石川啄木と小奴 野口雨情 石川啄木が歿(なくな)つてからいまだ二十年かそこらにしかならないのに、石川の 伝記が往々誤り伝へられてゐるのは石川のためにも喜ばしいことではない、況(いは) んや石川が存生中の知人は今なほ沢山あるにも拘はらず、その伝記がたまたま誤り伝 へられてゐるのを考へると、百年とか二百年とかさきの人々の伝記なぞは随分信を おけない杜撰なものであるとも思へば思はれます。ですから一片の記録によつてその 人の一生を速断するといふことは、考へてみれば早計なことではないでせうか。 私の思ふには石川が最後に上京して朝日新聞在社時代の前後や、晩年の生活環境に ついては石川の恩人であつた金田一京助氏が一番正確に知つてゐるはずで、同氏に よつてその時代のことを書かれたものが、正確なものだと考へられるが、北海道時代、 ことに釧路時代の石川のことについては全く知る人が少いやうに思ふのでそれをここで 述べてみよう。 石川の歌集を繙(ひもと)く人は、その作品の中に小奴(こやつこ)といふ女性が歌 はれてゐることを気づくであらう。 小奴といふのは釧路の芸者で、石川とは相思の仲であつたともいへよう。私は小奴に 逢つたのは石川が釧路を去つて約一年後であつた。その動機といふのは、大正天皇が 皇太子のころ北海道へ行啓されたことがあつた。その時私は、東京有楽社のグラフイツ クを代表して御一行に扈従(こせう) して函館から、札幌、小樽、旭川、帯広と順々 に釧路へ行つた。その時東京からの扈従記者は新聞では国民新聞の坂本氏、通信社では 電報通信の小山氏、日本通信の吉田氏らであつた、その時の新聞班の係長はつい先ごろ まで、千葉県や群馬県の県知事をしてゐた県忍氏で県氏はその当時北海道庁の事務官で あつたため新聞班の係長に選定されたのである。 そこで我等扈従(こせう)記者の一行が県氏の案内で釧路へ着くと、釧路第一の 料理亭、○万楼(まるまんろう)で土地の官民の有志が我我のために歓迎会を開いて くれた。私も勿論その席に出席して招待を受けたのであつた。 時は丁度灯ともしごろ、会場は○万楼の階上の大広間で支庁長始め、十数名の官民 有志が出席して、釧路一流の芸妓(げいしや)も十数名酒間を斡旋した。その時私が ふと思ひだしたのは、嘗て石川から聞いてゐた芸者小奴のことであつた。私はこの席に 小奴がゐるかどうかを女中に尋ねてみると、女中のいふには 『支庁長さんの前にゐるのが小奴さんです。』 見ると小奴は今支庁長の前で、徳利を上げて酌をしてゐるところである。齢(とし) は二十二、三位、丸顔で色の浅黒い、あまり背の高くない、どつちかといへば豊艶な 男好きのする女であつた。その中に小奴は順々に酌をしながら私の前に来た。そこで 私は 『小奴とは君かい。』 と聞いてみた。すると 『ええ、わたしですが何故ですか。』 と不思議さうに私の顔をみる、私は 『君は石川啄木君を知つてゐるだらう。』 といふと小奴は 『石川さん?』と小声に云つて、ぽつと頻を染めながら伏目勝ちになつて 『どうしてそんなことをおききなさるのですか。』 『いいや、君のことは石川君からよく聞いてゐたものだから……』 『あら、あなたは東京のお方でせう、それにどうして石川さんを知つてらつしやるのですか。』 『私は、今は東京にゐるが一、二年前までは小樽や札幌にゐたからそんなことはよく知つてゐるよ。』 実は私は札幌で石川を始めて知つて、それから小樽の小樽日報へ一緒に入社したのであつた。小奴は 『あなたのお名前は何とおつしやいますか。』 と、不安さうな瞳をみはつて尋ねるのであつた。 『私は野口といつて石川君とは札幌からの懇意だもの。』 『まあ、あなたが野口さんでしたか、それでは石川さんから始終あなたのお噂を聞いて ゐました。それにしても今石川さんは何処(どこ)にゐらつしやるのでせうか。』 小奴は石川が釧路を去つてからの後は石川のくはしい消息は全く知らないらしかつた。 『いまは東京にゐるが、君はそれを知らないのか。』 『ええ、東京へ行つてゐるといふことはうすうす聞いてゐましたが、東京の何処に ゐらつしやるのかその後音信がないので存じません。』