人文社会科学の日本思想史の藤原暹教授
に声をかけられ、生活思想史研究会の第2の出版
として、書いたものです。
石の中に鉄を溶かして芯を入れるという
江戸時代の学者本田利明の想像的
西洋の建築方法がはたして可能かどうかを解明せよ
というテーマでした。

この機会に私は専門の鋼材の歴史などを勉強しました。

 生活思想研究会が、財団法人ベターホ
ーム協会「生活文化に関する研究助成金」
を受けた研究成果を出版したもので、
この中で宮本は「本田利明の技術論」という
題で、江戸時代の学者本田利明の西洋建築
に関する記述を、技術的に可能な工法か
そうでないかを資料をもとに説明した。
(白山芳太郎、八重樫直比古、佐久間正、
首藤美香子、藤原 暹、川本栄三郎、宮本裕    
編集者は藤原 暹)                   
.....................
本田利明の技術論
   中国・西洋との比較を中心に

                宮本 裕
は じ め に

 本田利明の著『西城物語』に、次の一節がある。
 「欧羅巴諸国の内、隆なる国は皆石作也と聞く。
それはどの様成造り方かという人に答ふ。前にも云如く、
エゲレス、フランス、ヲランダ、ゼルマニヤ、ホーレン、
イタリヤ、イスパニヤ、ポルトガル、トルコ、モスコビヤ等也。
何れも石家作也。

 その造方はいかんとなれば、角柱及利目柱の部は
中心に鉄を通じ、一本石の如くする也。いかんとして
鉄を通したるとなれば、石を長く四方に切て、幾継にて、
長さ何様の丈と成杯の員数、符合調度の後、風車を仕懸け
大風を待得て、各柱の中心へ錐穴をもみ通し、又地形を、
大底より大石を用いて、石畳に築立、地形出来の後、
柱立に係る。柱石を重て足代を組、又累て足代を組、
累終て足代堅固の後、柱頭に鞴を仕懸け、鉄を沸して
熱湯となし、柱頭より下地形石に至て、彼熱湯を流し込也。
鉄柱の如し。利目の柱は皆此の如し。間々の柱は左までせず、
壁は漆石灰を用て築立、真の石壁の如し。光り請の所は
琉璃を用て、紙を用る事なし。二階、三階の梁は銅鉄等を用、
漆石灰に練立、家根は銅瓦、鉄瓦をのをの鋳物也。内造作は
木を用る事、日本の如し。家居広大にして四季草花の絶えず
仕方ありて、四季草花絶えず咲。寒中に重衣を着ざる様
暖気を設く故、極寒中といへども夜中夜着なし。
敷物はパンヤの布団を敷事、或は三ツ四ツ、奢侈莫大なり。」

 ここでヨーロッパの石の家の作り方を説明しているが、
はたしてこの内容は正しいであろうか。特に石を縦に積んで、
そのできた石柱の中心に穴をあけて、上から溶かした鉄を
注ぎ込んで鉄の柱を中心部に通す工法はユニークであり、
この例があるのか、あるいはこの工法が可能であるかを
論じてみたいと思う。

 石作り建築の代表的な例は教会建築である。今でもヨーロッパ
には大聖堂とよばれる大きな教会がよい状態に保存され、
修復工事がひんばんに行われている。石の教会建築における、
鉄材料の利用形態の実態と、当時の製鉄技術について論じることが、
この問題の解答になると思われるので、以下のように説明を展開したい。

 (l)鉄の性質および製鉄技術の歴史を説明する。
 (2)本多利明の著書の内容に近い工法が、中国の橋に
    あるので、それを説明する。
 (3)ヨーロッパの教会で使われた鉄の棒の引張り部材
    としての使用例について説明する。
 (4)以上の資料から総合的に判断して、本多利明の説明
    が工学的に可能か困難なものであるかについて、
    著者の意見をまとめる。

製 鉄 の 歴 史

 地球を構成する金属元素の中で、鉄はアルミニウムについで、
第二位を占めている。地殻の表層部では、鉄が自然のまま金属状態
で存在することはまれであり、大部分が酸化鉄を含む鉄鉱石の状態
で存在する。

 人類が鉄を知ったのは、地上に落下した鉄隕石によってで
あるという説もあるが、一説には、鉱床の上の焚火の灰の中から
という見方もある。

 紀元前約五〇〇〇年の青銅器時代に、元始的冶金法が始められて、
この頃から同時に鉄の刃物や工具も作られていたとも考えられるが、
鉄器はさびて腐食してしまったため、この時代の青銅器にくらべて、
遺物が保存されている例は少ない。エジプトのゲルゼー先王朝の墳墓
から発見された鉄小玉のついたネックレスは、紀元前三五〇〇〜
三〇〇〇年のものと推定され、またギザのクフ王のピラミッドの積み石
の間から紀元前二五〇〇年頃ののこぎりの部分が発見されている。
これらの鉄は化学分析の結果隕鉄とされている。隕鉄の成分はニッケルと
鉄の合金で、ニッケル含有率は四〜二〇%(大部分は一五〜二〇%)である。
今まで自然界ではこれほど高いニッケル含有率をもつ鉄鉱石は
発見されていない。隕鉄は宇宙空間で極度にゆっくりと冷却され
(100万年ごとに1〜10℃)、転換過程は4×10の9乗年
に及ぶため特殊なウィドマンシュテッテン組織を形成する。
含まれているニッケル・コバルトは極度に遅く冷却された場合、
層状に分布する。このことから隕鉄を識別することができる。

 紀元前一五世紀頃から、青銅の代わりに鉄を用いて武器、農具、
工具を製造利用することが発達普及し、いわゆる鉄器時代に入った。
鉄器の最も古く発達したのは小アジア地方とされているが、
紀元前10世紀頃には、原始的製鉄技術は、ヨーロッパ、インド、
中国などにも普及していた。

 古代および中世を通じて、紀元一五世紀頃にいたるまでの
古い製鉄技術の特長は、鉄を溶けないままで鉄鉱石から製鉄する
ことにあった。この点が、青銅、金銀その他の金属の冶金法とは
著しく異なっており、同じ頃すでに、鉄以外の金属は溶けて
製造されるようになっていた。

