樋口一葉と文京区


       大松騏一
 「時は今まさに初夏也。衣がへも
なさではかなはず。ゆかたなど、大方
いせやが蔵にあり」。明治28年(1895)
5月17日に書かれた樋口一葉の日記の
一節である。借しまれた死の前半の
ことで、文中の「いせや=伊勢屋」は
文京区本郷にあった質店。一葉の窮状
ぶりが分かる。
 皮肉なことに、来年発行が予定され
ている新五千円札には、その一葉の
肖像が用いられるという。
 さて、樋口一葉(本名なつ・奈津とも)
は、私が住んでいる文京区にゆかり
が深い。
 父親が病死した後の明治23年5月、
中嶋歌子が主催する「萩の舎」(はぎの
や=文京区春日)に18歳で内弟子と
して住み込み、和歌と古典の勉強を
続けたが、9月には本郷菊坂に母と妹
を住まわせ、仕立物や洗い張りの内職
で暮らしを立てつつ、小説家の道を
歩み始めた。
 この地を選んだのは、萩の舎に近い
こともあったが、東大赤門前の法真寺
隣りに4歳から6年間住んだことがあり、
親近感があったのだろう。菊坂には
今も「一葉ゆかりの井戸」が残されて
いて、一葉文学の発祥の地として訪れ
る人が多い。
 暮らしは、親子三人で懸命に働いた
が苫しく、当時のことだから質屋通い
となる。それが「伊勢屋質店」で、日記
に「此夜さらに伊せ屋がもとにはしり
て」などと、たびたび登場する。この
質屋さんの建物は、当時の面影のまま
写真スタジオとして使われていて、
区民の間で保存運動が起きている。
 それはさておき、一葉が小説家を志
したのは、萩の舎の姉弟子・田辺竜子
(三宅花圃(かほ))が『藪の鶯』を書い
て文壇に迎えられたことに刺激された
からという。原稿料は安く『うもれ木』
の場合、一枚25銭。計11円75銭だった
と菅聡子『時代と女と樋口一葉』に
ある。樋口家のほぼ一か月分の生活費
に当るが、毎月一作書いているのでは
ないから、生活は相変わらず苦しい。
 下谷龍泉寺町に移ったのは21歳の
時。雑貨や駄菓子などを商う小店を開
いて生活を支え、余暇を著作活動に当
てることにした。この地には有名な一葉
記念館があるが、よくこれだけの資料
を集めたと感心させられる。昔の吉原
の近くで、このときの体験が後年の
『にごりえ』や『だけくらべ』に生か
されている。
 商売は忙しかったが、暮らしは楽に
ならない。質屋通いはつづいて「夕刻
より着物三つよつもちて、本郷の伊せ
屋がもとにゆく。四円五十銭かり来る」
などとある。下谷に移転後も伊勢屋との
縁が切れなかったのは、信頼関係が生ま
れていて、多く貸してくれたからだろう。
 一年足らずで本郷にもどり、丸山福山
町に住んだのは、執筆に専念するため
だった。日記に「阿部邸の山にそひて
ささやかなる池の上にたてあるがあり
けり。(中略)家賃は三円也」とある。
阿部邸は備後福山藩・阿部伊勢守の中
屋敷だった地で、その崖下のうなぎ屋
の離れだった。この家は明治43年の台風
による崖崩れで跡形もなくなってしまい、
終焉の地を語る記念碑だけがポツンと
建っている。
 一菓の葬儀に際しては、同じ文京区の
千駄木に住んでいた森鴎外が陸軍軍医
の制服を着て騎馬で葬列に加わりたい
と申し入れたが、樋口家は内輪だけの
ひそやかな葬儀を願ってこれを固辞
したと伝えられている。
(えど友 No.14    2003/7)

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