大学とは何を学ぶところか
大学とは何を学ぶところか
時節がら、教科書の出版社から図書目録が送られてきました。
その中で、大学の物理のある先生が、大学での基礎教育の役割について、
エッセイ風り文章を載せていました。
とてもわかりやすい文章なので、ここにちょっと紹介します。
いちおう私が理解した範囲を書きますから、著者から見れば、
本当に言いたいことの一部だけ という印象になるかもしれないし、
そりゃ理解不足だ、誤解だと言われるかもしれません。
大学とは何を学ぶところか まず著者の学生時代のことをふりかえっている。 大学の教養時代の物理学の成績は、良とか可という成績で、工学部の専門課程に進んでも 不器用で実験も製図も人より遅れをとった。結局自分は工学部に向かないと思った。 (このあたり、まさしく私も同じ) 30年前の著者の体験を思い出しても、大学時代にきちんと目的意識をもって勉強している人は多くない。 今もたいていの若者は、理科系か文科系かを漠然と判断して大学に入学してくるのだろう。 (数学や理科が得意なら理科系、英語や社会が好きなら文科系) 美しい写真の大学案内パンフレットに自分のイメージを膨らませて入学する。 これだけ変化の激しい時期に、18歳の若者が自分の将来像をきちんと描いて学部や学科を 選ぶのは無理なことであろう。 だから、大学に入学してから、自分の将来をあれこれと考えて悩んだりする。 そして、卒業後の就職先は専門とは関係のないサービス業につく者もいるし、 就職してからも転職するケースもかなりのようである。 また、一度就職した会社で生涯働くという終身雇用制度もこれからの日本では見直されるだろう。 (この著者の学科の卒業生でも著者の大学時代の友人でも、 医師になったり弁護士になったり、公務員や情報産業につく者もいるそうだ) だから、大学はいまや象牙の塔でも最高学府でもなく、「自分探しの場」と位置づけるのがよい。 昔の旧制高校はゆっくり人生を考える時期だった。旧来高校を復活させろという人もいる。 昔の旧制高校は確かに自分探しの場の役割をはたしていた。 著者の学生時代の頃と、現在の大学教官の今と比較してみて、30年間で何がどれだけ変わったか と考えてみると、30年前の高校物理の教科書と今の教科書を比較してみても、ほとんど内容に変化はない。 本質的なものは変わらない。わずかな違いは、真空管がダイオードに変わったくらいである。 (この2つのものの働きは変わっていない) この間に、白黒テレビからカラーテレビになり、電卓、ビデオ、FAX、パソコンができた。 携帯電話やインターネットが普通になった。そういうわけで、新しいものを使うテクニックが 必要になり、それを使って何ができるかことも勉強しないといけなくなった。 そうやって教えるべき知識の総量は増えていった。人間の持ち時間は変わらないのだから、 たとえば高校の物理学の内容を減らすべきではないか。 (この点について、いや学力低下はいけないと、物理学の時間を従来どおり確保しようと頑張る人 がいるが、著者からすれば、それは無駄な抵抗であると言っている) 昔よりその科目にあてられる時間数は少なくなっている。だから、半年や1年間で履修できる内容を 厳選して、演習問題を課しながらゆっくり教えるのがよい。 学生の反応を見ながら講義をすすめるのがよいが、最低のレベルの学生にあわせると、 講義が進まなくなるし、成績の良い学生には気の毒である。 使う数学の公式も、はじめから長々と証明する時間もないから、使う公式はこうなっていると 割り切って説明に使うのもやむをえない。 たとえば、サインを微分するとコサインになる、と言うのである。 (これをまたいちいち証明したりするのは大変。私は高校の数学の教科書の説明を覚えているが、 そんなことをいちいち記憶している人は少ないだろう) 理工系の基礎教育というものは、各種のスポーツをするときのトレーニングに似ている。 たとえば野球をするときにバントがいくらうまくても基礎体力がないと他の競技をする時に 役に立たない。だから、基礎体力をつけるためにランニングをしたりする。 しかしまた、野球が上手な人は、他のスポーツもすぐ上達するだろうから、 野球を通して他の競技でも通用する体力を作るのだという考え方も成り立つ。 「各種のスポーツ(専門科目)の前に基礎体力(基礎学力)を十分つけるべきだ」 という考え方は、基礎教育を「共通基礎」としてとらえる考え方だ。 「早くから何か1種目のスポーツで鍛えることで、他の競技でも通用する体力をつける」 という考え方は「専門基礎」としてとらえる考え方だ。 「共通基礎」は基礎教育の組織を専門学科とは独立に置くことに対応し、 「専門基礎」は学科に分属して基礎教育を行うことに対応する。 理工系では今までは、基礎教育は一般教育の中に分類され、「共通基礎」として教えられて きたが、最近は分属して「専門基礎」として教えるケースも増えてきた。 どちらが良いとは単純には言えない。互いの長所と短所を補いあうのがよいだろう。 「共通基礎」の場合は基礎教育に責任を持つ組織があるという点ではすぐれているが、 学部全体の基礎教育を少人数で担うため担当者の負担が大きい。特に30〜40代の 研究者として働き盛りの教官の場合にしわよせが大きい。 「専門基礎」にして、学科に分属された教官が教えると回りからの要望もあって その学科向きの内容になって、基礎としての全般的な知識の講義がおろそかになる心配もある。 数学などの例題が、その学科の学生向きだと理解しやすく、他の学科の学生向けの例題 で説明されたら理解困難ということもあるが。 我々が起訴物理教育を通じて行っているのは、単なる「知識の伝授」ではなく、 「物事を筋道建てて考える能力の開発」なのである。 つまり、問題解決能力なのである。 (これは難しい。私の学科の学生にもそういう教育をしたいのだが) しかし、今や大学は大衆化して、私立大学の3割では定員割れという現象も起きている。 理工系なのに高校物理を受講していない新入生も受け入れざるを得ないのが実態である。 そのような時代を迎えて、基礎物理担当者の使命は、「入学してくる学生の能力に応じて、 物理の基礎学力をつける」ことに尽きるのである。 (私もそう思う) (高橋正雄、東京教学社しぜん No.16)