中国の博物館を訪ねて

 中国の博物館の入場料はヨーロッパにくらべても安
い。日本と比べると10分の1くらいである。物価自体
が安いので入場料も安くなるが、中はごみなどもなく
整然としていて、博物館の維持管理に国の大きな支え
があると思われた。

 以下に北京の周口店の北京原人の博物館と、西安の
半坡博物館について報告する。

周口店(北京猿人展覧館)
 北京に行くことが決まって、マルコポーロも見た蘆
溝橋をぜひ土木の専門家として見たいという希望を書
いたら、見せてもらえることになった。地図を調べて
いたらその方向にもっと行くと北京原人(中国では北
京猿人という)のみつかった周口店があるので、ぜひ
この機会に周口店をもと頼んだら、快く両方とも案内
していただけることになった。

 第二次世界大戦の時に、日本軍が間接的に関係して、
この貴重な北京原人の頭蓋骨が粉失してしまったこと
を、一日本人として気にかけていたのであったが、周
口店に行き、その後いくつか北京原人の骨が発掘され
ていたことを知って何やらほっとした(最初の骨が今
もって見つからないことは残念ではあるが)。ドイツで
も、この有名な北京原人の復元頭蓋骨は展示されてあ
ったが、北京原人の骨や石器や当時の動物の骨を現地
でみるのはなんといっても迫力があった。

 博物館を出て、近くの山(竜骨山)にある北京原人
が住んでいたという石灰岩の洞窟に行ったが、それは
洞窟というよりは斜めにできた自然の裂け目であり、
今見ても険しい場所で敵から攻めにくく雨や嵐もよけ
ることのできる実際的な避難所と思われた。山の上に
はこの50万年前の北京原人よりずっと後に住んでいた
(約2万年前の)山頂洞人の遺跡もあった。ここら一帯
はすばらしい遺跡の公園であった。

半坡(バンポ)博物館
 半坡博物館は約6000年前の新石器時代の典型的な村
落遺跡を中心にしてできた博物館である。それらの遺
跡は、まず1953年に一人の農民により耕作中に発見さ
れ、1954年から1957年にかけて本格的に発掘された。
そしてこの博物舘は1958年4月に一般公開された。
門を入ると庭園の左右に陳列室が並び、右斧(おの)、
石のみ、石鍬(くわ)、銛(もり)、鏃(やじり)、
うす石などの石器や、骨針、彩陶が
展示されている。突き当たりの奥の一段高い場所にドー
ムで覆われた半坡遺跡がある。遺跡内に入ると竪穴式
(半穴居式)住居、地面式(地面が床になる)住居と村
落での生活形態が一目でわかるように配置されている。
墓の内部を示す展示も数多くあり、仰身直肢葬、屈肢
葬、四人合葬、二人合葬の形態が容易に理解できた。

 半坡遺跡は、東西一番広い幅約200m、南北一番長
い長さ約300m、総面積50000m2におよんでいる。こ
れは産河東岸の段丘の上に選択され、水汲みにも便利
で、洪水氾濫の災害からも防がれていた。居住地点は
明確な区分がついていた。居住、陶窯製作と墓葬とい
った3つの地区にわかれていた。居住区は約30000m2
であり、発掘が行われた居住区内に40余りの方形また
は円形の建築が秩序正しく配置されていたのが見つか
った。居住区周囲が幅、深さがそれぞれ5〜6mの壕
に囲まれているのは、住民に対する猛獣の侵入を防ぐ
ためである。住居区内と壕の外にはいくつかの地下倉
庫が分布され、氏族公共倉庫となっていた。

 特にこの半坡博物館の彩陶の中でも、魚をつけた人
の顔の絵はなんとも言えない健康的なユーモアを感じ
させるもので、この博物館のシンボルとして入り口の
門にも描かれているくらいである。

 これらの常置展示の他に、特別展示として中国で発
見された男女のミイラも今回見ることができたのは感
動的であった。

 北京の周口店の見学でお世話になった中国建築材料
料学研究院の閻盛慈院長と案内していただいた石先茂
氏と周慶宏氏ならびに西安の半坡博物舘の見学で配慮
していただいた西安交通大学土木工学科兪茂宏教授と
案内していただいた馬景明、趙菁夫妻に紙面をかりて
お礼申し上げる。    (岩手大学 宮本 裕)

         北京猿人展覧館の記念写真

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この文章は一旦活字になった雑誌から、OCR読みとり装置
と文字変換システムを用いて、テキストファイル原稿を
再現したものである。
学生部厚生箱崎専門員にお世話になったことを感謝します。