へ向かい 流れ落ちるさまは、さながら滝のようだ。 滝の流麗なたたずまいは 古くから歌人たちに歌ごころをおこさせてきた。 「満開の時には、もうなんとも言えねぇんだ。見てっと 幸せいっぱいになってイヤなことも何もかも忘れっちゃうのよ。 なんなら夫婦喧嘩サしてからここに来てみりゃわがっから」 この町で20歳の時から53年間、滝桜を見つづけてきた柳沼ハナさん (ウインズ 1993.4) 桜の花は自分の子孫を繁殖させるために美しく咲くのです。(人にみせるためでは ありません) 花に虫が飛んできて、虫の助けで受粉し、やがて桜の果実ができる。売り物のサクランボ は特別な果実で、普通は小さい実だそうです。 普通の桜の実は人間が食べても美味しくない、ただし鳥はおいしく食べる。 鳥の糞として排泄された種は、鳥のお腹の中で適当に表面が軟らかくなり、芽が出やすく なるとか。 もし桜の木の下に落ちている種を、よその地に持って行って植えるときは、発芽しやすく するため、表面を希硫酸で洗うとか、お湯で洗って軟らかくするそうです。 砂地とか、崖崩れで新しい土がむき出しになった所などが、桜の幼い木が生きるのに 適しているのだそうです。 桜も子孫を残すために懸命なのです。 桜の果実のことは、農学部植物園長の戸澤俊治先生に教えていただきました。
本来なら「みやぎの芸術」の層を構成するはずだった美術品が時の流れの中で移動し、 今では他地域に納まっている例も多い。 流転の名品と呼ぶのは、手放した側の哀愁を込めた言い分で、現在の所蔵者の人たちは、 日本を代表する芸術遺産を継承した救い主にほかならない。 4月24日から、このような名品が一同に会した展覧会「大名の精華ー仙台伊達家の 至宝ー」が仙台市博物館で始まった。 (この文章は河北新報に掲載された仙台市博物館副館長の濱田直嗣氏の文章である) (高価な美術品も人間の窮地を救ったから、それなりの役目をはたしたことになり、一方 芸術のパトロンは、後世へ貴重な美術品を残すための役割を演じたのであろう) (一時、その芸術品を手元であずかっても守りきれず、結局公的博物館に買い取って もらい、それまでの保管係の任務をはたした人はしあわせというべきか) 以下、私の感想を述べます。 このようにして美術館の絵画は集められ、我々は一カ所で効率よく美術品を楽しむことが できる。 伊達藩ばかりでなく南部藩でも、藩ゆかりの貴重な美術品が岩手県から出ていったことで あろう。 経済原理により、見えない力で、美術品は移動してゆく。 その時、哀愁も感動も、やはり人間に心につきもので、人は美術品をめぐる人々の影に何 かを感じることであろう。
ジュネーブから来た(日本人の)若い母親が、いたるところでベビーカーが邪魔者扱い をされてショックを受けたことを投書していた。 スイスでは、子育ては立派な社会貢献と見なされ、乳幼児連れの母親は特別扱いされ、 どんな混雑時でも、必ず誰かベビーカー運びに手をさしのべてくれるという。 自分の時間を犠牲にして、将来国を支える人材を懸命に育成している母親を、微力ながら 応援してくれるのがスイスの国民だと彼女は書いている。 いくら政府が日本の将来のために、若い母親が子供を(たくさん)産み育てることを推奨 しても、肝心の国民が子供とその両親に協力しなかったら、日本の将来は悲惨である。 子供のいる夫婦が住まいを借りようとして、都会で不動産屋をまわって、苦労の果てに やっと部屋を借りられるという話をよく聞く。 公衆道徳の考え方の違いか、日本では乳母車の母子が困っている場面が多いようだ。 東京はあまりにも忙しいし、地方では気のまわらない人が多いから。 ちなみに中国では、他人が困っている母子を助ける場面を見るよりは、強い母親が活躍 する場面の方が多かったような気がする。 もちろん欧米の困っている他人に手をさしのべる道徳には、歓迎と賛成の気持ちであるが。 (東洋では、他人はあてにできない、自分の責任でできることをすべきである、という 伝統があるのかもしれない)
