明治になって、欧米の近代生物学が入ってくると、
「昆虫学」の流れは一変した。
松村松年(1872−1960)は「日本昆虫学の開祖」と言われる。
彼は兵庫県明石郡大明石町(現・明石市)出身で、
札幌農学校を卒業(1895)、その後北海道帝国大学農学部において
定年退職(1934)するまで昆虫学教室を主宰した。
専門は分類学である。理博・農博、北大名誉教授。
初期の著書『日本昆虫学』(1898)は、日本人による
最初の昆虫学テキストとして他にくらべるものがなく、
第10版(1907)まで版を重ねた。
この本には、日本の代表的な昆虫の科名、種名(800余種)が
和名学名併記で、初めて体系的に示されたのである。
つぎに松村は、日本産の主要な昆虫を図と文により示し、
種名を調べる(=同定)便宜をはかろうとした。
それが主題の『日本千虫図解』シリーズ(全12巻)である。
このシリ一ズは『日本千虫図解』(『正編』と略記)全4巻(1904−07)、
『続日本千虫図解』(『続編』)全4巻(1909―12)
および『新日本千虫図解』(『新編』)全4巻(1913―21)
の3編からなる。
これらの図版の図は、すべてモノク口の全形背面図である。
描画者は松年の長兄・竹夫(画家)が主体となりまとめた。
竹夫は京都の同志社英学校出身で、
同校教師のゲインズ(M.R.Gaines)から昆虫採集法を教わり
美しい蝶の標本をつくり自宅に飾っていた。
もともと虫好きの松年は、この兄の影響を受けて
昆虫への道に進んだのである。
そういうわけて兄は昆虫の造詣が深い画家なので、
松年は竹夫に『正編』の描画を依頼した。
当初は札幌から明石に写生用標本を送っていたが、
破損することもあったので、まもなく竹夫を札幌に呼びよせた。
また、次兄の介石(1859−1939)は高名な宗教家(キリスト教)で、
松年の札幌農学校での学資の一部を援助し、また『正編』の出版を、
懇意な警醒社書店(東京)に紹介したのである。
つまり、「図解」シリ−ズはそれぞれ一芸に秀でた
松村三兄弟の合作といえるだろう。
なお、のちには松年の弟子の素木得一(1882−1970)や
大国 督(1884 ? −1957)など教室員(助手)も
描画の一部を分担した。
松村は『正編』を構想した当時、日本産の昆虫を
およそ「三万余」種と推定していたようである。
その代表的なものを図示して「千虫」に収めようとしたが、
進行の途中で当初の計画がふくらみ、
『続編』および『新編』へと拡大して合計約3000種に達した。
まず『正編』第1巻は「総論」において昆虫学を略説し、
次いで「日本昆虫ノ分類」では18目とそれぞれの科について
略記している。続いて本論の「日本千虫図解」の記載文となる。
この記載の順序は、和名・学名、昆虫学上の地位(科名)、
外部形態、色彩・紋様、大きさなどである。
『新編』には新属や新種、新変種(チョウ類)
の英文記載がふくまれる。
その後、彼は『増訂日本千虫図解』(1930、
第2巻で中断。束京・刀江書店)、
『日本通俗昆虫図説』全5巻(1929−33、彩色。束京・春陽堂)、
『日本昆虫大図鑑』(1931、刀江書院)、『大日本害虫図説』
(1932、明治図書)などの図説・図鑑を相次いで出版した。
(参考 国立科学博物館ニュース 第373号)
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私は学生時代に、この松村博士の蝶の標本を半日かけて見たことがある。