といふ。 さうしてゐる中に酒席は酣になつて、一同のかくし芸が始まる。小山氏の手品、 坂本氏の詩吟等と主客共愉快になつて、大はしやぎにはしやいだ。私は小奴と石川の ことを話し合つてゐたために、同行の某君は、けしからんけしからんといひながら傍へ よつて来て、たうとう私と小奴との話をさへぎつてしまつた。そこで小奴はまた支庁長 の方へ行つて三味線をひきだした。私も大分酔つて来て一行と共に出来ないかくし芸 なぞしてはしやいだ。 やがて宴会が終つて芸者連は帰つてしまつた。私達も旅館へ引きあげようとして階段 を下りて来ると、女中が一通の手紙を私に渡した。封筒には唯、野口様と書いただけで 誰からの手紙ともわからなかつたが、開けてみると鉛筆の走り書きで、 『石川さんのお話もお伺ひしたうございますから、お帰りに私の家によつて下さい、 人力車でいらつしやればすぐでございます。 小奴』 とあるのでその手紙が小奴からであることがわかつた。そこで私は帰りに小奴の家に 寄つてみた。家は○万楼から四五丁位の処でその辺は花柳街で、小奴の家は格子戸の はまつた、下が三畳に六畳の二間、二階も一間位はあつたらしい、小じんまりした家 であつたやうに記憶してゐる。 小奴は私の行くのを待つてゐたらしく直(す)ぐに六畳の部屋に迎へて呉れた。壁 には三味線が二梃ばかりかかつて本箱の上には稽古本が二冊位のつてゐた。左の方の柱 に石川の書いた短冊が一枚かかつてゐた。短冊にかかれた歌の文句は忘れてしまつた が、歌の意味は、『小奴ほど人なつかしい女はない』といふやうなことであつた。全く 小奴は人なつかしい温和しい女性でまた正直な女であつた。小奴は酒に酢のものを添へ て料理を出して、心から私を歓迎してくれた。 何でも小奴にはそのころ三つか四つぐらゐになる子供があつた。その子供の親は石川 ではなく、小奴の前の旦那の子供であるといふことであつた。小奴の家庭は、小奴と その子供と箱屋と女中とをかねた五十ぐらゐの婆さんの三人暮しで、いふまでもなく 小奴は自前の芸者として釧路でも姐さん株であつた。小奴の母親は幼少のころ亡くなつ たが、父親(おや)は、そのころ、――実の父親か義理の父親であつたかよく記憶は してはゐないが、――何れにしろ父親は釧路駅の従業員をしてゐて小奴とは別居して 暮らしてゐた。小奴と逢つた翌日その父親にも停車場で逢つたが、決して裕福な暮し ではなかつたやうである。 小奴は私に石川のことについて次のやうなことを話して聞かせた。 『石川さんが釧路へ来て間もなく、社(釧路新報社のこと)の遠藤決水さん達と一緒に 逢つたのが、初めてで、それから始終石川さんとお逢ひしてゐましたが、初めの中は 料理屋の勘定なども無理な工夫をして支払つてゐましたし、私も出来るだけお金の工面 もしましたが、たうとう行きづまつて、はてはお座敦に行けばお客達から『石川石川』 といつてからかはれお座敷の数もだんだん減つてどうすることも出来ないやうになつて しまつたのです。それに石川さんにはお母さんも奥さんも子供さんまであつて、お金に 困りつつ小樽にゐるといふことを遠藤決水さんから聞かせられて、私は第一奥さんに すまないと思ひましたのでそれからは、心にもない不実な仕打をするやうになりました。 それとしらない石川さんはその後私を大変恨むやうになりました。そこへまた社の社長 (釧路新報の社長白石義郎氏のこと)さんも石川さんに意見をするやうになつたので、 それやこれやで石川さんは釧路をたつ気になつたのでせう。 けれどもたつといつたとこで、一文の金の融通さへも出来ないまでに行きづまつて しまつた石川さんは、丁度その春の解氷期をまつて、岩手県の宮古浜へ材木を積んで 行く帆前船に乗つて、大きな声ではいはれませんがこつそりと夜だちしてしまつたのです。 さあ石川さんが夜だちをしたとなると勘定の滞つてゐる料理ややそばやが皆私の方へ 催促をするので私はよくよく困つてしまひました。仕方がないから社の社長の白石さん を尋ねて何とかして下さいませんかと頼みましたが、白石さんはぷんぷん怒つてゐて、 てんで取り合つてくれませんでした。