非婚の母の子供が認知されると、父に扶養義務があるとして 児童扶養手当が打ち切りになる制度に対し、 行政訴訟などが相次いでいる。 離婚の場合は父から養育費が出ていても支給されるのに 同じように生活が苦しい非婚の母子は支給されない。 A子さんの場合 結婚しないままに出産 相手の男性には妻と3人の子ども 家裁の鑑定で親子であるあることを認知された。 しかし、認知申し立ての費用もかさみ、手当もうちきられれば当面の生活さえ 成り立たない状況においこまれ、認知をあきらめた。 外国では、公的機関による父からの扶養料の取立代行(フランス)や、 立替払い(ドイツ)の制度があるが、 日本では取立て制度がしっかりしていない。 非婚の母の主張を認めると、他の家庭が壊れることにつながる。 (伝統的考え方) 家庭の形にかかわらず、子どもの権利は守られるべきだ。 男性の責任を明確にすることも、無責任な婚外関係を自粛させる意味で大切。 子どもの立場でいえば、子どもを健全に育てることを支援するという 児童扶養手当の主旨から考えれば、 死別、離婚、非婚などの親の婚姻形態を問わずに平等に支給するのが筋だ。 (立命館大学教授二宮周平)
米オハイオ州出身であるシンガポールに住むマイケル・フェイへの 器物損壊などの罪によるムチ打ち6回の判決は、米国人に怒りの叫びと 同意の喝采を呼び起こした。 たたくと割れ、しなやかにするため水に漬けられるムチはしりをずたずたにする。 パパが聞き分けのない子供のズボンを下ろさせ、ベルトでぴしゃりと やるのとは違う。 刑の間、犠牲者は木の台に縛り付けられる。 最初の打撃は皮を破る。囚人は苦痛と衝撃でしばしば気絶するが 意識を回復した後に続けられる。 ムチ打ちは暗黒時代にふさわしい残酷で非文明的な拷問の方法であり、 明らかに人権を侵害している。 多くの米国人はフェイがふさわしい報いを受けていると考えている。 これは、自国の犯罪問題での米国人のいらいらを反映している。 犯罪の多発で米国民は、逸脱した行動を罰したがっている。 フェイはバカなことをした。 シンガポールでは軽率な行動が迅速、確実に罰をもたらす。 その罰に悪い点は全くない。 しかし、野蛮な拷問は全くの誤りである。 (マイアミヘラルド紙、メキシコ) このぶんでは、日本に野蛮な死刑制度のあることが外交問題になりそうだ。 そもそも、シンガポールの法律がいやなら、シンガポールに行かないことだ。 シンガポールに行っても、そこの国民が守るべき法律を守れないなら 罰をうけるのは今の社会ではあたりまえ。 外国人だけ特別扱いをしているわけではなかろう。
企業30年説ではないが、30年もたつと経営がマンネリになり傾くことだってある。 最近の学生は絶対つぶれないと信じて入社試験を受けにくる。 危機感やハングリー精神をバネにしなければ、企業の発展、継続はない。 創業の原点に返り、燃える集団であれと呼びかけている。 創業の原点とは、心をベースにした経営である。 創業者稲盛和夫会長は語った。 京セラ哲学 つまり 考え方X熱意X能力=成果 考え方:ものごとに取り組む姿勢 −100〜+100 熱意:0〜+100 能力:0〜+100 生きる姿勢がマイナスだと、結果はマイナスになる。 なにごとも考え方、人間の心が大事だ。 ( 基本的姿勢が問題である。 悪いことに一生懸命になれば、何もしないよりもっと悪くなる。) (といっても結果論だが)
黄門が発(た)ちたる村に悪もどる (また黄門様が回って来なくては) 退職金あると思うな新社員 (子供の数が減っていると、若い人はかわいそう) どうしても緑に見える青信号 (私も緑に見えます。みどりの黒髪という言葉もある) 外米は妻をピラフのプロにした (その米にあった料理法がある。今年の記念になる) (毎日新聞 1994.5.28)
