里中満智子の日本歴史コミック
天皇のおはらいさげの女性をうやうやしくいただいた父鎌足 だからその息子の藤原不比等はもしかすると鎌足の子ではなく天皇の子かもしれない。 藤原不比等と女官三千代は天皇を守りながら藤原氏安泰の基礎を作っていく。 草壁皇子(662−689)のライバルであった大津皇子(663−686)は 686年天武天皇の死の直後、謀反の嫌疑がかけられ死に追い込まれてしまう。 すでに681年に皇太子に立てられていた草壁皇子は、母の期待につぶされるように 幼い息子を残して死んでしまう。 草壁皇子の遺児軽(かる)皇子が皇位につくまで、持統天皇(645−702)が 政治を続けていくかたわらで、草壁皇子の腹違いの兄高市皇子(654−696)は、 太政大臣に任命され実力を発揮しながらも亡くなってしまう。 三千代は、軽(かる)皇子(文武天皇)の乳母となり、藤原不比等に接近し、 彼の長女宮子を文武天皇夫人とすることに成功して急速に親密となる。 そしてついに不比等と再婚。 701年(大宝1)宮子が首(おびと)皇子(聖武天皇)を生むと、 三千代もまた不比等の第3女安宿媛(あすかべひめ)(光明皇后)を生み、 再び乳母となって首皇子を養育する。 祖母持統天皇から位を受け継いだ文武天皇(683−707)は、体が弱く 祖母の死の5年後に後を追うように亡くなってしまう。 このあたりから、コミック長屋王残照記の話は始まる。 長屋王(684−729)の父高市皇子は、天武天皇の長男であったが、母が地方豪族 出身のため、他の異母弟たちより位が低かった。 草壁皇子の子軽皇子は天皇になったため長屋王は権力の中心からはずれたが、 彼の母親は持統天皇の妹であり、また正妻吉備内親王は阿閇(あへ)皇女の妹であった から、藤原氏の勢力が強くなってくると、藤原氏の力をおさえるために 皇族から期待されることになる。 草壁皇子と阿閇(あへ)皇女の息子が、軽(かる)皇子つまり文武天皇である。 文武天皇は、不比等の娘宮子との間に生まれた子首(おびと)皇子をはじめ 全部で3人いるわが息子の行く末を案じて、母親阿閇(あへ)皇女に天皇になって くれるよう遺言する。自分の孫首(おびと)皇子を天皇にしたい不比等の後押しもあり 阿閇(あへ)皇女は天皇になる。それが元明天皇である。 元明天皇は藤原氏の力が強くなりすぎた現実を心配して、天皇の権威を守ろうと考え 体力のおとろえた自分は上皇になり、娘(文武天皇の姉)氷高皇女を天皇にして 大きくなりすぎた藤原氏の力をそごうとする。 長屋王も協力する。 こうして元正天皇(680−748)が誕生する。長屋王の妻の母が上皇であり、 妻の姉が天皇となった。 全盛をきわめた不比等も年にはかてず、死んでしまう。(720) そして、藤原氏の繁栄という父の意志を息子たちが政治の影で暗躍しながら実現していく。 元正天皇は藤原氏ともバランスをとりながら、信頼する長屋王を右大臣にする。 女帝元正天皇は甥の首皇太子に位をゆずる予定であるが、皇太子は藤原氏の娘を母にもち 生まれたときから藤原氏との強い関係の中で暮らし、藤原氏の娘安宿(光明子)を妻にもつ ひよわな青年である。724年ついに首皇太子即位(聖武天皇)。長屋王は左大臣になる。 藤原氏一門の中に、長屋王に対する対抗心が大きくなる。 安宿(光明子)はついに待望の男の子(基 もとい)を産んだ。しかし、基は1年未満で死ぬ。 このままでは、外戚の座から離れ権力を失うことをおそれた藤原氏は、場合によっては 即位もできる皇后の地位に安宿(光明子)をなんとかつけようとと謀をめぐらせる。 長屋王は筋を通す人だから、藤原氏の光明子が皇后になることには反対しそう。 かくして、基皇太子の夭逝は長屋王に呪ろわれたからという「でっちあげ」が作られ 怒りにとらわれた聖武天皇は長屋王を討てと命令する。 じゃまものがいなくなり、三千代と不比等の娘光明子はまもなく聖武天皇の皇后となる。 それは皇族以外の出身では初めて皇后となったのである。聖武天皇が亡くなると 光明皇后はその遺品を東大寺盧舎那仏に献じ、それが正倉院宝物として後世に残された。 藤原氏は権力の座から離れたくないから、なんとしても光明子を皇后にしたかった。 光明皇后をたてるのに反対する勢力を排除する事件が「長屋王の変」ですね。 ライバルの長屋王を追い落としに成功した藤原氏であったが、そのままでは終わらなかった。 735年、新羅からの船が天然痘を日本にもちこんだので、免疫のない日本に大流行した。 そして、藤原4兄弟も次々と死んでいった。長屋王の影におびえながら。 人々は長屋王のたたりだと噂した。 作者の里中満智子はあとがきで書いている。 藤原氏はなぜ長屋王の変で長屋王を追い落としに走らなければならなかったのだろうか。 これまでは、藤原氏の娘安宿(光明子)が皇后になることに反対していた長屋王を 封じ込めるためという説であったがそれだけではなかった。 長屋王邸跡から発掘された木簡を見ると、長屋王ではなく長屋親王となっている。 つまり彼は皇位継承権をもっていたのだ。思いのままの政権を作りたい藤原氏にとって、 次の代の天皇になれる長屋親王は最大のライバルだったのだ。 藤原氏はのちに「続日本紀」には長屋王と記録して、皇位継承権のない存在としての 長屋王を後世に伝えたかったのだ。 記録はその書き手の都合で書かれる。必ずしも真実ではないということ。これは歴史学の常識