中国四川省都江堰と安瀾橋を見学
1.まえがき
中国四川省成都にある西南交通大学で学術講演をす
る機会があり,大学当局のはからいで近くの都江堰と
安瀾橋を見学することができたので,この紙面を借り
て報告したい。
2.都江堰
都江堰は,日本では「とこうえん」と一般に呼ばれ
ているが,筆者は「とこうぜき」とあえて呼びたい。
参考文献1)で詳しく説明されているように,四川省
の首都成都(せいと)から,西北へ約60kmほど行っ
たところに,世界的にも有名な濯県(かんけん)の都
江堰がある。これは今から2200年ほど前に,始皇帝の
祖父にあたる秦の昭王の時代に,蜀郡の太守(BC256
-251)となった李冰(りひょう)が,岷江(びんこう)
に設けた分水堰である。親子二代にわたって行われた
事業によって,洪水は防がれ,潅漑によって川西平原
は干ばつにも洪水にも被害を受けることがなくなり,
広々とした肥沃な田畑が「天府の国」を作り上げたの
である。これは中国水利事業の歴史的記念物である。
図−1 都江堰全体の配置図
なお天府の国とは成都のことで,年平均気温17℃,
年間降水量1000mmと恵まれた自然条件の中で,農
産物の豊富なことからきている。また,蜀の国の字の
示すごとく蚕の古くからの産地で,絹織物の一種であ
る錦織りが盛んな所でもある。そのため錦城とも呼ば
れる。あるいは,後蜀の孟昶は城内至るところに芙蓉
の花を植えたので,成都は芙蓉城とも呼ばれる。日本
人には三国志の蜀として有名で,諸葛孔明や劉備玄徳
を祭る廟もある。
都江堰工事は,魚嘴,飛沙堰,宝瓶口の3つの部分
からなっている。魚嘴とは,岷江を外江(本流でやが
て長江まで至る。長江の下流のことを日本では揚子江
という)と内江(人工の潅漑用水路)に分けるもので
ある。ちょうどその形が魚の口に似ていることから名
づけられた。飛沙堰とは,内江に土砂が流れ込むのを
防ぎ,水量を調節するものである。宝瓶口とは,玉塁
山を切り開いて造った取水口である。
筆者らは山の上で車を降りて,展望台から都江堰全
体を見おろした後,山の斜面に建つ二王廟を見て川の
ほうへと降りて行き,それから吊橋を渡った。二王廟
には,李冰とその息子李二郎が祭られている。
吊橋の下流の内江側には伏竜観があり,伏竜観には,
李冰像ともう一体,3mにも及ぶ頭部のなくなった石
像が置かれている。これには,後漢建寧元年(168)に
造られたと刻字があり,李冰父子への信仰を知るうえ
写真−1 二王廟
での貴重な資料とされている。これは1974年都江堰の
流れを一時せき止めて整備したときに川底から見つか
ったものである。
これらは,中国の利水治水工事の偉大さを感じさせ
るもので,当時の社会が政治と宗教に結びついていた
ことを示す例でもあろう。
3.安瀾橋(あんらんきょう)
都江堰の一帯は,昔から岷江の両岸の交通の重要な
道筋にあたり,川には早くから竹索橋がかかっていた
という。
言い伝えでは,末代以前では「珠浦橋」と呼ばれ,
宋の淳化年間(990‐994)に再建され,ほどなく「平事
橋」と改められた。明末に戦により破壊され,舟の渡
しとなったが,清代にまた昔と同じ形に再建された。
嘉慶8年(1803)に旧置にならい建立し,安瀾橋と名
づけられたという。
写真−2 安瀾橋の入口の門
現代の橋は,岷江の中に設けられた砂州に築かれた
石堤の上に橋台が置かれて,全体的には砂州で分けら
れた2つの川に,それぞれ3径聞連続吊橋がかかって
いるように見える。全長340 m, 幅3m余り,下から
の高さは13m近くで,岷江の急流を見下ろしながら
観光客が揺れる吊橋を渡るときは,思わず歓声があが
るものである。
昔は橋全体を支えるものは,細い竹ヒゴで編んで作
った太さ5寸の竹索22本を用いて渡され,そのうち
I0本を底索として,上に木板を橋面として敷き,その
上から2本の圧板索で押さえ,あとの10本は辺索と呼
ばれ,左右5本ずつ欄干として使われた。要するに,
橋の床と左右の側面にそれぞれ竹のケーブルが配置さ
れていたわけである。竹索には,付近の山中に生育し
ている白甲竹が用いられた。ここは竹の産地だけあっ
写真―3 前方に見えるのは川中央の石堤
写真−4 橋の途中から二王廟の建つ山を振り返る
写真−5 川を渡り終え石堤に着く直前
てパンダのいる動物園はもちろん,杜甫が戦乱を逃が
れて3年9ヵ月住んだという杜甫草堂にも,竹の木が
いたるところに繁茂しており,また町で見かけた電柱
工事用の長いはしごも竹でできていた。
竹索の固定設備は,橋の両端の石室内にある。底索
は木製の絞り車できつく締め,また側面の辺索のほう
は,立柱の「転柱」という回転する柱に巻かれて締め
られている。竹索は乾湿によって伸縮状態が変わり,
また橋として張った後も力を受けて伸びる。これらの
ゆるみを調整し,また竹索が腐ったとき,これを取り
替える必要がある。そのため竹索橋では,古くからこ
写真−6 石堤付近から今渡ってきた吊橋を望む(吊橋)は内
江では3径間連続吊橋のように見えるが、手前に
見えるように石堤の部分にもう1径間あるよう
である。筆者は次回に行くときに確認するつもり
である)
写真−7 石堤のところにある料金所、両側の吊橋からくる
観光答のチェックをしている。橋全体を渡ると2
度の検札を受けるので,その結果戻る場合は再度
渡橋券を買うことになる。
のような固定方法がとられてきた。
安瀾橋の橋脚は,大部分は丸太を用い,裾の広がっ
た列柱式である。橋脚はそれぞれ,太い木杭5本を川
底に打ち込み,問に横木1本を渡してつなぎ,さらに
橋脚のまわりに石を積み上げて,水に流されるのを防
写真−8 橋の床板とケーブル
いでいる。
1956年に新しい都江堰を建設した際,清代の橋型に
従って安瀾橋は改築された。その際,竹索は直径35
mmのワイヤロープに変えられ,欄干索の固定設備な
ど,一部の設備は鉄筋コンクリート柱に改めて固定方
法も変わったが,底索の固定方法は変えられなかった。
鉄のローブに変わって吊橋は丈夫になったはずである
が,観光客で満載されたような状態の橋を渡り終える
とほっとしたものである。
なお旅行ガイドには,成都から都江堰まで直通バス
で約2時間と書かれてあるが,大学の車では実際に1
時間余りで到達した。郊外の道路には信号がなく,平
たんな直線道路なので,高速道路なみに走ったような
気がする。
この紙面を借りて,西南交通大学沈大元学長,陳大
鵬教授,周本寛教授に感謝する。
参考文献
1)武部健―編訳:中国名橋物語,技報堂出版,1987
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