けがをして飛べないキツツキを持ち込まれ、その面倒を見たのは今から2年前 の6月のことであった。 鳥かごの中に入れられ持ち込まれた鳥は、その年巣立ったと思われるアカゲラ の雄だった。やがてアカゲラは私にもよく慣れてきたので、友人の望月という 名をもじってモツツキという名をつけた。 モツツキのリハビリは順調に進み、不格好ながらもいくらか飛べるようになって きたので、18日目の朝、妻と相談して森に返すことにした。 朝早く窓を開けてモツツキをはなすと、一気に裏山へ飛んでいった。 モツツキはしばらくの間、キョッ、キョッと甲高い声で鳴いていたが、やがて その声も徐々に遠ざかっていった。 月日は流れ、その年の秋に裏山を散策していると、キョッ、キョッという 懐かしい声が聞こえてきた。すぐにモツツキと思い声をかけると、私の声に 反応し私を導くように鳴きながら移動し、大きな木の所で急にどこかに いなくなってしまった。 2,3回呼んでみたが応答はなく、森の中はうそのように静まり返った。 流れる汗をふきながらなにげなく足元を見たら、なんとミズナラの根元に 大きな「舞茸」が出ていたのである。 「これはきっとあのとき助けたキツツキの恩返しに違いない」 まったく偶然なことかもしれないが、民話や昔話には鳥や動物を助けると 必ず何かの恩返しがあり、逆にいじめたりするとそのしっぺ返しが必ず 待っていることになっている。 今、野生の生き物たちの生息地が急速に追い詰められている。すべての命に 優しさを取り戻す努力を行い、大きなしっぺ返しがこないことを願わずには いられない。 (瀬川強、自然と私28 1994.11.18 朝日新聞 岩手版) 途中の文章は整理して短くしてあります。 キツツキとは立木に止まって木をつつく鳥の総称のようです。 現代版の昔話もこうしてできてくる。
続いている「ピアス論争」のことについて一言。 ピアスをすることに対して戦後自分たちが築き上げた社会を崩しているとか、 逆に主張できない若者の主張の一つだなどとか言い合っていますが、私はただ 単に、ピアスをすることはオシャレしたいから、格好いいからだと思っています。 ピアスをすることに、そんなに言い訳が必要なのでしょうか。まあ、親から もらった大切な体に穴をあけることは年配の方には考えにくいことかも しれないけれど。 確かに私も学生のころは人より目だちたくて、それなりの格好にあこがれたり しました。でも、その時の親の言ったことは「そういう格好をしたい時は、 社会人になってからにしなさい」でした。社会人になって、自分で働くように なった時なら、好きなだけ好きな格好をしてもいいというふうでした。 私も今となれば親と同感です。 まだ親に養われている学生さんなどは、もっと違うオシャレを見つけても いいのでは? そして、自分で働いて、自分のお金を手にした時、好きなだけ オシャレをすればいいんじゃないでしょうか。なんだかまた違う意見を出して しまって、反論がきてしまいそうですが、私が言いたかったのは、ピアスを するのはその人の自由でいいんじゃないかなあ.... ということです。 (岩手日報夕刊 12月21日) 私の学科にもピアスをしている男子学生がいるようです。 そんなとき、私は古代インドの釈迦が出家する前にピアスをしていたこと、だから 仏像には耳に穴があいている等を教えてあげます。
