アラビアのロレンス
  Thomas Edward Lawrence  1883−1935

イギリスの探検家・考古学者・軍人。
オックスフォード大学で考古学を学ぶ
1910‐14年大英博物館の中東遺跡発掘調査に参加。
この間にアラビア語を学んだ。

第1次世界大戦勃発後、陸軍情報将校としてカイロに派遣され、
ドイツ側に参戦したトルコの後方かく乱を企て、
トルコ支配下にあったアラブ民族の反乱を指導し、その独立運動に協力した。

19年パリ講和会議に出席したが、アラブに対し戦後の独立承認を約束しながら、
これを果たさなかったイギリス政府に失望した。

21年、チャーチル植民相の下にアラブ関係顧問となり、ファイサルを国王とする
イラク王国の成立に努力した
。
その後、変名で戦車隊、空軍に一兵士として勤務、35年除隊のち交通事故で死亡。

主著にアラブ独立運動の記録「知恵の七柱」(1926)がある。

彼は1924にケンプリッジの博物館長から東京大学英語教師の職を紹介されたが、断った。
もし、実現していれば、東大で日本の学生を教えたろう。

彼の父は貴族であったが、子どもの家庭教師と恋に落ち、妻子を捨てて家出した。
ロレンスはそうした駆け落ち二人の間に生まれた私生児だった。
彼は身長166センチしかない背の低さと、この私生児の身の上がコンプレックスになった。
未婚の母から生まれたから、弁護士や医師にはなれなかった。

当時、アラビア半島からパレスチナにかけては、オスマントルコに支配されていた。
アラビア半島では、アラブの反乱が始まっていた。

中東進出の機会をうかがっていた英国にとっては、またとないチャンスだった。
英国はフセイン・マクマホン協定を結び、アラブ独立の支援をフセインに約束した。

反乱軍と手を組んだロレンスは、フセイン三男のファイサルに会い意気投合した。
ファイサルの軍事顧問となり、ファイサル軍のほかにベドウィン遊牧民も加え、
砂漠のトルコ軍陣地を突破しながら、目的地ダマスカスを目指す。
彼の作戦の巧妙さを示すものとして、ダマスカス直進を突然それて、
紅海のアカバ湾のトルコ軍要塞の背後から攻め、トルコ軍を倒す。

彼がアラブ反乱軍と力を合わせ懸命に戦っているとき、英国はサイクス・ピコ協定
を結んで、英仏露で戦後のトルコ領の中東分割を決めていた。

彼は政府に、約束通りアラブの独立を認めるよう訴えた。
しかし、訴えは通らず、パリ講和会議で、シリアはフランスの、イラクはイギリスの
委任統治領になった。ロレンスはファイサルにうそをついたことになった。

チャーチルに見込まれ、ロレンスは、植民地省中東局の政治顧問になり、
1921カイロ会議で、ファイサルがイラクの王、兄アブドッラーがヨルダンの王
についた。いちおう約束が果たされ、彼は顧問を辞任した。

イギリスは、1917バルフォア宣言で、パレスティナのユダヤ人国家建設の支持を
約束した。
1916フセイン・マクマホン協定やサイクス・ピコ協定で、パレスティナにアラブの
発言権を認めていながら、他方ではユダヤ人の資金をあてにした英国の二枚舌外交
といわれる。まことに外交には信義は少ない。