 古代の鉄の冶金は、鉄鉱石を木炭の燃焼熱で加熱すると同時に、
木炭から発生する一酸化炭素によって酸化鉄から金属鉄へと還元を
行わせるもので、この時代の木炭の燃焼温度では鉄が溶融するまでに
達していないので、鉄は赤熱のあめ状塊(塊煉鉄)として生産された。
この鉄をさらに、鍛冶屋が鍛錬精製することによって、
各種の鉄製品が成形製造された。

 古代から、中国などの一部では、溶融冶金による鋳鉄の製造も
行われていたが、稚拙な鋳鉄は、もろくて加工が困難であり、
むしろ青銅器の硬度と強度に劣るため、鉄器として賞用されるための
特長を欠いており、この点から鍛鉄冶金による鉄のほうが大量生産には
歓迎された。春秋晩期の中国江蘇省六合程橋出土の鉄棒、湖南省長沙
出土の刀(鉄削)及び鉄剣は、塊煉鉄であった。BC五世紀の江蘇省
六合程橋出土の鉄塊、長沙識字嶺出土の鉄鍬などは鑑定の結果、
鋳鉄で作られた実用品であった。技術面からみると、塊煉鉄と鋳鉄は
材料が同じで、単に精錬温度が違うだけである。鋳鉄の脆さを克服する
ために、遅くともBC五世紀には焼きなまし熱処理の方法が発明された
という。洛陽市セメント工場出土の鉄手斧などに表面処理した跡が
見られる。鋳鉄を用いて農具や工具を鋳ることと、塊煉鉄を用いて
兵器を作ること、この二つの製鉄技術が同時に発展したのが中国の
製鉄技術の特徴であるといわれている。北京科技大学韓教授は中国の
鋳鉄生産のために必要な高熱炉の技術は、伝統的な製陶技術による
ものだと説明している。ちなみに新石器時代に製陶技術がかなり
発達して、合理的な窪を使って一二八〇℃もの高温を得ていたという。
また紀元前二〇〇〇年の龍山文化期に、窯内の空気をコント口ールして
黒陶を作っていた。

 ヨーロッパは一四、五世紀の中世末から文化、産業、通商の
新発展期に入り、科学、技術上の新発見があいついで行われ、
製鉄の面でも、ドイツで新しい高炉法が開発され、製鉄の新技術
時代の幕が切って落とされた。

 この新しい高炉製鉄法の出現こそは、製鋼の歴史において、
最も重要な新紀元を画する重大事とされている。それは、高炉法
によって、いわゆる鍛冶屋の時代から、溶融状態の鉄の量産時代
への道が開かれたからである。

 初期の溶鉱炉は、石炭の代わりに木炭を用い、水車ふいごに
よって強力送風し、これによって炉内温度を従来よりも上昇させた。
炉内で鉄鉱石から還元された鉄は、さらに炭素を吸収することによって
融点が低下し、一二〇〇℃ぐらいの温度において鉄の湯となって溶融状態
で流出するようになった。この溶出した鉄を用いて、鋳鉄品の製造が
始められたが、初期の溶融鉄は、従前のあめ状塊の鉄と異なり、
もろくて鍛造に適せず、鉄器具の製造には便利でなかった。

 このような、鉄の溶融冶金法の出現発達は、一四、五世紀に入ると
溶鉱炉の形を次第に大型化させるとともに、炉内の熱交換と還元効果を
高めるために背の高いものに変革され、頂部から鉱石と木炭を投入して、
下部から送風を行ういわゆる高炉の形成がすすめられてきた。

 同じ頃、高炉から生産された銑鉄は、そのままでは可鍛性が乏しい欠点を
補うため、これを再加熱して、酸素によって銑鉄中の炭素分を除去し、
炭素含有量の少ない可鍛性の半溶鉄に変える方法も考察された。
このような二段階の製鉄法が約四世紀ほど続いて、一八世紀に入って
やっと今日の溶鋼法が確立された。

 一五世紀、一六世紀の高炉は、燃料に木炭を利用していた。
しかし、鉄の需要の増大につれて、高炉の数が増大してゆくと、
木炭入手のための森林資源は、たちまち深刻な不足状態に陥り、
木炭による高炉の運営は重大な制約を受けるようになった。
そこで、木炭の代わりに、豊富な石炭を高炉燃料に用いようとする試みが、
一七世紀の始めごろからイギリスで企てられた。しかし、
そのままの石炭を高炉燃料に使用すると、石炭中の硫黄分のため鉄が
もろくなるばかりでなく、灰分のスラグの発生や、より強力な送風機の
必要などいろいろの障害に遭遇し、成功するまでには約一世紀を費した。
石炭の代わりにコークスを用いることによって問題が解決されたのは
一八世紀の初頭である。しかし、コークス高炉法が一般に普及し
始めたのは一七五〇年代以降であるとされている。

 高炉の、木炭からコークス燃料化と並行して、量産化された高炉銑を
可鍛鉄化するのに必要な木炭をも、石炭に切り替えるための研究が
進められてきた。これには、約二世紀の苦闘を経たのち、
一七八三年に至って、イギリス人コートによって、反射炉式の精錬法
として完成された。この方法では、銑鉄を加熱するのに、石炭に
直接接触させないため、火床で焚いた火焔だけを溶解室に導くように
されていた。高温で銑鉄の炭素分か酸化脱炭されると、溶銑は溶解点が
上がり、銑はしだいにねばねばした状態に変わってゆくのを棒で
こねながら錬銑に変えてゆくので、この方式はパドル法(puddling 攪拌)
とも呼ばれた。こうやって得られた錬鉄を、ハンマーでたたいて
鍛造する代わりに、孔型ロールで圧延して棒や帯などに形成する技術も、
同じ頃に開発された。

 反射炉方式の完成より少し前、一七三五年には、イギリスで、
可鍛鉄をるつぼに入れてコークス焚きで加熱溶解し、滲炭剤によって
吸炭させて鋳鉄に変える方法が完成し、主として刃物の製造に
採用されることになった。

 以上のようにして、一八世紀初頭以来、石炭を熱源とする製鉄法が
ヨーロッパにおいて研究開発され、イギリス、フランス、スウェーデン、
ドイツなどにおいて次第に工業化されて、現代の製鉄技術の基礎が
この頃から築かれ始め、一八世紀頃、年間三〜五万トン程度の生産水準
に達していた。

