著者は「週間漫画サンデー」元編集長
連載をお願いしたり、反対にさびしくなった漫画の連載をお断りしたりした
経験を回想しながら楽しく書いたものである。
こんな楽しい本にはそうめったにお目にかからない。
著者の暖かいキャラクターがこちらにも十分感じられる。
登場する漫画家
小島功、手塚治虫、馬場のぼる、杉浦幸雄、やなせたかし、谷岡ヤスジ、
久里洋二、わたせせいぞう、種村国夫、杉浦日向子、近藤ようこ、
水野良太郎、上村一夫、矢野功、鮎沢まこと、西澤勇司、矢野徳、
境田昭造、山下紀一郎、関根義人、畑中純
小島流の気配り、原稿を待っている編集者に晩メシと酒を出す小島功
原稿ができたら食事も中断して本社に原稿を持って行かなければならないから
40分かかって原稿を描く。待っている40分の間に編集者が食事を
できるようにという配慮だったそうな。
手塚治虫 昭和3(1928)年11月3日生まれ。昭和49(1974)年
9月一輝まんだら連載開始、平成元(1989)年2月9日死亡。
人気漫画家は描ききれないほど多くの出版社から連載を頼まれる。
たくさんの会社の編集者が原稿を待っていると、自分のところを早く描いて
もらうよう喧嘩になるという。手塚治虫は4社の原稿を平等に描いていくという。
A社の1ページ描いて渡し、つぎにB社の1ページ描いて渡し
と順番に描いていく。上がるときはほぼ一斉に原稿ができあがる。
それでよくストーリーに混乱が起きないものだと思う。
それができるのは天才手塚だったからであろう。
そんなに忙しい手塚に、この編集長は漫画週刊誌が売れるため
はやりの劇画をおそるおそる頼んでみた。奇跡的に引き受けてもらえた。
そうして始めたのが、一輝まんだらだった。しかし、原稿が遅れ
漫画週刊誌そのものが期日までに発行できなくなった。そんなことが2度
あって、とうとう編集長は手塚に連載中止をお願いするしかなかった。
そしていつかこの連載を再開したいという作者の願いもむなしくなった。
猫の絵をよく描いたので、猫ババと呼ばれた馬場のぼる。
100版以上も版を重ねた11ぴきのねこ、封筒に入れたはずの原稿を
なくした編集者は、馬場のぼるに両手をついた。慈愛に満ちた馬場のぼる
は青森県三戸の人で、おかげで編集者は救われたのであった。
こんな神様みたいに人に、人気のなくなったジロさん鴉の打ち切りを
お願いした編集長は辛かったろう。
杉浦幸雄の至言「一寸先は光」。平成7年3月にそれまでの新聞連載を
まとめて出版したのが「わが漫画人生・一寸先は光」。おそれいりました。
アンパンマンのやなせたかし。若く見られるやなせたかし。76歳(平成7年)
ラジオ。テレビ、ミュージカルの台本や構成、詩や絵本や漫画、そしてデザイン。
やなせたかしはマルチ人間だった。
谷岡ヤスジ はっきり言って私はあのハチャメチャな漫画は理解できない。
人気漫画家はついに連載30本、月産350枚になってしまった。
いつまでも二階から降りてこない漫画家に気になった編集者が見に行ったら
窓が開いて逃げている。泣く泣く編集者は会社に漫画家が逃げたことを電話した。
すぐ編集長は代わりの原稿の手配をする。一応穴埋め対策をしながら、漫画家
になんとか描いてもらうよう交渉させる。諦めかけていた頃、編集者から
嬉しい知らせがあった。「谷岡の原稿ができあがりました」校了祝いの大酒を
飲んであとは笑い話になったという漫画みたいな話。結果として読者を喜ばせた
漫画家の勝ち。締め切りに間に合ってもつまらない漫画では編集長も困る。
編集長を辞めたから(利害関係なしに素直に飲めると)飲みに誘う谷岡は立派な人。
女子大生の憧れのわたせせいぞう「私立探偵フィリップ」。
わたせせいぞうから来たカレンダーをいぶかしげに見た編集長の娘の女子大生は
そのカレンダーを取り上げて自分の部屋に持って行ってしまった。
彼女は父親の仕事を知らなかったらしい。そして1本のカレンダーで父を見直した。
渡瀬政造は園山俊二の漫研の後輩として紹介されたのだった。
相撲がわかり落語がわかり浮世絵もわかっている江戸学優等生の杉浦日向子
の連載「百日紅」。これを連載した編集長の自慢作でした。
若いのに不思議に人脈に恵まれている杉浦日向子。
文学性のつよい本格派女流漫画家近藤ようこ。社会派、人生派。
「見晴らしガ丘にて」第15回日本漫画家協会賞優秀賞。
西澤勇司は杉浦幸雄の弟子である。だから絵も似ていると思う。
自費出版「老人漫画宣言」は全国から買いたいという注文が殺到した。
この本に書いてある編集長の本音
「編集をして、新連載をはじめるのはいいのだが、いやなのはそれまでの
連載を打ち切るときである。これができないと編集長はつとまらない。
これを怠ると雑誌は鮮度を失い読者を失うことになる。
その感覚を大切にしながら、心を鬼にして切るときは切る」
そんな努力で漫画週刊誌はともかく売れ続けたが、編集長は心も体もぼろぼろ
になったらしい。生きるということはすざまじいことだ。