学生の側から見た授業 千葉大学教授 山内正平 教育改革は授業を変えるか 大学設置基準の大綱化以来、せきを切ったように教育改革 が叫ばれるようになった。大学教育の改革というテーマの展 開にはいったいどのような教育の質的変化、教育効果が期待 されているのであろうか。カリキュラム改革、組織的なシラ バス、授業評価の導入にとどまらず、組織、運営面での改革 も含めた大講座制への移行、大学院重点化など、それぞれの 大学・学部の個別事情に応じて、様々な形で、様々な規模で 教育改革が手がけられている。しかしそうした改革は、しば しば肝心の授業を置き去りにすることがある。 例えば、カリキユラム改革といっても、多くの場合は、情 報、環境、国際化といった流行言葉を軸にしながら、教育目 的を明確にしたり、科目間の関連性を重視することなどによ ってカリキュラムを構造化することが大きな課題なのであり、 なかなか個別の授業の質的変化にまで立ち入ることができな い。少人数教育の重視であるとか、電子機器、AV機器を駆 使した授業環境の整備であるとか、大学の授業は外見では確 かに充実してきている。しかし、それで果たして大学の授業 の中身に質的な変化が起きているのだろうか。 教育改革の一環として、学生による授業評価を組織的に取 り入れる大学が増えつつある。授業評価は、学生の声が教育 改革に直接反映する数少ない機会として、運用しだいで重要 な役割を担うだろう。しかし一般的には、授業評価の組織的 導入は難しい。教員の抵抗感は言うまでもない。また定着し て習慣化すれば、授業の質的変化を期待した起爆剤的効果が しだいに薄れてくる。学生の一人ひとりの声が平均化され、 均質な大学教育を促進する一方で、授業の個性を犠牲にしか ねない。実施すること自体に重要な意味があるかのような形 式主義によって、大学教育が新たな硬直化を招きかねない。 緊張を持続させながら制度を維持することは、新たな制度を 導入ずることよりもはるかに難しい。 学生が求める情報 どの大学でも学生は、学生間の情報に従って、単位のとり やすい授業に流れる傾向がある。先輩が後輩に伝える情報は、 体験に基づくだけに信頼性が高い。特に学生自身の手で実施 される新入生へのガイダンスは、大学が実施する正規のガイ ダンスよりも懇切丁寧である。ガイダンスする教員自身がカ リキユラムの構造や履修手順を熟知しているかどうか疑わし い。体験に基づく学生の生の声が印刷され、冊子になって、 めったに教員の目に触れることなく、みごとに全学生に行き 渡る。その組織力と動員力にはしばしば驚嘆させられる。し かし単位のとりやすさだけを基準にして学生が授業を選択す るとは限らない。 学生の欲しい情報は、単位のとりやすさだけではない。授 業が自分に何を提供してくれ、自分はそこから何を学ぶこと ができるのか、といった関心もそれ以上に強い。もちろん教 員の性格や癖は見逃さない。ときには数タイプの時間割モデ ルつきの冊子も現れる。学生のニーズは多様である。楽をし たい人向きのモデル、勉強をしたい人向きのモデル、あるい は平均的な時間割モデルなど、あくまでも利用者本位に考え られている。そしてそこに示される容赦ない記述は、だいた いにおいて正鵠を得ている。 学生が仲間の情報に頼らざるを得ない状況は、教員のほう でも十分に承知しているはずである。単位の取得が常識外れ に難しい教員がいるかと思えば、答案に名前さえ書いてあれ ば最低の合格点を保証する教員もいる。もちろんそれぞれに それなりの理由があるだろう。あるいは、レポートには自分 の考えを論理的に示しなさいと要求する教員がいるかと思え ば、レポートに書かれた内容が授業で話された内容から逸脱 していると単位を与えない教員がいる。出席は重視しないと 言つて出席をとり、最終的には出席で合否が判定されたりす る。このたぐいの話は数え上げれば切りがない。学生にとっ て大学教員はとかく信用ならないのである。したがって、建 て前の情報ではなく、体験に裏づけられた本音の情報が求め られているのである。 こうした学生の正直な声を、なんとか教育改革に利用する ことができないものか。大学が実施するガイダンスや授業評 価は、形式主義がまかり通り、教育現場の実情を反映しない ことがしばしばある。それに対して学生のもっている情報は、 事実に基づいた証言としての価値が高く、授業の改善にとっ ては貴重な資料となる。しかしこれを公に活用するのは難し い。なぜなら、教員の目に触れることがないからこそ、学生 は安心を得、情報の信憑性に満足するのである。しかしその 満足感には、管理教育への不信が内包されている。まずそれ を取り除くことから始めなければならない。 学生不在の教育現場 学生が互いに情報を交換し合うことは、いわば学生不在の 授業に対する一つの批判として受け止めなければならない。 その批判は、一方では授業の均質化を求めながら、一方では 授業の個性化を求めている。 夏の暑い日の授業は、エアコンがなければ、教員にとって も、学生にとって.も我慢のならないものである。教員は暑さ を忘れようとするかのように一気にまくしたて、学生には見 向きもしない。