理学部vs工学部
理学部では応用を考えずに研究しており、工学部の人は応用するために研究
している。
基礎研究(応用をなんら考えずにする研究)と応用研究(何らかに応用する
ことを目標にしてやる研究)という意識の違い。
理学部の学生は、先生から習えば習うほど、この世界の仕組みがわからなく
なり、ついには何もわからなくなって卒業する。
工学部の学生は、自分の回りにある各種のものを設計する理屈を教えてもら
うので、この世の中の仕組みがすべてわかったような気になって卒業する。
しかし、卒業してから自分たちには手も足も出ない問題が山ほどあり、先生
はできることだけを教えてくれたのだと気がつく。
理学は分析学(アナリシス)で、工学は合成学(シンセシス)である。
確かに、理学部はすでにある自然を理解することが先決だから分析的になる。
工学部はもの作りを設計しなければならない。ところが、合成理論というも
のは皆無に等しい。
実際には、仮の設計を机上分析して、要求された条件を満たすことを確かめ
る作業を繰り返す。結局は、分析の理論を逆にたどって合成しているわけである。
人間の脳味噌は分析しかできないらしい。
工学部では、それぞれ自分の得意とする分析手法を積み上げて設計理論と称
する。
分析手法を積み上げる方法は、結局しらみつぶし的だから、自然科学から離
れ、人工科学として限りなく細分化し始める。
工学部では、同じ学科でも他人の仕事が全くわからないという人が多い。
当然、学位の審査には自信など持てない。質を問わない膨大な業績リストを
つけて権威を誇示するか、物作りの実績にたよることになる。
理学部では、まだアカデミズムが勝っていて、新しく面白いことを見つけた
のなら論文が1編でもよいではないか、というような議論の余地が残っている。
工学部には、土木や建築など取り扱う社会的対象の名前を名乗る分野と、
機械や電気のように用いる道具だてを名乗る分野がある。
系統発生的には前者の方が古い。どっちみち、モノを作り出す作業だから
できあがるモノの名前をつけようが、道具の名前をつけようがかまわない。
理学部も似ている。
物理や化学は手に持っている刀の名前をつけた学科であり、生物や地学は調
べる対象の名前をつけた学科である。
前者は、自分の刀で切れない自然にでくわしても、これは私の担当ではない
といえる。
実際、物理や化学はずっと長い間、生物現象は対象外だといってきた。
生物学や地学は、相手が何だかわからないのに切る対象を決めてしまった
から、刀を持ちかえてでも何とか切ってみせねばならない。
一方は自然を切る刀そのものを作る基礎科学であり、もう一方は、たとえば
生物学は他の科学の成果もすべて投入してでも、生物現象を理解しようとしている
応用科学である。
工学は技術を作る科学だから、上の生物学とまったく同じ理論で応用科学で
ある。
もし、科学抜きでモノ作りの技術だけを次の世代に伝えるのなら、学を名乗
る資格はなく、工術部とでも名乗って専門学校になるしかない。
英語には Industrial Science とか Engineering Scienceという言葉がある。
近ごろではScience and Technology といっている。この and は and then
の意味であり、科学の訓練を受けた人間による技術づくりのことである。
工学部でやるべきことは、技術者の養成でも技術の伝承でもない。技術を作
る科学の教育と研究である。
工学と理学を渡り歩いた人間からみると、人に力とモノを与えるのは技術で
あり、技術は工学という科学で作られる。新しい工学は常に自然科学との相互作用
を必要としている。
これまでの工学は物理、化学、数学で支えられており、我々自身を含む自然
現象に関する科学つまり生物学を欠いてきた。
工学が新しい能力を得るためには生物学との相互作用が不可欠である。新し
い応用科学として、生物学をも取り込んだ工学を作る場所が必要である。
(下澤楯夫:比較生理生化学 Vol.10, No.2)
下澤先生は北大電子科学研究所の神経情報研究の教授で、
工学部を卒業してから、しばらく理学部に勤務していたので
理学部と工学部の両方を知っている貴重な先生です。
(実は私と教養時代は同級生だった)