発展途上国に旅行すると運転マナーの悪さに驚くが、日本も30年前は 同様な状態であり、普及台数はわずかだったが事故死は現在より多いなど、 まさに交通戦争の時代だった。 当時、私が勤務していたオートバイ・メーカーでも耐久テスト中の事故が 絶えないため、社外の専門家に依頼して安全運転の研修会を実施すること になった。 依頼した講師は自動車専門誌に所属する著名なドライバーで、講演経験も 豊富にあり、また、高速で車の間を縫うように走る運転技術は紙上でも 度々、紹介されていた。 研修は数日の予定で開始したが、なぜか性能の限界で走行するテクニックが 主体であり、また、箱根越えのテストで新記録を出した等々、自慢話が多い のも気になる内容であった。 ところが、最後の研修日、予定時間になっても講師が見えないので自宅に 電話したところ、なんと本人は昨日、奥多摩で交通事故を起こして死亡した とのこと、速度オーバーでカーブを曲がれずに谷底に転落、即死したという。 講師不在の研修会は急きょ、参加者全員による事故分析会になったが、”安全 運転とは安全を思う心で行うもので、運転技術の過信ほど危険なものはない” が一致した結論になり、不本意ながら、講師はそれを自ら立証して役割を 果たしたとする意見もあった。 確かにスポーツカーや同窓会で友達を乗せた若者の事故が多いのは、運転技術 の過信と友達に対するみえが原因で、大半は本人の自覚で防げた事故と断定 できる。 自慢できる運転技術とは巧みに車を走らすことではなく、常に安全率の 高い運転ができる無事故運転の技術である。 (石田亘、サンデー発言、東京新聞 7月21日) いわゆる名人技は誰にでもできることではない。 昔見た映画の場面で、美空ひばりがアメリカ人少女と東京の町を歩くところで 日本に着いたばかりのアメリカ人娘が、蕎麦屋の出前持ちが片手に蕎麦のザル を何重にも積み重ね、片手運転で自転車に乗っていくのを見ている場面が あった。 蕎麦屋の出前もちも何度か失敗して身につけるそうだが、あれはもう サーカス(中国の雑技団)だ。 それはそれでたいしたものだが、誰にでもできるものではない。 携帯電話を使いながら、片手運転するのも、そういう状態の上手な運転は誰にでも できるものでない。 よって携帯電話は原則として禁止すべきだ。特に技能がすぐれていると 認められた者は許可されてよい。
ロシアの木彫り人形。 ダルマ型で大きな目の花嫁が描かれている。 太い腹部はひねると上下に分かれ、内部も上手にダルマ型に くり抜かれ、一回り小さい花嫁が入っている。 その中にもう一つ、というように入れ子細工の人形が合計七つある。 マトリョーシカ(小さいお母さん)がこの人形の名前だが子宝ぶりは 壮観である。 (岩手日報夕刊 7月8日) マトリョーシカは元々日本の玩具がヒントで生まれたロシアの おみやげという。
(吉田文雄、国立科学博物館ニュース 第285号) ヤマナシは落葉高木で高さが5〜10mになり、花の咲く春4〜5月は木全体が白色の 花に覆われる。 中国原産で、日本では古くから栽培されていて、ときに逸脱し山林の中などに孤立する 木を見ることがある。 果肉には繊維成分のセルロースや石細胞が多く、かじるとがじがじした石の感触が残る。 宮沢賢治の「やまなし」では、厳しい冬を過ごしている蟹の親子の語らいの中に、 ぽかぽかと流れていく「やまなし」は、谷川の水の中の平和と心の安らぎを与えている。 やまなしが流れていて蟹がいる、そんな風景を見つけることがあるだろうか。 宮沢賢治は花巻の出身で、盛岡の付近を舞台にした童話も作っているが、 山猫が出てきたりする森や林の話はなんといっても花巻の近くの大迫(おおはざま)が 舞台ではなかろうか。 大迫なら、まだ自然が残されている。早池峰(はやちね)があるところだもの。 このように人間の影響が少しだけ自然に入って、しかし自然はまだ健在というのがいい のかもしれない。 人間のまだ足をふみ入れていない自然は、ときには人間にきびしすぎる。 また、人工の建物、アスファルトのジャングルにいるとき、我々は自然がほしくなる。 クランボンという童話の中の「やまなし」がどんなものか勉強になったので、みなさん にもお知らせします。