 同じ頃、ヨーロッパにおける科学の発達は、製鉄技術の科学的解明
にも応用されて、鋳鉄と鍛鉄と鋼との相違が、炭素含有量によって
支配されるものであることが理解され、在来の経験に基づく鉄の冶金と
精錬の技術は、原理的にも把握されるようになった。

 一八世紀に開発されたパドル法またはるつぼ法によって
生産される錬鉄または鋼は、いずれも生産方式が手工業的で
小規模なものであるため、一九世紀の産業革命による鉄道、造船、
機械、兵器の製造のための鉄の需要に対して、供給量および質、鋼塊
の大きさの面で重大なネックになって、その解決策の樹立の必要に
せまられていた。

 その第一の解決策が、イギリスのベッセマーによる転炉溶鋼の
製造法である。ベッセマーが開発した溶鉱炉は、溶鉄の入った炉の底に
空気を吹き込んで、酸素を補給することによって、従来のパドル法
に用いられた反射炉にくらべて、炉内温度を三〇〇℃高い一五〇〇℃
近くまで上昇させ、この高温によって溶けた状態の鋼を、パドル法の
ように人力で取り扱えるサイズの制約なしに精錬するものである。
ベッセマーの転炉内において、溶鉄は、吹き込まれた空気中の酸素
によって炭素を酸化除去され、銑鉄から鋼、鍛鉄へと炭素含有量を
自由に変えながら鉄の性質を変えることができるので、これは
コンバーターと呼ばれている。

 これは、鋼鉄を溶けた状態で、手作業の制約を離れて工業生産する
意味で、人類有史以来の製鉄技術の大変革の一つとされており、
ベッセマー法の成功の時点が近代製鋼法の確立点とされている。

 ベッセマーによる一八五〇年代の転炉の発明によって、在来の
パドル法にくらべると、鋼は一躍数十百倍の量産が可能になり、
また、錬鉄にくらべて、はるかに強度の大きい鋼の生産も容易になり、
その上、大規模生産による大型製品の開発によって、鋼材の用途は
急激に拡大されることになった。

 すでに、高炉は、一世紀前の一七世紀から石炭燃料によって
大型化にふみだしており、圧延も蒸気機関による強大大型化の道が
開かれていた。それにもかかわらず、銑鉄を良質の鋼に変える
製鋼過程のみが、手工業的ネックとなっていた。ベツセマーの転炉の
発明は、この制約を解放して、今日の大製鉄所方式の新時代への
急激な発展のいとぐちを開いた。ベッセマーによる転炉方式は、
その後幾多の改良を加えられながら大型化されながら発展され、
一〇〇年をこえる今日でも、製鉄技術の基本方式のーつとして
重用されている。

 反射炉の溶解室で銑鉄を溶解して脱炭精錬するのがパドル法
であり、この原理のもとでは、温度をもっと高めれば、脱炭されて
精錬が進んで鉄の融点が上がっても、錬鉄の状態にならない溶けた
ままの状態の鋼または鍛鉄が得られるわけである。そのためには、
反射炉内温度は一五〇〇℃ないし一六〇〇℃に達することが必要である。
しかし、パドル炉の火床室に石炭の燃焼焔を導くだけでは、一二〇〇℃
ぐらいにしか達しないので、溶けた鋼を得ることはできなかった。

 フリードリヒ・シーメンスは、石炭焚の代わりに、燃料ガスと
空気をあらかじめ畜熱室で高温に熱しておいたものを炉内で燃焼
させることによって高温を達成する方法を考案し、一八五六年に
イギリスにおいてこの方法による溶鋼の生産を開始した。しかし、
この方式による初期の溶鋼は、炭素量のコントロールその他に
困難があり、品質のすぐれたものが得られなかった。フランスの
製鉄家マルチンは、シーメンスの溶鋼法に冶金学的改善を加えて、
一八六四年に良質の溶鋼の製造に成功した。シーメンスとマルチン
の開発した畜熱室付きの反射炉は、密閉したるつぼ方式に対して、
解放された炉床で製鋼を行うので、オープン・ハースと名づけられ、
平たい炉の中で製鋼が行われたので平炉法とも呼ばれている。
シーメンス・マルチン法の成功によって、もはや手でこねて錬鉄を
取り出すような作業をしなくても、溶けた状態の鋼を大量に得られる
ようになった。シーメンス・マルチンの平炉法は、ベッセマーの転炉法
と並んで、製鋼過程の量産を可能ならしめる上に最大の貢献があった
ものといえる。平炉と転炉の両方の製鋼法は、その後今日に至る
一世紀の間、改良を加えられ大規模に拡大されながら発展の道をたどり、
今日の製鋼技術の主流をなすものとなっている。

 しかも、平炉および転炉鋼の出現によって在来の錬鉄および鋳鋼
にくらべて、強度の著しく高い良質の鋼の供給が可能になって、
鉄鋼は品質的にも急激な飛躍をとげ、他面また、大型成品時代の
開幕によって、その後一世紀の間に製鉄時代は新たな発展期に
突入したのである。

 ベッセマー法またはシーメンス・マルチン法によって、
炉内温度は従来よりも高められ、溶けた状態で精錬しながら
鋼を製造しうるようになって、製鋼技術上に新紀元が画された。

 ここに、高温精錬に際して、思いがけない障害に遭遇した。
鉄鉱石中に含有される燐は、パドル法における一三〇〇℃前後に
おいては、五酸化燐として滓の中に残って鉄から除去され、
鉄の材質の劣化が自動的に除かれてきた。新しい製鋼法では、
炉内温度が一六〇〇℃ぐらいに高められ、五酸化燐は還元されて
鋼の中に戻り込み、鋼の材質を著しく劣化させる現象が発生した。

 これを防ぐには、燐分の少ない鉱石だけを選定して用いるか、
または、五酸化燐を滓の中に固定脱離する何らかの方法を
とらなければならない。

 最初のうちは、ベッセマーは、燐含有の少ない鉱石を捜し求め、
これによって銑鉄を作って製鉄を営むことを考えたが、鉄鉱石資源
のうち九割を占める燐高含有率の鉱石を使用できないということは、
せっかく新たに開発されたベッセマー転炉法の発展上、思いもかけない
障害となって立ちはだかった。

