ワインの歴史

(原始ワイン時代) 山野を歩いていた人類がたまたま大量の山葡萄を集めてきて 土器の中に貯蔵したとき、すっかり忘れて自然発酵したしまった、 その発酵したものを見つけたとき、ワインが発見されたのであろう。 ワインが先かビールが先かという議論があるが、 ピールの場合、麦という穀物を粉末にしなければならなかったろうから、 葡萄をそのまま置いておくとできたであろうワインのほうが先に発見されたと 思われる。粉を挽いてパンを焼くための原料が忘れておかれて、ビールが できたのがビールのはじまりと言われるから。 こうして発見されてから積極的に作られた原始ワインは、 野生の葡萄の果実を茎も皮も種も一緒に押しつぶしたであろうから、 酸味、渋味、苦味など野生の味が強かった飲み物であろう。たぶん色は濃かった。 秋から冬にはたくさん飲まれたが、春から夏にはあまり残っていなかったのではないか。 (古代ワイン時代  メソポタミア、エジプト、ギリシア時代) 葡萄栽培 回転封印 ロール・シール ワイン壷の口を布で封じて、粘土をぬり、軟らかい粘土にロールシールで模様をつける。 粘土が固まると封印となる。 ハムラビ法典にも、ワイン造りとワイン商に適用される法律が記録されている。 エジプトでワインの濾過法が発見された。透明ワイン ギリシア人は、ワインを水で割って飲んでいた。水で割らないでそのまま 飲むのはバルバロイの飲み方として嫌われた。ワインに油脂や小麦粉やチーズ などを混ぜて飲んでいた。 シンポジウム 酒宴 ギリシア人は酒宴をはりながら、政治批判、文学論、哲学、科学などの 討論をした。そしてお互いに勉強していった。 (中世ワイン時代  ローマ時代から中世まで) ローマ人によるワイン文化の大躍進 シーザーのガリア征服のとき原住民ケルト人が使っていた木製のビール樽を ワイン樽に応用する。大型搾汁器の発明。 ローマ軍の兵站(へいたん)基地トリアーで、ワイン造りを指導した。 やがてモーゼル河、ライン河の葡萄畑へと広がっていった。 フン族の西進とローマ帝国の衰退を誘因として ゲルマン民族がケルト人の地へ大移動はじまる。 ゲルマン人は葡萄畑を破壊して耕地に変えていった。 キリスト教に改宗しワイン文化を保護したフランク王国 カール大帝 各地の教会に寺領を与えワイン造りを奨励した。素足で葡萄の踏み潰しは不潔と禁止。 ・アール地域 ・中央ライン地域 ・ラインガウ地域 ・フランケン地域 ・ヴュルテンベルク地域 ・ラインファルツ地域 ・モーゼル地域 ・ナーエ地域 ・ラインヘッセン地域 ・ヘッシッシェ・ベルクシュトラーセ地域 ・バーデン地域      ドイツのワイン (近代ワイン時代) 現代化学の祖ラボアジェ「質量不変の法則」 ブッフナーの発酵理論、米国から輸入された葡萄の苗木に付着した虫による被害 全ヨーロッパの被害の中でドイツは最後だったので被害は最低限だった。 撒布薬としてのボルドー液の開発、米国の葡萄を台木としてヨーロッパの葡萄 を接木することで解決(ビョルナー)。 (現代ワイン時代) 1892 13ヶ条のドイツワイン法 1909 34ヶ条の近代化されたドイツワイン法 1971 ECワイン法 古賀守、文化史のなかのドイツワイン、鎌倉書房