外来語
(北村一親:文化接触における言語の諸相)
フランス人がゲルマン語から blanc,bleu,garder,jardin,bois などの基本用語を借用し
たように、言語は必ず外国語からの借用語を含んでいる。
これは日本語においても同じで、旦那、和尚、奈落、鉢などの言葉がサンスクリット語
やパーリ語に起源を有していることを多くの日本人は知らない。
これらの借用関係を解明することによって他の文化と接触した場合にその言語が
どのように反応し、自身の文化のうちの何を他の文化に与え、何を他の文化から
享受したかがわかるのである。
異なった文化同士が衝突した時に生ずる言語の変容をいくつかの具体例を示しながら
考察する。
1.語の借用と補足的価値
英語におけるフランス語借用語の例として、英語が作られた当時のイングランド
のことを考えてみよう。
1066年にフランスのノルマンディー公がイングランドに侵攻し
イングランド王位についた。
このノルマン征服以後、英語は形態・統語などにおいて大改変を受けるとともに大量の
フランス語語彙が英語に流入することになった。
英語で動物自体を表す語とその食用肉を表す語を対比すると
calf 子牛 veal 子牛の肉
deer 鹿 venison 鹿の肉
ox 雄牛 beef 牛の肉
pig 豚 pork 豚の肉
sheep 羊 mutton 羊の肉
などとなる。
英語で食用肉を表す語は古フランス語からの借用語であり、本来、これらの古フランス
語は食用肉ではなく単なる動物を示す語であった。
たとえば英語で「子牛の肉」を表す veal は古フランス語では「1歳未満の子牛」で
あり、英語 beef「牛の肉」は古フランス語では「去勢した雄牛」であった。
このようにフランス語は英語に食事や料理に関する語彙をもたらした。
他にも dinner,supper,salmon,oyster,biscuit,toast など数え上げればきりがない。
このように借用語彙から文化の関係を探ることができ、英語はより進んだ文化を持つ
フランス語の恩恵をまともに受けているのである。
2.固有語と借用語の価値
2.1 日本語の数詞
日本語の数詞は二通りあって、次のような固有語系と漢語系になる。
固有語系 漢語系
1. hito(tu) iti
2. huta(tu) ni
3. mi(tu) san
4. yo(tu) si
5. itu(tu) go
6. mu(tu) roku
7. nana(tu) siti
8. ya(tu) hati
9. kokono(tu) kyu
10. to zyu
固有語系数詞の方はたとえば指を折ながら、あるいは物を指し示しながら助数詞なしで
数え上げる時など限られた状況でしか使われないのに反し、
漢語系数詞の方は上記の状況の他に助数詞を介して数多くの事物の数を示すことが
できる。
数を数え上げる場合には固有語系数詞を使うことができると述べたが、これにも限度が
あり、10まででそれ以上は zyuiti,zyuni と漢語系数詞が使われる。
人を数える場合、1人、2人までしか hitori,hutari と固有語系数詞を使うことが
できず、3人以上は漢語系数詞を使うことになる。
(もはや mitari,yotari などとは日常語においても文章語においても使われない。)
(朝鮮語についても北村は同様の考察をしているが、ここでは省略する)
当時の日本や朝鮮半島の文化よりも進んだ文化を背景とした中国語は日本語や朝鮮語に
深く浸透し、これらの言語の固有語を圧倒した。
そして漢語系数詞は助数詞を介してかなりの程度まで自由な生産性を有しているので
ある。
2.2 日本語における英語からの借用語
英語の日本語への影響は主に語彙面に限られるという点で、中国語が日本語に与えた
影響にはるかに及ばないが、英語が文化的優位言語として影響を及ぼしている。
英語からの借用語の方にある種の価値が加わり、たとえば「ご飯」と「ライス」、
「さじ」と「スプーン」、「机」と「デスク」などのように