 溶鋼製鋼に際して、原料銑鉄中の燐を固定脱離させるには、
酸化されて滓中に溶出した五酸化燐を、石灰と結合安定化させれば
よいことは、原理的に知られていた。しかし、この燐を除去するため
石灰石を入れた鉱滓は、塩基性を帯びたものとなるので、この塩基性滓に
炉内壁の耐火レンガの酸性と反応を生じ、石灰を入れると炉内壁の耐火材
が急速に侵されてしまう。これを防ぐには、炉内中張りの耐火レンガを、
珪酸質の酸性のものの代わりに、塩基性のものを用いるようにすれば、
石灰石を入れても、塩基性滓に反応を生ずることなしに安定した
製鋼作業が行われる。

 このため、塩基性の耐火炉材の開発が、含燐鉱石の溶鋼精錬を完成する
上の必需品として求められるに至った。しかし、塩基性で強度および
耐久性の高い耐火炉材の開発は容易ではなかった。

 塩基性耐火材を製造するには、石灰またはマグネシアを用いればよい
わけであるが、これが十分な強度をもつためには、粘着度の高い粘結材
の開発が必要で、これに成功したのが、イギリスのトーマスであった。

 トーマスは、石灰とマグネシアの結合物として、ドロマイトを高温で焼いて
クリンカーを作り、これをくだいたものをさらにタールを粘着材
として成形して焼くことによって、一八七八年に、塩基性の耐火炉材の
開発に成功した。この炉材を用いることによって含燐銑の転炉精錬に
際して、燐分を固定除去して優良な鋼材を造る技術が完成された。

 トーマスの発明した塩基性耐火材は、転炉だけでなく、その後さらに
平炉法にも応用された。こうして、含燐鉄鉱石を用いて、パドル法
によらないで溶融製鋼することが塩基性炉材によって可能になったので、
製鉄は、量産および質的向上の条件がすっかりととのい、その後
急激な発展をとげるようになった。

 一八〇〇年代の後半、ベッセマーの転炉製鋼法(一八五六年)、
シーメンスおよびマルチンによる平炉製鋼法(一八六四年)、
トーマスによる塩基性転炉法とあいつぐ新製鋼技術の開発によって、
製鉄業は、新たな量産時代に入り、製鉄所の様相もーハハ○年代以降
ようやく今日の体形をととのえ始めた。

 以上の内容は、「鋼材倶楽部編、土木技術者のための鋼材知識」
から主にとった。これを要するに、脆い鋳鋼でない、構造材料として
適当な錬鉄や鋼を作るには少なくても一二〇〇℃以上の温度で鉄を
溶かさなければならない。それにはまず銑鉄を作ってから、それを
再溶融させて錬鉄や鋼を作るのが、一般的な生産方法である。
後で述べるいわゆる間接法であり、最初に鉄鉱石から炉で溶かして得た
銑鉄を、再び溶融させ純度の高い鋼を得る方法が主である。製鉄の
大量生産が可能になったのは産業革命以後であり、それ以前には
鉄を作ることは難しく、小量しか作れなかったということである。
産業革命は、物をつくるという単なる技術的なものの他に、
文化、社会、経済、環境などの面からも人間の生き方、考え方を
根本から変えたのであるが、鉄の工業生産の成功こそ、
産業革命を可能にした主な要素の一つである。

 また、別の本にはアジアおよび日本における製鉄の歴史が
まとめられている(長谷川熊彦、わが国古代製鉄と日本刀)。

 鉄はだいたいつぎのようにして東洋の国々に伝わってきた。

 チグリス・ユーフラステ→中国→朝鮮→日本

 ヒッタイト(現在のトルコ)ヒユク王墓に世界最古の鉄剣
(BC二三〇〇〜二一〇〇)がある。ヒッタイトの滅亡を境に、
それまで秘密にされていた製鉄の技術と独占的鉄製品は、
一気に周辺四方へと伝搬していった。日本やアジアヘの、
もう少し詳しい伝わり方の説明としては、つぎの二つのルート
に分けられる。

 (l)インド、ラオス、カンボジア、中国南部、朝鮮南部、日本の海岸ルート
  (南方製鉄ルート)
 (2)アルメニア、カスピ海地方、シルクロード、中国内陸東北方ルート

 すなわち、インドの鉄文化は、アーリア人の進入(BC一五〇〇)以前であって、
南方製鉄ルートの源とされている。

 つぎに日本に関係のある中国と朝鮮について考えてみる。

 中国大陸の鉄文化

  漢代、中国製鉄業の完成、北方では褐鉄鉱、赤鉄鉱を原料とし、
溶鉱炉で銑鉄を製錬し、次に反射炉で溶製して、可鍛鉄を製錬した
(現代と同様の間接法)。江南地方では砂鉄や磁鉄鉱と木炭を竪炉に
装入して一回の加熱により直接に鍛鉄が作られた(直接法)。

 朝鮮半島の鉄文化

  北方帯方郡地方では河北の技術(間接法)、南方新羅地方では
江南の技術(直接法)が、それぞれ導入された。

 大陸から日本への鉄文化の伝播

  南朝鮮から伝播し、弥生時代前期に山陰、弥生時代中期に
北九州、山陽へとそれぞれ伝わった。

  四〇四年に日本・百済軍は高句麗の大軍に敗退、百済から日本へ
技能者の亡命した背景もある。

  日本の伝統的製鉄法はタタラ製鉄法と言われ、原料として
主として砂鉄、還元用燃料として主として木炭を使用し、ふいご
などを使って製鉄する方法である(直接法)。

 これを要するに朝鮮半島の北部では中国河北の間接法が導入
されたが、朝鮮半島南部では中国江南の直接法の技術が導入され、
日本には直接法が主として伝えられ、日本独自の方法として
完成されていったようである。

 ここで鉄といっても色々な種類があるので、構造用の用途
からみて、鋳鉄と錬鉄と鋼の機械的性質などを整理してみる。

炭素含有量二%以上が鋳鉄である。その内訳と機械的性質はつぎの通りである。

 鋳鉄(ねずみ鋳鉄) 引張強さー〇〜三五kgf/平方mm 硬さ二〇一〜二七七以下

 球状黒鉛鋳鉄     引張強さ三七〜八〇kgf/平方mm 伸び二〜一七%以上

 薄肉強籾鋳鉄     引張強さ六〇〜七五kgf/平方mm 伸び一二〜一八%以上
            硬度八五〜一〇〇      衝撃七〜一一kgf・m/平方cm