テレビ番組で、わがままな料理店のことが紹介されていた。 わがままというわけは、料理した店の主人が客に講釈し、食べ方までお節介をやいて 口やかましく指示しているからである。 もうひとつは、自分が作った料理がわからない客は帰ってもらうとか、もううちの店へ はこないでくれと露骨に口に出したりする。 料理に誰にでもあてはまるいい味などありえない。作られた料理と自分の味覚の趣向 とのあいだの密かなコミニュケーションがその料理の味なのだ。 料理する店の料理人が、自分の選んだ素材は新鮮だから美味だと思いこんだり、 味付けや火を通す仕方がていねいだからいいはずだと思っても、 仕上がった料理と客のあいだに密かな、つまりその料理とその客のあいだにしか 成り立たないコミニュケーションがなかったら、 おいしい料理などありうるはずがない。 さんざん講釈したり、食べ方を指定したりして提供しても、提供された料理とそれを 食べる個々の客のところで、 はじめて本当のうまいとかまずいとかいう評価は定まるので、料理人が定めるわけでは ない。 (吉元隆明:独り善がりな料理人、岩手日報 1月23日夕刊)
論語は日本では今でも売れている。1945年から1984年までに、論語の訳注や研究 などが50余点出版され、しかもある本は十数版を重ねている。 京都の修学院から北白川の京大人文研への3キロほどの道に、3本の立て札があり、筆で 「昔孟母三遷、今はできません、愛する子供に良い環境を」と書かれている。 京都では毎年7月17日からの祇園祭で、夏を迎えて、やくよけが行われる。そのとき 行列する山鉾の5番が函谷鉾で、史記の孟嘗君列伝の鶏鳴狗盗の故事、10番が白楽天山 で、白居易が道林禅師に仏法を問うた故事、14番と18番が郭巨山と孟宗山で、二十四 孝図の故事、16番が伯芽山で呂氏春秋本味、17番が鳩山で尭の天下を治めた故事、 27番が鯉山で登龍門の故事である。 (巌紹湯、中国図書 1991.3、内山書店) このように、現代の日本文化に中国の伝統文化の影響がひそんでいる。ここのような ことは、たぶん近代の欧米文化と日本文化との関係では見られないであろう。
熊猟を自粛する動きが、西日本を中心に広がっている。 狩猟団体の全国組織、社団法人大日本猟友会(本部東京)は、昨年6月の総会で「狩猟 による熊の捕獲をむこう3年間、3割自粛する」と決めた。 関東より西の地方で熊のいない地域が広がり、このまま捕り続ければ、狩猟資源として の熊は枯渇しかねない等が主な理由であるとか。 こうした動きを事前に察知した岩手県県猟友会の事務局長は、昨年札幌で開かれた東北 7県北海道連合猟友会の総会では 「西日本などでは、熊が絶滅しそうで困っているようだ。狩猟などで保護した子熊を譲っ て放す話を持ちかけてはどうか」 と発言した。 この発言は圏内ハンターの多くに共通した本音であるそうだ。 つまり、「熊の胆嚢がカネになるからと捕りまくったのは西日本の方だ。向こうで捕り 尽くして熊がいなくなったから東北で保護を、というのは本末転倒だ。 それほど熊を保護したいなら絶滅寸前の四国や九州に本県の熊を何十頭か運んで放して あげてもいい」というのが岩手県人の本当の気持ちであろう。 熊はいらない、しかし保護をという先進地域、大都市の勝手気ままに我慢のならない人 が多い。 これって一種の南北問題ですよ。 先進国が自分の国土の自然をさんざん破壊して、とりかえしがつかなくなって、発展途 上国の開拓整地事業を、自然保護を真っ先にと阻止するのに似ている。 日本でのツキノワグマの放獣は、猛獣ゆえ自分の所に持ってきたくない、というのが本 音であろう。 ニホンオオカミが絶滅したが、シベリヤやヨーロッパからオオカミを持って来て山野に 放し飼いにしようという物好きはいないだろう。