すでに学生の存在が忘れ去られてしまってい る。汗をたらたら流しつつも、しゃべることによって少しな りとも暑さを忘れることのできる教員はまだいい。黙って聞 いている学生は、暑くて授業に集中するどころではない。居 眠りもできない。私語をする気力もない。学生不在の授業風 景とはだいたいこんなものである。 シラバスに従って授業を展開するのは当然のことかもしれ ない。しかし、ただシラバスに従っているだけで、なんのメ リハリもなく、だらだらとした授業が一年間、しかも一度の 休講もなく、きちんと時間どおりに行われるとしたら、学生 ならずとも、なんとも気が重くなる。教員自身がかって自分 が学生であったときのことを思い返してみるといい。要点が はっきりしない授業、薄っぺらな内容をふくらませただけの 授業など、あれもこれもと思い出されるだろう。 授業時間が正確であることが大事なのではない。授業時間 の使い方が問題なのである。九十分の授業を始めから終わり まで集中することなどとうていできるものではない。学習者 が授業に集中できる時間が五十分か四十五分くらいだとすれ ば、時間割編成そのものを根本から考え直す必要がある。 これまで授業は、提供する側の都合だけで組み立てられて きた。授業で居眠りや私語が出るのは無理からぬことである。 授業での居眠り、私語を批判する以前に、教授会での居眠り、 私語をまず問題にしなければならないだろう。そうすれば、 精神やモラルの問題ではなく、システムとその運用上の問題 が大きいことがわかる。 本を読まない学生が多い。しかし、本を読ませる工夫をし ない教員も多いことに気づかねばならない。学生が本を買う 動機は、教員の推薦であることが多い。学生は、教負が本を 推薦するのを待っていると言ってもよい。もちろん推薦する だけでは不十分である。アフターケアも念入りにしなければ ならない。 「いまの学生は文章が下手だ」というせりふはもう聞き飽 きた。かつて下手だと言われた学生が、いまは教壇に立って 学生に文章が下手だと言っている。批判するだけではなんの 意味もない。学生のレポートを読むと誤字が多いと実感する。 しかし教師の板書にも誤字が多い。教員の側にも反省すべき 点は多くある。例えば、学生のレポートを斜め読みしないく らいの礼儀は心得ておくべきである。どうせろくに読みはし ないという情報はすぐに伝わ乳学生はいいかげんな文章を 書く。まず他人が読む文章であることを学生に自覚させなけ ればならない。そしてそうした点を具体的に学生に指摘する 必要がある。授業の準備にいくら時間と労力をかけても、フ ィードバックの作業が不足すると、授業効果に対する教員自 身の不満と不安がますます増大する。 授業中の教員は、しばしば一部の学生のみを相手にして、 多数の学生の存在を忘れることがある。満遍なく学生から発 言を引き出すことは難しい。しかし、多数の学生を疎外する ような授業であってはならないだろう。自己変革することは、 教員にとっても、学生にとっても難題である。 たとえ成人として未熟であっても、学生は自分の置かれた 学習環境を正当に評価する能力を十分にもっている。少なく とも教育改革が学生不在の論議になってはならない。 FDへの期待 大学では不熱心でも、カルチャーセンターでは熱心な大学 教員は珍しくない。教員にとっても自己管理は難しい。した がって、教員が自分を相対化することができるような機会が 必要になる。そのためには、授業空間が閉じられていてはな らない。偏差値教育に慣らされた学生ばかりでなく、同僚教 員、社会人など様々な受講者が授業にまざれば、授業空間は 緊張する。こうした開かれた教室は、学生にも大きな刺激を 与えるが、それ以上に教員の資質開発、大学教育の活性化に 大きな役割を演じるはずである。 日本の多くの大学では、教員は匿名のまま教育に従事し、 学生は匿名のまま卒業していく。学生は受講科目の名称くら いは知っていても、担当する教員の名前を覚えていない。教 員のほうは、学生の名前を知らない、顔すら記憶にない。さ らに、教員同士がキャンパスで顔を合わせてもあいさつもし ない。顔には記憶があるが、名前を覚えていない。大学教育 に個人が存在しない。現在の日本の大学教育は、多かれ少か れこうした人間疎外的状況に置かれている。 最近では、どこの大学でも電話帳のような分厚いシラバス 集を出している。シラバスという隠れみのをまとったマニュ アル依存症が日本の大学教育を汚染している。そこでは他人 との差異が問題なのではない。他人を意識しながら、自分が 世間の枠組みからはみ出していないかどうかが気になるのだ。 個性という仮面で偽った放縦な授業が放置されてはならな いが、かといって、没個性の平均値的な授業だけがまかり通 っても困る。大学の授業はどうあればよいのか。つねに課題 に向き合うことが重要であり、そのような教員が集団として 同じ課題に取り組むことにFDの一つの意味がある。 くれぐれも学習の主体である学生をお忘れなきよう。大学 教員が教育に悩んでいることを、学生は知らない。 (大学時報 ’95 MAR.)
山内先生から転載の許可をいただきました。