錬鉄(Wrought iron)

 炭素○〜〇、一%を含む鉄で、銑鉄を木炭炉または石炭を
燃料とするパドル炉で半溶解し、銑鉄中の炭素を酸化除去し、
のり状になったものを取り出して鍛錬を加えて製造したもの。
鍛錬は鉄中の酸化物を絞り出すために行うもので、水圧機または
ロール機などによるのが普通である。錬鉄のことを鍛鉄とも
呼ばれる。したがって製品にはなお多量の鉄滓が残留しており、
そのために鋼に比して材質が多少脆弱であるが、鍛接性が
いちじるしく良好なため今日においてもイカリのチェーンなどに
使用されている。

 成分の一例: C○、○二% SiO、一四% Mn○、一五% P〇、二% S○、0%

        引張強さ三七kgf/平方mm 伸び二四%

炭索含有量二%以下が鋼である。

 構造用材料としては、鉄の中で最も強く、最も信頼性が高い。現代も
さらに高強度の鋼が開発されているが、一般に使用されている鋼材では、
引張強さは四一〜七三kgf/平方mmである。


 さて日本には朝鮮半島南部から伝わった直接法が主な製鉄技術であるが、
日本の鉄について詳しく文献から引用する(飯田賢一:鉄の語る日本の歴史 上・下)。

づく...・鋳物に用いる銑鉄 焼き入れができない

はがね(刃鉄)...刃物に使う鋼 焼き入れができ、適当な硬さとねばさ(靭性)
  が保たれる

おろしがね:・包丁の芯鉄(しんがね)、錬鉄

 「づく」を適当な炉で加熱し、酸化させて、炭素分をとりのぞく作業を
「左下(さげ)」とよび、こうしてできた鉄のことを「おろしがね」
または包丁鉄とよんだ。「はがね」のように焼き入れはできないが、
展延性にとみ、比較的やわらかく、折れにくいので、包丁の芯鉄
(しんがね)に使われた。これはヨー口ッパでも産業革命のころに
盛んに使用された錬鉄にあたるものである。

たたら吹き...たたら炉による砂鉄の製錬法

@ 金偏に母(けら)押し...真砂(まさ)砂鉄を原料とし、ただちに鋼
 を製造する方法、和鋼(洋鋼と区別して)、刀剣類の鍛造に使われる、
 玉鋼(たまはがね、明治時代海軍工廠で弾丸の材料に使われた)保存用
 のビデオを見た時たたら炉の中で王鋼の塊が最後に得られる場面は印象的
 である。なおけら押しにおいても、最初に炭素分の多い溶けた鉄が複生される。
 炉から先にとり出されるので、銑鉄の名がある。

A 銑(づく)押し...赤目(あこめ)砂鉄を原料として、もっぱら銑鉄を
 製造する方法。その設備・方法はけら押しと大差がない。鋳物用

B 左下(さげ)法...和銑またはけらの一部(ぶけら、玉鋼をとった
 残りの、あまり上等ではないけらと考えてよい)を原料とし、これを加熱
 して半溶解状態とし、脱炭(炭素分をとること)して鍛冶作業を行い、
 錬鉄、すな わち包丁鉄を作る方法。

 すなわち、@のけら押しは直接法であり、A銑押しとB左下法は間接法
 である。王鋼の秘密について三条製作所の岩崎航介氏は次の三つの理由
 をあげている。

 A 「純粋な原料」マンガン・珪素・燐・硫黄などの不純物を取り除く
   にも限度があり、始めから不純物の少ない優秀な原料を使うのが、
   入っているものを取り去るよりも、ずっと確実である。
   出雲産の砂鉄は、純良さにおいて日本一である。

 B 「木炭」精錬するときの燃料に、不純物のないものを使わねば
   ならない。硫黄分の多いコークスでやっていては、絶対に優秀な鋼の
   製造は不可能である。玉鋼は昔から木炭で精錬される。

 C 「低い精錬温度」精錬温度が低いことである。高温になると、
   炉の壁などからも、悪い成分がはいってくるからである。
   幼稚な方法でありながら、優秀鋼ができるのは、この点に起因している。

 これが、現代のほうが昔よりも科学が進歩しているにもかかわらず、
昔の方法による玉鋼がどういうわけですぐれているかという疑問に対する
答である。

 特別な好条件が揃ったため、良い鋼が得られたが、現代の大量生産向き
ではない。

 もう少しくどく補足するなら、鍛錬すれば、鋼中の鉄滓が絞り出され
よくなる。しかし鋼中に溶けこんだ燐や硫黄などの不純物は鍛錬しても
取り除くことができない。物理結合ではなく化学結合だからである。

 「たたら」とは日本古来の砂鉄精錬所の総称であり、砂鉄精錬所の中心
にある高殿も「だたら」とよばれ、この高殿の中に構築される送風装置
そのものも狭義の「たたら」である。

 世界史では石器時代の後に青銅器時代があり、その後に鉄器時代に
移っていくが、日本では石器時代からすぐ青銅器と鉄器の同時併用に移った
と言われている。しかし日本では湿気が高く鉄は錆やすいため、
青銅器にくらべて鉄器の土壌中の保存は極めて悪く、鉄器の出土遺物は
少ない。これに対して木は逆に水中または水面下の土中によく保存される。
登呂遺跡の発掘から、堅穴住居と高床式の倉の遺跡と、これらの建物を
組み立てていた木材の構造材や水田の畦板などが多数発掘された。
これらの器の表面に明瞭に残された金属の道具の刃跡から、関野克
明治村館長は鉄の鋸、斧、釿(ちょうな)、鑿(のみ)の存在を
確認した。関野館長はさらに、「鉄山秘書(下原重仲により宝暦年間
(一七五一〜一七六三)より書き始め天明四年(一七八四)完成)」
の高殿の周囲の壁内の面積三〇〇平方メートルを、縄文式堅穴の床面積
一五〇平方メートル、弥生時代の堅穴内の面積一三三平方メートル、
登呂遺跡の堅穴内の面積三〇平方メートルと比較することによって、
登呂の遺跡は鉄の道具を使用しながら規模において石器時代に劣って
いたことを指摘している。そして、出雲大社の本殿の平面積が
一二一平方メートルであることにふれ、「鉄山秘書」のだたらの高殿は
石器時代の建築技術であり、出雲大社本殿は鉄器時代の建築技術
であると推定している。このように日本の木工技術は鉄と密接な関係がある。

