楠木繁夫(1904-1956) 高知出身。東京音楽学校を学生争議で放校処分に。昭和5年に歌手デビューするが、本名の黒田進、秋田登などの芸名でマイナーレーベルを転々とした。9年にテイチク専属となってからは、作曲家古賀政男のバックでヒットを連発する。芸名の楠木繁夫はテイチク社長が楠木正成ファンだったため。後年、歌手の三原純子と結婚。10年にヒットした「白い椿の歌」の作曲者は、当初は清水保雄とされていたが、実際は清水の師匠にあたる古賀政男の手によるもので、現在のクレジットは古賀作曲にあらためられている。こうした経緯から、ビクターでの小畑実「勘太郎月夜唄」や竹山逸郎「誰か夢なき」などの清水の曲は、実は古賀の作曲によるものであるとの風評は絶えないが、古賀の清水への傍若無人な振る舞いなども差し引いて考える必要もある。他には「緑の地平線」、島田磬也が村瀬まゆみの名で作詞した11年の「女の階級」、古賀のテイチク退社の壮行歌であった13年の「人生劇場」などが代表曲。戦中の19年には「轟沈」がヒット。戦後はヒットにめぐまれなかった。ヒロポンで喉を痛め、夫婦とも酒好きで出費もかさみ、演奏旅行の際もパチンコ屋などで後ろから知人に声をかけられても気づかないという思いつめる性格でもあった。30年11月には札幌の電電公社の慰安演奏で軽い脳溢血となり3ヶ月の療養を余儀なくされたが、その後もペンを持つ事もままならず、テイチクから薦められた作曲家への転向もままならず、将来を悲観、京都で当たった宝くじで新築したばかりの新宿区西大久保3丁目の自宅の物置小屋で31年12/14午後3時頃に首吊り自殺。夕方になって同居している義弟の作曲家、木村公正(新聞によっては午後9時に甥で会社員の近藤某27歳としている)が、楠木が背広姿で靴をはいたまま自殺しているのを発見した。遺書は特になかった。当日は午後1時ごろに女中を映画見物に出していて、義弟の作曲家の木村が家を出た時間などから楠木の自殺の時間が推察されたもの。紐は12/13に近所の荒物屋で買い求めていた。妻の三原純子は岐阜の高山市の日赤病院で療養中だったが、ラジオニュースで夫の悲報を聞き絶句したという。当時売れっ子の歌手を含め、この自殺は芸能界に「自分もいつかは」と深刻な影を落とした。高山の法華寺には楠木と三原純子の比翼塚がある。後に老齢を迎えた古賀はこの比翼塚の前で号泣したという。 松平晃(1911-1961) 佐賀の旧家の出身だが実家が破産。武蔵野音楽学校を経て東京音楽学校在学中、家計の苦しさから藤山一郎の紹介で大川静夫の名前でニットーからアルバイトでレコーディングするが、昭和7年の「忘られぬ花」のヒットで学校に知られ退学。この間、池上利夫をはじめ多くの芸名を使用した。8年、正式にレコードデビュー。ドイツのハーゲンベックサーカス団が来日しての芝浦公演に伴う、PRレコードのB面であった「サーカスの唄」が大ヒット。曲馬団さながらの哀調に満ちたメロディは、郷里の蛭子神社の曲馬団をイメージして作曲したという古賀政男の失われた故郷への愛惜の念でもあった。他にも作家の星新一が愛唱した9年の「急げ幌馬車」、10年に豆千代と共演した「夕日は落ちて」、夫人の伏見信子と共演した11年の「花言葉の唄」や同年の「人妻椿」など次々にヒットを飛ばす傍らで、「何日君再来」を日本に紹介するなど歌謡界に多大な功績を残した。戦後の25年にブラジルへ公演旅行に渡るが、現地で原因不明の血液の病気になり5回も手術、声質が落ちた上、興行主の不手際から帰国費用がなくなり、現地の日本人のカンパで日本へ戻るまで1年半の滞在となった。その間、日本のレコード会社との契約が切れてしまいフリーという不利な立場になった上、民放ラジオの台頭に完全に乗り遅れて過去の人というイメージになってしまった。さらにはその後も復活のチャンスであったテレビ東京などが火をつけた懐メロブーム以前に急死したため、他の懐メロ歌手に比べて知名度が不当に低い。晩年は東中野で歌謡学院を主宰し明石光司などのレコード歌手を送り出した。女優の森光子は旅巡業時代の弟子筋にあたる。36年3/8午後10時半、東京の昭和医大病院で心筋梗塞で死去。本名は福田恒治。住まいは目黒区碑文谷1丁目だった。 http://www.geocities.jp/showahistory/index.html