船長であり、唯一の生存者(?)であるボーマンの立場から、 孤立無縁の宇宙船内での HAL9000 の暴走として描かれて いたように思います。 ストーリィから見ると、単なる木星有人探査に隠れて、月 のモノリスが情報を送った先の探査という乗組員に隠された ミッションを負わされた HAL が、表のミッションと裏のミッ ションとの間でパラドックスに陥り、狂気に至る。というよ うなものかな。 現代的に解釈すると、乗組員にウソをつかなければいけな かった HAL がストレスで(というよりダブルバインド状況の もとに)神経症になって、ついには狂ってしまった、という ことかな。 HAL の「意志」というところと「危険性を予測」というと ころに異議ありですね。争点は「HAL に自己保存欲求があっ たか」というところでしょうか。 (とやま在住のきんねこ氏)
越中三郷(えっちゅうさんごう)はばんどり忠次郎の生地。 加賀藩の時代、農民は米を作っていながら、常食にすることができなかった。 藩主への年貢にとられ、ふだんはアワ、ソバ、キビを食べ、 米の飯は正月か、盆か、祭にしか口に入らなかった。 年貢のとりたては、豊凶にかかわらず厳しかった。 定められたとおり、娘を売っても納めなければならない。 さもないと拷問、水牢がまっていた。 明治2年は梅雨が長く、稲熱病が大発生して、イネのみのりが悪かった。 塚越村の宮崎忠次郎らは、郡宰山本又次郎に年貢米の軽減を嘆願したが、 ききいれてもらえなかった。 忠次郎が首領となって、藩役人にわたした6項目の要求書に、 藩の回答がなかったため、農民たちは隊列を組み、各地の十村、手代、豪農、 豪商をおそい、焼き討ち、略奪のかぎりをつくした。 これが加賀藩最後の、そして最大の百姓一揆ばんどり騒動である。 ばんどり(蓑みの)を着た農民たちは、手に手にたいまつをかざし、 竹ぼらを吹いて、村から村へと怒涛のように押し寄せた。 滑川、魚津、黒部から、入善、泊まですすみ、その数は三万とも十万ともいわれる。 忠次郎は、この間かごに乗って指揮をしたと伝えられる。 忠次郎は藩兵の夜襲を受けて、ついに捕らえられた。 忠次郎の取り調べ口書に 「以後十村、手代、惣代、肝煎は百姓入札を以て命ぜられるよう願いたて候」 とあり、これは役人の公選を主張していたのであった。 飢饉と一揆は、つい最近まで岩手でもひんぱんにあったことである。 さて、ここでは「ばんどり」を蓑として、藁で作った雨河童を着た男たちの姿が 描かれてある。 ところが鶴岡の致道博物館で見た「ばんどり」コレクションでは、 ばんどりの語源は羽根を広げた鳥の形をしているからであり、 しょいこの一種と説明されている。 重い荷物を背中にしょうのに直接では肩が痛くなるから、 クッションにしたのだとの説明。 なるほど。 結婚前に男が女に手作りばんどりをプレゼントした、とも説明に書いてある。 薪も荷物もしょわないで、背中や身を守るためのものに徹すれば、蓑ともなるが、 ばんどりの本当の意味は何か、と思ってしまった。
盛岡市出身の浅野七之助がサンフランシスコの自宅で、3月6日(日本時間7日) 死去した。 98歳だった。 郷土の先輩、原敬の書生となり、中央大学で学んだ後、大正時代に東京毎夕新聞記者 特派員として渡米、1924年から朝日新聞米国西部沿岸通信員を務めた。 サンフランシスコの代表的邦字紙「日米時事」を発刊し、社長となる。 在米日本人、日系人の権利擁護、拡張のための民権擁護協会、帰化権獲得同盟に参加 した。 (戦前、日本人の土地所有を事実上禁じた法律が成立したり、日本人に帰化権はないと の最高裁の判断が出されるなどの排日の動きに対して、言論の場で対抗した。 裁判闘争を支援したり、日系人の権利擁護、地位向上を求める論陣をはった) アジアの困窮者を救うために米国で設立された団体による「ララ物資」の父とまで いわれた。 (敗戦の日本に、米国のクェーカー教徒らの協力を得てミルクや衣類などの「ララ」 物質を送り、子供達を飢餓から救ったことは忘れることができない) 日米親善と在留邦人の地位向上に貢献したことで、勲三等瑞宝章を授与された。 県勢功労授賞の感想として啄木の歌「ふるさとの山に向かいて言うことなし...」の 心境だと語ったという。 永住権は持ちながら、米国国籍は取らなかった。望郷の国際人だった。