 岩手県は日本における製鉄の歴史の上で重要なものがかなり多くある。

 岩手県の釜石には大島高任が日本最初に鉄鉱石を原料にして、
洋式溶鉱炉により銑鉄を生産した。高炉の発明は一四世紀のドイツで
なされた。このドイツから、ベルギー、フランス、ルクセンブルクに渡り、
イギリスに伝わると急激に発展し、イギリスは高炉銑を背景に、
すぐれた軍艦、鋳砲を作り、無敵のスペイン艦隊を葬る。一八世紀に至り
スウェーデンの鉄の時代が始まる。最高の高炉技術者リンマンが名著
「鉄の歴史」を世に出し、ドイツのカールステンが一八一四にこれを翻訳し、
全ヨーロッパに石炭製鉄法を広めた。このカールステンの数冊の技術書を、
さらにオランダ人ヒュゲーニンが自著に一部引用し、それが日本に伝わって、
大島高任らに訳された(半沢周三...日本製鉄事始、新人物往来社 昭和四九年)。
それまでは日本では原料は鉄鉱石ではなく、砂鉄であったという。
砂鉄なら溶融温度が低く、工業的に可能だったらしい。しかし、
「新沼鉄夫...岩手の製鉄歴史(一九七五)」によれば、岩手県において、
中部沿岸地帯(大槌、栗林、釜石)、南部沿岸地帯(小牧倉、栗木、文久山、
舞草、大篭)では、鉄鉱石による製錬の方法が砂鉄による製錬よりも
先行していた形跡かきわめて濃厚であるという。露天掘りの鉄鉱石の
鉱脈の存在、小槌製鉄遺跡に残存する鉄鉱石と鉄滓を分析した結果、
鉄鉱石は一峙純度の磁鉄鉱であり、鉄滓はその磁鉄鉱を製錬した
ものであることを確かめられたそうである。

 なお北部沿岸地帯(久慈、普代、田野畑、岩泉、宮古)では砂鉄製錬
の遺跡にかぎられる。

 餅鉄(つきたてのもちをちぎって、「あんころもち」や「おそなえもち」
にしたものをみるように、表面はなめらかできれいだからそうよばれる。)
餅鉄のある場所の土までいっしょに採集し、これを洗面器に入れて
水洗いすると、洗面器には粉上のものが多量に残り、土砂は軽いので水と
ともに流れ出す。大・中の餅鉄はハンマーを用いず普通の石でたたいても
簡単に破砕できる。粒状の餅鉄は木炭による簡単な製錬実験で低温還元
が可能である。紛状にいたっては砂鉄製錬と同様低温還元が容易にできた。
たたら炉よりも簡単な作業で、けら状の餅鉄による卸し鉄(おろしがね、鋼)
を得ることができた。

 これから言えることは、我国における鉄鉱石の製錬は、洋式高炉の
開始によってはじめて成し遂げられたものではなく、長い土着技術の伝統
とその蓄積をもっていたこと、そうした東北文化の先進性の故にこそ、
容易に洋式高炉というヨーロッパの製鉄法をうけいれることができたのである。

 我国の伝統的な製鉄技術のすばらしさを、ドイツの生んだ世界最大の
鉄鋼技術史家、ベックも全五巻の大著「鉄の歴史」(一ハハ四〜一九〇三)
の第一巻で紹介している。「薄い鍋釜の鋳造について、日本人は中国人と
同じくらい上手である。鍋や釜を修理する鋳掛屋は、溶けた鉄を流動状態
に保つために注目すべき方法を使用している。フイゴで活発に上から風を
吹きつけるのである。炭素の一部が酸化し、鉄もまた酸化することによって
十分な熱が発生し、鉄が湯の状態を保持できるのである。この方法は、
近代製鉄法の最大の改革であるベッセマー法の先行者であるとみなしうる
ということで興味がある。」(邦訳、中沢護人、一九七四年、たたら書房)
ベックは、技術者の実践的関心から、祖国ドイツはもとより、ひろく
世界各地の土法製鉄、つまり土着技術に注意を向け、そこからその地の
伝統的な製鉄法にひそむ知恵と真理を浮かびあがらせようとする努力を、
けっしておこたらなかった。ベックは、この日本の鋳掛屋の吹精技法が、
メンデルスの「航海と旅」(一六六九)という本に書かれていることを
知って、非常に重視し、ベッセマーマイジング(空気吹き込み法)が、
こうした素朴なかたちですでに製鉄技術のなかに登場してきていることに
意味をとらえようとしたのである。はたしてベッセマーが、日本における
上吹き法の原理を知っていてそれを応用したのか、あるいは独自に
発明したのか、断定はできないが、生活と結びついた土着技術や伝統技術に
もっと関心を持つことは大事なことと考える。

