東京ジャーミィ(美しいトルコのモスク)

東京にイスラム教のモスクがあります。
代々木上原駅の近く。 トルコ政府が管理しています。

建てたのは当時ロシアの中にいたタタール人のクルバンガリーという人で、
彼は遠い日本に来て、日本にいるタタール人やトルコ系民族の地位を向上させようと努力した。
日本人たちの援助も得られて、モスクも完成し、開堂式の直前に
彼は警視庁に検挙され、式典の1ヵ月後に国外退去を命ぜられる。
直接の理由は、当時の日本人(軍部など)たちが、このモスクは日本人の金で建てたのだから日本人が管理しないといけないと言った。
それに対してクルバンガリーはそれはいけないことだと反対したから。

式典には
別のタタール人の長老イブラヒムの開会の挨拶
君が代の斉唱
満州国皇帝の従兄弟の発声で「天皇陛下万歳」
松井大将の発声で「回教徒万歳」
などがあったという。

歴史研究者は次のように述べている。
クルバンガリーが追放されたのは、軍部や政府のイスラム政策にとって
彼が邪魔になってきたから。

当時の日本にいたタタール人は対立する派閥に分かれて衝突を繰り返して団結にはほど遠かった。
クルバンガリーの活動はイスラム教徒たち内部に向けられていて、対外地工作を主目的とする回教政策にそぐわなかった。

軍部や政府は、中央アジアのイスラム教徒を日本の対中国や対ロシア(ソ連)政策の協力者としたかったのに
クルバンガリーが目指したものは日本のトルコ系民族の解放とか生活向上だった。具体的には小学校やモスクの建設などがあげられる。

日本私立大学協会の都竹武年雄(つづくむねお)先生は
戦争中に、中国の内モンゴルにあった親日政権を支援するため草原に暮らし、日本語教育などの異民族工作を行った体験がある。

当時を振り返って都竹先生は
あのころの異民族工作はいかに彼らを日本に協力させるかというだけで
長い目で見て結束を作っていくような方向ではなかった
と述べている。

都竹先生は高齢ですが、モンゴルをふくむシルクロードの留学生やムスリム留学生を
長い間支援してきて、多くの留学生たちから慕われています。

かつての日本の異民族工作は
いかに彼らをすぐ日本に協力させるかというだけで
長い目で見た友好関係を作っていくような方向ではなかったと思います。
その反省の上に、日本の外交はなされなければならないし
留学生の世話もその延長にあるべきでしょう。

さて
その後クルバンガリーはどうなったか。
そして、彼の作ったモスクはどうなったか。

敗戦後に彼は大連でソ連軍につかまる。
罪は26年前の反革命罪で
モスクワの政治犯監獄で10年入れられ
昭和30年に釈放された。

故郷のバシキール自治共和国の首都に移るが
生まれ故郷の村には戻れず。
そこはソ連の原子爆弾の開発の地だったから。

妻子は日本に残され、とうとう彼は日本に帰って来れず
かの地で亡くなった。

朝鮮戦争のとき
トルコ兵は国連軍に参加し、負傷すると日本に移送された。
日本にいたタタール人たちはトルコ兵を見舞った。
感謝したトルコ大使館は彼らに御礼をしたいと言ったら
トルコ国籍がほしいと言われた。
帝政ロシア崩壊で彼らは国籍を失っていたから。

トルコ人になった彼らはトルコや米国に移住し
わずかのタタール人だけ日本に残った。

さて、モスクの開堂式に挨拶した長老イブラヒム
は1857年トルコ系タタール人としてウラル山脈の東
当時ロシア支配下トボルスクという町の近郊タラに生まれた。
彼の言葉はトルコ語系キプチャク語に分類されるタタール語であった。
7歳にしてアッヴシュ神学校に入学し、アラビア語とイスラム学を学ぶ。
メディナ留学を終えウマラーとして後進の指導にあたる。
民族の独立をめざす彼は日本にやってきた。
東山満(とうやまみつる)、河野広中、犬養毅、大原武慶らと
親しくなりパン・イスラム主義の実現のため努力した。
彼は日本を発ったあと、シンガポール経由でインドに向かう。
途中から同行した山岡光太郎はイスラムに改宗し、メッカを経て
イスタンブールに到着すると3ヶ月の間大歓迎を受けたという。
イブラヒムは再度来日し11年の滞在の後1944年に東京で亡くなった。

山岡光太郎は日露戦争(1904−1905)で対露工作活動に従事した人物で、
そのあと1909年にメッカ巡礼を果たした。
記録に残る日本人ムスリムの最初のメッカ巡礼であった。

   東京ジャーミィ(美しいトルコのモスク)の写真