ある日タクシーに乗ったらラジオで電話相談をやっていた。 相談にのってもらっているのは60代の男性で、話し方からするといわゆる 「田舎のおじさん」という感じだった。 女性の演歌歌手にのぼせてしまい、お花を持っていつも会いにいったり、一日中 カラオケばかり歌っているので奥さんが(あいそをつかして)出ていってしまった。 相談にのっている男性はてきぱきとした調子で奥さんの立場からおじさんに全面的に 反省を促し、 奥さんはお嫁にきてくれた人としてもっと大切にあつかい、感謝の気持ちをもって、 演歌歌手に花をあげるなら(むしろ)奥さんに花を贈りなさいというアドバイスを していた。 番組の最後に相談相手が美輪明宏だとわかり思わずほほえんでしまった。 演歌に没頭している田舎のおじさんが女装したシャンソン歌手に悩みを相談している 風景がなんとなく滑稽に思えたし、 日本人もずいぶん変わったものだと思った。 タクシーの運転手も60代のおじさんふうの人で、「ああいうおじさんでもラジオの 電話相談をかけてくるんですね」といったら、 「いや、もう日本人はみんなカプセルみたいになっちゃってて他に相談に行くところが ないんですよ」という返事がかえってきた。 ずいぶん的を射たことをいうすごい運転手だなと思って感心してしまった。 皆が透明なカプセルに覆われ孤立しているかもしれない。 幼い頃、母がいつも苦い粉薬を包んでくれたあのなんとも柔らかい薄い、やや甘い、 すぐ溶けてしまうオブラートのことを思いだした。 (かたるしす、精神療法 VOL.18 NO.3 岩手大学人文社会科学部佐藤文子教授に お世話になりました) さて恒例の私のコメントですが、 毛利さんの言葉を覚えているでしょうか。 地球の回りはオブラートのような大気と水があって、我々生き物を守ってくれる のです。 カプセルだけでは人間は生きていけない。 しかし、この頃は自分の世界に没入する若者が多いです。 ウォークマンを耳に、パソコンに向かってソフト開発、なんてカッコイイ。 小学生が5,6人同じ部屋にいても、みんなそれぞれファミコンやテレビ、読書に はいりこんでお互いに個室の世界になっている。 一昨年、ニュルンベルクでおもちゃの博物館を探していたとき、通りかがりの女子大生 に道を訪ねたことがあります。 彼女はウォークマンをしていて、私の呼びかけに耳からイャホーンをはずしたけど、 難聴にならないでね、と心の中でいいました(ちゃんと道を教えてくれたけど)。 東京にいったら、回りはほとんど宇宙人、私は盛岡から行ったらおもいっきり孤独を 味わいます。 そばで暴漢が何かしても回りはあてにならない。 岩手とくらべて東京はほとんどカプセルの中にくらしているように思われます。 ある意味では、理想の世界ではありますが。 パソコン通信はカプセルの壁を破るものでしょうか。 それともオフラインがカプセルを越えるものでしょうか。 ニュルンベルクでウォークマンの女子大生に会って 道を聞いたのは、1990年12月のこと。
コミック編
宝塚歌劇団、花組は4月〜5月公演で手塚治虫の代表作 「ブラックジャック」を取り上げた。 手塚治虫記念館の竣工に合わせた企画であろう。 主人公の外科医ブラックジャックを演じるのは 花組トップスターの安寿ミラ。 天才的な腕を持つ謎の外科医、 手術は金のためと公言してはばからない倣慢にも見える言動、しかし心の底には人間へ の愛があふれている。 「純粋すぎて、それゆえにアウトローになってしまった。 冷酷に見えるけど、根はものすごく深くて優しい、 そんなブラックジャックを演じたいですね」 ∞ ∞ ∞ ブラックジャックもゴルゴ13も 金のために仕事をする。 それでいながら主人公になれる。 その共通の秘密は?
