広開土王

広開土王(あるいは好太王)は死後のおくり名である。
正史「三国史記」の「広開土王」を使うほうが正しい。
高句麗の広開土王は契丹族稗麗や百済を親征した。
広開土王は新羅の要請で倭と戦った。

「辛卯年」の条について、従来「倭が辛卯年を以て来たり、(海)を渡って
百済と○○と新羅を破り、以て臣民とした」と読まれてきた。
この読み方は<倭人主導説>と言える。

これに対して1970年代ころから、高句麗・百済・新羅の子孫たちから異議が
出てきた。ひとつの説は、倭人主導説を否定する新解釈であった。
たとえば、原文の「渡」の前に「高句麗」などを入れたり、
「破」の字の後に「倭」の字を補うなどして、高句麗が海を渡り、
高句麗が倭を破ったなどと解釈する<高句麗主導説>である。
しかし、碑文は後世の人が文字を付け加えたりする不完全なものではなく、
他にも別に周到な修辞法が確認されていたりして、日本の学者は
この<高句麗主導説>を認めていない。

高句麗・百済・新羅の子孫たちから出たもう一つの説は、
碑文の文字のすりかえ偽造説であった。
風化した文字を「海」に当てたのは、当時の日本の軍関係者が
意識的に「海」の字のを当てたのだろうという説である。
しかし、これも「海」の字を当てるのが間違いであろうとなかろうと
「辛卯年」の条の「倭」の主体性は否定できないだろう。
そして紀年記事に登場する複数の倭の記述は、否定できるものではない。
なにより決定的なのは、「水谷悌次郎旧蔵拓本」をはじめ
すりかえや偽造などとは無関係の「原石拓本」が国内が十指以上
あるということである。

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