中国の鉄のかすがいを使った石の橋脚

 石構造の中に鉄の棒をさし込んで補強して、丈夫な耐久力のある
構造物にする例が中国にある。西安市の東の郊外の覇(サンズイ)河
にかかる覇橋の橋脚がそれである。道光一四年(一八三四)に再建
されてから、解放後の一九五七年の改築まで一二〇年間壊れることが
なかった。一九五七年の西安市都市建設局が覇橋を改築したとき、
もとの橋の一部を解体し、科学的鑑定を行った。その結果、覇橋の
橋脚に強さの秘密があったことがわかった。橋脚は河の流れにそった
六本の横並びの石柱から構成されており、その石柱は砂質土に打ち込まれ
た木杭群の上に立てられている。硬い木を十分深く打ち込んで、
それらの木をたくさん並べて打ち込み、上からみると一一本梅花形に
配置されている。それらの一一本の木杭をまとめて一体のものとする
ために、杭の上で一一個の孔のあいた木の円板がはめ込まれている。
杭の高さはそろえられているが、その上に配置される石柱の基礎
となる石盤によく結合させるために、一本の杭だけ木の円板から頭部を
出して、石盤にはめ込まれている。このようにして杭基礎とよく結び忖け
られた石盤の上に、四層の石軸からなる石柱を立てる。ただしそのままでは
この石柱と石盤の連結は十分ではないので、石盤の上の部分の中心部と
各石軸の上面と下面の中心部に木偏に内穴(ほぞあな)をあけ、直経一五m、
深さ一五mの短い鉄柱を挿入する。この鉄柱は四層の石軸と石盤を
突き通すほどの長いものではなく、石軸と石盤の間、あるいは石軸と
石軸の間を、動かぬように浅い深さの穴にはめ込んだ「木偏に内(ほぞ)」
といったらよいのだろう。さらに結合をしっかりとするために、
重ねられる石軸と石軸のそれぞれ接続する面には、片方に凹、
もう一方に凸のほぞ型を作り、それだけでも噛み合うようになっている。
そしてその中心部に先ほど述べた短い鉄柱を差し込んで
ずれないようにしている。四層の石軸を積んでできる石柱は直経が
九〇m、高さ二、四mになる。これは図で示せばすぐわかるのであるが、
要するにだいこんの輪切りを考えればよい。大根の輪切りを四つ
積み上げてー本の柱とし、柱を六本横に並べてー本の橋脚を作る
わけである。それぞれの往について、輪切りがずれないように、
上下に隣合う輪切りどうしに円の中心に浅い穴をあけて、
その穴に楊子をさしこんだと思えばよい。ただし楊子は長さが
短いから輪切りの表面にとどまり、輪切りをつきぬけて出る
ことはない。

 一八三四年の工事であるから、この鉄はもろい鋳鉄ではなく、
錬鉄か鋼であろう。日本でもそれ以前から錬鉄や鋼は小量なら作って
いたから、本家の中国でも当然あったと思われる。ただし実際に確認
してみないと断定はできないが。この鉄柱入り石橋脚は一種の
鉄筋コンクリートのようなもので、最初の鉄筋コンクリートの橋が
フランスに作られたのが一八七五年であることを考えると、
やはり中国の技術はたいしたものである。

 なお窪田蔵郎氏によれば、トルコのヒッタイト遺跡の城壁か宮殿の
主柱のような大型建造物の一部において、ほぞ孔(孔径四、五cm、深さ一四cm)
を各四カ所に設け、ここに推定二〇数cmの金属棒を継手として挿入し、
石を積み土げる補強対策をとっていた例をあげることができる。
この例も貫通孔てはないことに注意しなくてはいけない。また窪田氏は
アテネのゼウス神殿、アルメニアのガルニ神殿、パルミラの凱旋街道の
石柱の倒れた断面についても、雌ほぞと雄へほぞがそれぞれ対応する
石往部材の面に彫られてあることも報告している。中国の覇橋の鉄ほぞ
入り石積み橋脚は、ヒッタイト遺跡の金属ほぞとゼウス神殿の彫り込み
ほぞ技術の組合わさったものということができるであろう。

それらの技術がいつどのようにしてギリシャ、ヨー口ッパからアジア、
中国へと伝わったのかは不明である。中国人が独自に考えたという説も
言えるかもしれないが、著者はこのような技術が他の文化とともに伝搬
してきたと考えたい。

ヨー口ツパの石作り教会建築における鉄棒の利用

 つぎにヨー口ッパの教会建築で石と石の間にほぞとして鉄のほぞを使った
例はたくさん報告されている。しかし、石を積んで上から溶かした鉄を
流し込んで、石柱の中に鉄柱を作る工法については、著者が直接ドイツの
ダルムシュタット工科大学建築工学科の春日井道彦博士に問い合わした
ところ、春日井博士も知らないし、春日井博士がドイツ人の同僚に聞いても、
彼等もまだ聞いたことも文献で読んだこともないということだった。

 ただ石の棒を積極的に構造部材として使う方法は、中世の教会で
よく見られる。それは著者もかつていくつかの教会で見たことがあるが、
廊下の天井の石アーチの基礎の所に水平に鉄の棒を張り渡し、いわばアーチ
を弓にたとえるなら、弓の弦に相当する鉄の棒の配置である。したがって
廊下の天井と床の中間の高さの水平の鉄棒が横断して配置されているが、
人の背より高い所に配置されているので歩くにはさしつかえない。
本来アーチは石を押し合う力でバランスをとる構造だから、アーチの
下には空間があくのが特徴である。それなのにわざわざ水平に鉄の棒を
配置することはせっかくの空間をふさぐことになって、室内の空間利用の
面で問題もあろうと思われる。しかし、力学的にアーチかくずれてくると、
すなわちアーチが偏平になり両端が開きかけると危険な状態になる。
この危険を取り除くためには、アーチの根元の両側の支持台のところに
水平方向の支え、つまりアーチの外から中央部に向かって水平方向に押す力
が必要である。実はアーチが偏平になってつぶれてくるのも、アーチの
両側の支持台のそれぞれ水平方向に抵抗する力が何かの原因で不足する
からである。対処の方法の一つにアーチの根元の両端を棒でつなぐ
方法がある。弓の弦を考えたらよい。アーチの両側の支持台のそれぞれ
水平方向に押しあう二力を、この弦で結びつけることにより内部的に
バランスがとれる、つまりアーチの支持台にはもはや水平の力は作用
しなくなる。また弦があるためアーチはいつも一定の曲線を保つことが
できる。こういう理由で、つまり建設されてから時間がたつとともに、
何かの原因でアーチを支える基礎が移動したり支える力が不足してきて、
アーチが危険になったので、現代もそうするように補強のためアーチの
基礎部分の両端を鉄の棒で結んだものかと思われた。著者が最初に
ドイツの教会で、このアーチの鉄の棒を見たとき、後世の技術者の
補強対策を思ったものである。