日本語に比べ英語からの借用語の方がより高級なものであるかのような感じがする。
日本語の語彙に比べ英語からの借用語に高級感を感じるのは英語の背景と英米文化に
対して我々がある種の劣等感を有しているあらわれなのである。
ある言語が他の言語から取り入れた借用語を見れば、その言語の担い手が借りてきた
言語の背景となる文化をどのように認識してきたかを如実に物語ることができる。
宮本の感想を述べると、この研究は具体的であり、この論文集の中では最もよく理解
できた内容であった。
日本語の数詞が複雑であることは、外国人の日本語学習を困難なものにしている。
ひとり、ふたり、と言うが、さんにん、よにんと数が多くなると漢語系の数詞になると
説明されると、なるほどと思う。
さすがに理論的で明解である。
1人、2人を固有語系でなく漢語系でいちにん、ににんとは普通いわないが、一人前
(いちにんまえ)とか二人三脚(ににんさんきゃく)などと数詞よりも複雑な概念を
表す熟語の場合は、漢語系がやはり優先される。
3人以上を数えるときは漢語系しか使用しないはずであるが、4人だけは例外で、
漢語系であらわさず固有語系であらわす。
すなわち、「しにん」ではなく「よにん」、これは「しにん」は死人に通じるから避け
たのかも知れない。
明治からの英語などの外来語の氾濫は、確かに英語からの借用語に高級感を感じ、
英語の背景と英米文化に対して我々がある種の劣等感を有していることでもある。
しかし、無理に日本語に訳したり、対応づけたりするよりも、まずそのまま外来語を
取り入れるという積極的な対応が日本人の特性だと思われる。
たとえば、野球のアウト、セーフ、ストライク、ボールを無理に日本語に置き換える
必要はない。
コンピュータ用語では、中国人は軟磁盤というところを日本人はフロッピーディスク
という。
ラムとはカセットテープのように、記憶を書き直したり、保存したデータを読み出す
ことのできる補助記憶装置であるが、中国人は「随機存取存儲機」といい、
レーザディスクのように、読み出しはできても、書き直すことのできない記憶装置ロム
を「只読存儲機」といっている。
中国語では、意味をそのまま表しているのでわかりやすいともいえるが、新しい概念
ほど説明が長くなり、的確な表現が困難になっている。
日本人が、外来語をそのままフロッピーディスク、ラム、ロムと受け入れたため、
すぐ本質にせまり、すみやかに技術移転に対応できたのではないだろうか。
「ご飯」のことを「ライス」といったり、「さじ」のことを「スプーン」といったり
する必要はないが、「フォーク」のことを明治の旅行者のように「小くまで」などと
無理にいうべきではない。
カード、カルタ、カルテと本来の意味は同じであったのに、日本語に取り入れたときの
背景文化の影響により別な言葉として使い分けをしているのは、これも日本人の智恵
ではないだろうか。
化粧品の宣伝などにみられるように、必要のない外来語を多用し、日本語を混乱させる
のは、我々の劣等感ゆえのなせるわざかもしれないが、詩人のようにイメージを膨らま
せる、日本人のファジー好きの特性かもしれない。
コバルトブルーの空とも言ったり、紺碧の空とも言ったり、その場その場での語感を
大事にするのは、もはや劣等感というよりは、日本人の表現力の深さではなかろうか。
逆に日本語から欧米の言葉に取り入れられた言葉もある。
外国人はゼン、トーフ、スシ、ジュードー、カラテなどはその言葉にそなわる価値を
認めて受け入れたであろうが、
ハラキリ、ゲイシャ、フジヤマ、ネマワシ、ヤクザなどに必ずしも日本文化の優位性を
認めて移入したわけではない。
すなわち、劣等感のうらがえしである高級感を言葉に付加するために、外来語を受け入
れる場合だけではなく、興味から受け入れる場合もあるのではないだろうか。
その例として宮本は日本語の中の外来語として、チョンガー、エイズ、サド、マゾなど
あげたいが、これについては主観の相違があるかもしれない。
北村一親先生は人文社会科学部の先生。
これも昔のパソコン通信の記事から転載。