惜別 文学至上主義唱える
「惜別」誕生のきっかけは、日本文学報国会が昭和18年、大東亜共同宣言の
文学作品化を企画し、内閣情報局とともに執筆希望者を募ったこと。
太宰はこの企画に応募して作品が実現した。しかし、太宰が「惜別」初版本
あとがきで − 話が無くても、私は、いつかは書いてみたいと思って(中略)
その構想を久しく案じていた − と書いている。
太宰研究家宮城県の工業高校干葉正昭先生も書いているように
「大宰は伝記的、思想的には魯迅を描くことはできないと思っていた。
そうではなく、魯迅に自分白身を重ね、医学という実学から芸術への転換に
価値を見いだす人間の苦悩、文学の有効性を描きたいと考えた」
のであろう。
しかし、魯迅研究の第一人者、竹内好らは「惜別」が事実に基づいた内容ではない
ことを指摘して、「主観だけででっち上げた魯迅像」「失敗作」などという評価を
くだした。そのためこの作品は長い間葬られていた。
近年ようやく魯迅研究としてではなく、文学の立場から真価が語られるようになった。
早稲田大東郷克美教授は「一つの事件がきっかけではなく、日本の友人ら
との交遊の中で、文学に目覚めていくというのは、太宰なりの魯迅解釈である。
友人がうまく描けているし、大宰の文学観もしっかり盛り込まれている。」
と語り、「惜別」は見直されるべきであると述べている。
”国策小説”を求められながら、社会的、政治的意図を排除、魯迅に自分を重
ねて”文学至上主義”を唱えてみせた太宰の能力はたいしたもの。
当時の多くの制約の下で、時局への迎合も批判も避け、純粋な文学作品を
作り上げた手腕は、やはり高く評価されるべきであろうと思われる。
学術的研究の伝記ものではなく、魯迅という題材をもとに文学の意味と
自分の生き甲斐を訴えたかったのが、太宰治のいいたいことであったのだろう。
(河北新報 1998年10月4日)を参考にしました。
これは「作品をたどるシリーズ」の14回目です。引用については河北新報社より
了解を得ています。