明治15年 5月29日、茨城県多賀郡磯原村(現北茨城市磯原町)に父量平、母てるの長男として出生 明治30年 4月上京、東京数学院中学へ入学。(のち、順天中学に編入)この頃、小川芋銭と知り合う 明治34年 東京専門学校高等予科文学科(現早稲田大学)入学。坪内逍遥の薫陶をうける 明治37年 (1904) 父、死去。帰郷し家督を継承。11月、栃木県喜連川の高塩家の娘「ひろ」と結婚 明治40年 「早稲田文学」に詩作品を掲載。5月坪内逍遥の紹介で新聞記者として北海道へ渡り、札幌の「北鳴新報社」入社。9月石川啄木と知友となる 明治42年 北海道を離れ、帰郷後、上京する 明治45年 故郷に帰る。山林管理や、漁業組合の公職につき、雑誌なども刊行する 大正4年 妻ひろと協議離婚。のち、二児を連れて、湯本の柏屋に住む 大正8年 詩集「都会と田園」で詩壇復帰。『枯れすすき』作詞、中山晋平に作曲依頼(のちの船頭小唄)「金の船」に童謡作品を発表 大正10年 童謡集「十五夜お月さん」、『七つの子』『赤い靴』発表。長編童話「愛の歌」を出版。民謡、童謡普及の講演旅行へ 大正11年 「コドモノクニ」に童謡作品の発表開始。評論「童謡の作りやう」を出版。『黄金虫』『シャボン玉』発表 大正13年 『あの町この町』『波浮の港』発表、童謡集「青い眼の人形」を出版。『證城寺の狸囃子』発表 大正14年 『雨ふりお月さん』発表。評論「童謡と童心芸術」を出版 昭和4年 民謡集「波浮の港」を出版。「全国民謡かるた」を出版。雑誌「民謡音楽」主幹 昭和10年 日本民謡協会を再興し理事長となる 昭和15年 このころから4年間、全国各地を巡訪し、地方小唄を作詞 昭和19年 栃木県河内郡姿川村鶴田(現、宇都宮市)に転居し、療養生活に入る 昭和20年 1月27日、永眠