私にとっては、少年王者さらに少年ケニアなどの絵物語の作者であった 山川惣治の死は、少年時代よさらばということです。 彼の作品は多くの日本の子供に読まれました。 84歳で亡くなったということです。 手塚治虫と山川惣治こそは、当時の子供たちの夢であったのです。
壇ふみVS里中満智子 里中:わたしは中学生の頃から投稿していたんです。 大阪に住んでいたから東京の出版社に送るしかない。 だから、こつこつ描いてためたお小遣いで切手を買って投稿していたんですよ。 こういう修業時代は十年くらい続くんだろうと覚悟していました。 じつはちばてつや先生のアシスタントになりたかったんですけれど。 壇:それで結局、新人賞でデビューなさったのがなんと高校二年生のとき。 里中:これを履歴書がわりに、ちば先生のアシスタントにしてもらえるかもしれない。 ええ、好きだったんですよ。ちば先生は少女漫画の出身でいらっしゃるし、 新しい少女漫画のスタイルを確立した人だと思うんです。 壇:そんな漫画ばかり読んじゃいけませんとか、 漫画ばかり描いていちゃいけませんとか、その辺りの闘いはどうされていたんですか。 里中:もう描く以前の問題で、漫画を読むことが子供の教育に悪いといわれた時代で、 学校でも禁止されていました。 先生に見つかると、こんなものを読んでいると頭が悪くなるって、ストーブで燃やされ たりするんですよ。 子供にとっては大事にしているものが燃えていくわけで、悲しくって・・・・ 壇:それで、そのストーブで燃やされた、里中さんが当時読まれていた漫画は どんなものだったんですか。 里中:やっぱり手塚先生の「鉄腕アトム」とか「ジャングル大帝」を読んで感動 しましたね。 漫画といい、映画といい、当時は勧善懲悪ものが多いなかに、 「鉄腕アトム」には、アトムと戦う悪いことをするロボットがでてきて、そうなる 理由がちゃんとあるわけです。 悪いことをしたのが、 本人の考え違いの場合もあれば、 間違った教育を受けてやっていたりとか、 それしか自己表現の方法がなかったりとか。 アトムはそういった相手と戦うわけですけれど、 相手をやっつけてめでたしめでたしじゃないんですね。 壇:漫画で教訓が学べたわけですね。 壇:当時と比べると、漫画というのはどんどん変化していますね。 小学校の頃のわたしが読んでいた母子ものと比べると、いまのセーラームーンなんて 全く違う。 母子ものを読んでいて、わたしはおいおい泣いていたなんて、昔は本当にのんびりして いたなあと思うんですけど、 セーラームーンは、カラッとしていて、しかもカッコいいわけでしょう。 里中:昔は男だから、女だからという役割があって、本人もそういう意識で育ってきて ましたよね。 それから徐々にですが、若い世代になればなるほど、男女の性差がなくなりつつある ように思えるんです。 本人の能力が全面に出てきて、性別はあまり関係なくなってきている。 漫画にもそれが現れていて、いまおっしゃったセーラームーンはたまたま主人公が 女の子だけれども、 やっていることは、昔の少年漫画のスーパーヒーローです。 あれを見て女の子は痛快だし、男の子はカッコいいなと憧れるわけですよ。 ときどき危ないおじさんも憧れていますけどね。 里中満智子 「ピアの肖像」で講談社新人マンガ賞受賞。 代表作は「あした輝く」(講談社出版文化賞)、「あすなろ坂」 現在東西の歴史にテーマを求めた「天上の虹」「アトンの娘」を連載中。 (SIGNATURE 第34巻 第6号)
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