 しかしこれについての説明はあまりなく、春日井博士から送られてきた
文献を読むと、もともと平屋根構造だった教会にアーチ構造を
取り入れていくうちに、補強的に、用心のために、従来の伝統を残して、
力学的には不要の横棒を一応配置する例がかなりあり、しかも最初は
その横棒も材料としては木が多かったのが、木は腐ったり火事で燃え
たりして、木のかわりにだんだん需要にまかなえれようになった錬鉄
などの鉄の棒が使われるようになったということである。文献には12世紀
以来鉄生産の増大があったことが記載され、一三世紀には鉄は建設材料
としてすっかり知られていたようである。当時は鉄はまだ貴重な金属で、
武器や農機具のあとに建築資材として使われるようになったらしい。

おわりに

 以上、鉄の関する著者の調べをまとめて、著者の意見を述べると、
本多利明の記述は技術的に問題があると思われる。一つは、ドイツ人も
言うように、そのような工法の記録はないし、まだ知られていない
やり方であるからだ。

石に穴をあけることについては、たとえば一八世紀の絶対王政における
フランスの橋梁工事で、人力でドリルを使って穴をあける機械があって、
その機械を使って人間が相当苫労してあけている。二人の人間が
ドリル付き機械を回し、休憩をとりながら、五日間で約三mの六を
あけたという。それでもボーリングのように連続して数十mもの穴を
あけるのは大変困難な仕事であろう。また長い穴を連続作業であける
のが難しいから、一つ一つの石に穴をあけてそれらの石を積み重ねて
長い穴を作るという方法もあるかもしれないが、そうやって穴を重ねる
やり方なら必ず位置がずれる。橋の部材をつなぐときに、つながれる板部材
に穴をあけ、つなぐための第三、第四の部材(添接仮)を両側からあてて
つなぐわけだが、この添接板にも穴をあけると両側の添接板と中のつなぐ
板部材のそれぞれの穴が少しずつずれて、予定のボルトの太さより
大きめの穴をあけておかないと、ボルトが通らない。こういうわけで
多少太い穴をあけたとして、上から溶けた鉄を流し込むと石と石の
すき間に流れ出すことがありうる。これはすき間をあらかじめ粘土など
詰めておけばよいが、構造物として積み上げられた状態で、すき間に
詰めものをするだけの作業の空間場所が確保できるかどうか大変問題である。
かりになんとか適当な穴をあけて溶けた鉄を注ぎ込んだとして、
細い穴では途中で冷却凝固して下まで降りないし、また多少孔径を
大きくして何とか降下させても、注入施工の特性と冷却時間差から
弱い強度のものになるのではないかと思われる。また当時の燃焼技術
として、よい鉄を作るために高い所で高温に溶けた状態を作り出せた
であろうか。少なくても一二〇〇℃以上は必要であるから。そんな苦労
をするくらいなら、小量ずつ錬鉄や鋼を別な条件のよい所で作っておき、
その鉄棒なり鉄材を石と石の間にはめ込む方が、ずっと無理のない
やり方と思われる。またかりに良い鉄を適当な温度で上から流し込んだ
とき、まわりの石が変質して、石に悪い影響を与えないであろうか。
そのためにも鉄材は別の所で作って、後から所定の部分にはめ込む方が
合理的と思われるが、いかがであろうか。

 色々な資料を整理統合せずに、それぞれ引用したきらいがあるが、
これらを統括するには、かなりの確認作業が必要と思われる。著者は、
この鉄の歴史のテーマについては、今後も研究を続けるつもりなので、
将来著者なりのまとまった結論を発表したいと考えている。

 ここでは、日本思想史研究の学問の創設に貢献した村岡典嗣氏の、
一度「認識されたもの」を再び「認識していく」ことにより研究の客観性を
保障する研究姿勢にならない、最終的な客観性の保障をするまでには
いたらなかったが、そのための「認識された」資料を明らかにすることが
できた。それはまた、研究者としての研究資料の引用のルールにしたがい、
つまり何を何から引用したかを明らかにしたことにもなっている。
このことは藤原暹教授より学んだ、研究者たる条件の一つであり、
この機会にそういう努力をすることができて、著者にとって意義深い
仕事であった。またこうしておけば、他の研究者は引用文献を手がかりに
研究をすすめることができるであろう。

 この報告をまとめるために、岩手大学人文社会科学部藤原暹教授、
工学部金属工学科堀江皓助教授、東北学院大学窪田蔵郎講師および
西ドイツのダルムシュタット工科大学春日井道彦博士に貴重なご助言を
いただいたことを感謝する。

参考文献目録

1 鋼材倶楽部編『土木技術者のための鋼材知識』(技報堂、昭和四三年)
2 長呑川熊彦『わが国古代製鉄と日本刀』(技術書院)
3 飯田賢一『鉄の語る日本の歴史 上・下』(そしえて文庫、一九七六年)
4 半沢周三『日本製鉄事始』(新人物往来社、昭和四九年)
5 新沼鉄夫『岩手の製鉄歴史』(私刊本、一九七五年)
6 潘洪萱(武部健一訳)『中国名橋物語』(技報堂、一九八七年)
7 窪田蔵郎『遥かなる鉄のルーツ』(富山県埋蔵文化財センター所報第二九号、平成二年)
8 Walter Haas 『Hoelzerne und eiserne Anker an mittelalterlichen Kirchenbauten』(architectura, 
 Zeitschrft fuer Geschichte der Baukunst pp.136一151,1983)
9 Bert Heinrich 『Bruecken von Balken zum Bogen』(Rowohlt Taschenbuch Verlag GmbH, 
 1983)
10 関野克『菅谷たたらと保存科学』(鉄と人間第二回シンポジウム報告書、
 島根県吉田村役場、一九八七年)
11 韓汝玲『中国古代鉄鋼技術の発展 紀元前六世紀から一七世紀まで』
 (鉄と人間第三回シンポジウム報告書、島根県吉田村役場、一九八八年)



あ と が き

 前回の刊行の「あとがき」は昭和六十三年十一月に書いている。
以後、昭和から平成にかわり、丁度二年が経過した。

 この間、ベルリンの壁は崩れ、イデオロギーよりも暮しと生活が
より一層人類の問題として重くのしかかってきた。

 私が生活思想研究に着目して二十年が過ぎようとしている。

 折も折、日本で初めての「生活学」の講座が刊行されようとしていて、
私も参加している。

 改めて、生活思想研究の重にして大なるものを感ずる。

            藤 原     暹

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