尤も石川さんが夜だちをする二日ほど前に 『「これから郷里の岩手へ行つて金をこしらへて来る。」といつてゐましたが、そんな ことはあてにならないとは思つてゐましたが、さうでもしてくれればいいがとせめて もの心頼みにもしてゐたのです。けれどもここをたつてからは一度の音信もありません から、釧路のことも、私のことも、もう忘れてしまつたのだと思はれます。』 と話して小奴は泪をさへうかべてゐました。私は小奴が気の毒になつたので、 『私が東京へ帰つたら、石川に早速話して石川を慕つてゐる君の心をよく伝へるから。』 と慰めの言葉を残して旅館に帰つて来た。 その後東京へ帰つてから、東京朝日新聞社に石川を尋ねて小奴の話を伝へると、石川 はきまり悪さうに笑ひにまぎらして何とも答へなかつた。同じその晩石川と銀座の そばやで一杯やりながら再び小奴のことを話しだすと石川も感慨無量の面もちで うなだれてしまつたので、もうそれ以上私は石川に小奴の話をする勇気がなくなつて しまつた。そしてその後幾度か石川には逢つてもついその話はせずにしまつた。 それから余程経つた後であつた。小奴にそのうち石川と一緒に釧路へ君を尋ねると いふ葉書を出したことがあつたが、小奴からは何の返事もなく、石川も他界して しまつたので、時折歌集を繙く度に小奴の名の出てくるのをみると、釧路の夕を思ひ 出しては芸者小奴は今、どうしてゐるかといふことを考へるのであつた。 ○ その後大正十年の春、私が奈良市へ講演に行つて四季亭へ泊つた時、どうした話の はずみだつたか四季亭の女中が、あなたを知つてゐる坂本さんといふ女の方が京都に をりますよと私にいふのである。その女中は何でも京都の生れであつたやうに思はれ た。私は坂本といふ婦人はいくら考へても思ひ出せなかつたので女中にだんだん聞いて みると、その坂本といふ婦人こそ、釧路の芸者小奴であつた。小奴の本姓は坂本といふのであつた。 その女中の話しによると、小奴の坂本はその当時京都のある呉服屋の支配人の妻君に なつて京都に住んでゐたのであつた。釧路と京都とはどんな事情で小奴が今京都に ゐるかは知らないが、不思議な感がしてならなかつた。 大正十年といへば今から七八年前のことであるから、今も小奴は京都にゐるかも知れ ない。 そのころ無名の詩人であつた石川、今の石川の名声と思ひ合はせて考へた時、小奴は たしかに感慨深いものがあるであらう。 私も機会があつたら、もう一度小奴に会つて石川の話もしてみたいやうな気もするが 単に京都とばかりでは、京都の何処(どこ)にゐるのやら知るよしもなくそのままに なつてしまつた。 ○ 石川は人も知る如く、その一生は貧苦と戦つて来て、ちよつとの落付いた心もなく 一生を終つてしまつたが、私の考へでは釧路時代が石川の一生を通じて一番呑気であつた やうに思はれる。それといふのも相手の小奴が石川の詩才に敬慕して出来るだけの真情 を尽してくれたからである。かうした石川の半面を私が忌憚(きたん)なく発表する ことは、石川の人と作品を傷つける如く思ふ人があるかも知れないが私は決してさうと は思はない。 妻子がありながら、しかも相愛の妻がありながら、しかもその妻子までも忘れて、 流れの女と恋をすることの出来たゆとりのある心こそ詩人の心であつて、石川の作品が 常に単純でしかも熱情ゆたかなのも、皆恋する事の出来る焔が絶えず心の底に燃えて ゐたから、それがその作品に現れてきてゐるので、もし石川にかうした心の焔がなかつ たならば、その作品は死灰(しかい)の如くなつて、今日世人から尊重されるやうな 作品は生れて来なかつたかも知れない。 いはば石川の釧路時代は、石川の一生中一番興味ある時代で、そこに限りなき潤ひを 私は石川の上に感ずるのである。 このことを石川が地下で聞いたならば苦笑をもらすか、微笑をもらすか、石川のこと であるから多分苦笑をもらし乍ら煙草を輪に吹いてだまつてゐるだらうとそれが私の目 に見ゆるやうに感じられてくる。
初出:「週間朝日」 1929(昭和4)年12月8日号
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