古関裕而 福島市の呉服屋に生まれる。 小学校に通ううちから作曲の才能を認められる。 商業学校では弁論大会のためにハーモニカ合奏バンドが作られ 編曲するようになる。 妹背楽譜を買ってきて自分で勉強したり 山田耕筰の「作曲法」を買ってきて作曲や編曲の勉強をした。 伯父の銀行に勤務する傍らも音楽から離れなかった。 伯父の家の近くのお寺の住職は万葉集が好きで その万葉集の話を聞いたり、住職の好きな催馬楽(さいばら) にも作曲して喜ばれた。 いっぽう作曲した曲を尊敬する山田耕筰に送り 激励の手紙をもらった。 彼は運の良い男だった。 仙台放送局ができ開局記念番組の一つに 福島ハーモニカ・ソサイエティ−が出演した。 当然古関の編曲した曲だった。 その練習の時、おさななじみの野村俊夫が現れた。 地元民友新聞社の記者だった。 二人で「福島行進曲」を作った。 「福島行進曲」を作った翌年昭和5年に 結婚したばかりの古関のもとに 日本コロンビアから専属作曲家になってくれと知らせがある。 山田耕筰がコロンビアの顧問で、古関を推薦してくれたから。 露営の歌 勝ってくるぞと勇ましく 誓って故郷を出たからは ..... この歌は妻の兄を訪ねて満州旅行をしたとき 旅順の二百三高地や東鶏冠山の砲塁の跡を見た 印象が反映されている。 帰国してすぐ会社から呼び出され、門司から東京までの 特急の車両の中で、新聞に出ていた募集「進軍の歌」第二席に 曲をつけたところ、会社でこの歌の作曲をするように言われた。 すでに作ったと聞いて会社は大喜び。 若鷲の歌 若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨 .... 海軍航空隊の予科練習生の映画を東宝が制作することになった。 西条八十と古関とディレクター数名が、土浦航空隊に一日入団した。 いろいろ作曲するが、どうもピッタリした曲ができない。関係者から催促され いちおう作ったのを見せると、担当ディレクターからまあよかろうと言われ それではと常磐線に乗って航空隊へ行って聞かせることにした。 列車が利根川を渡り茨城県に入った頃に、短音のメロディーが浮かぶ。 これだこれだと五線紙にメロディーを書いて歌手の波平氏に渡す。 航空隊では、せっかく二曲作ってくれたのだから、生徒に決めさせよう ということになって、生徒が挙手した結果、 わずか十数分で作った曲のほうが採用された。 白鳥の歌 白鳥は悲しからずや空の青 海の青にも染まずただよう ..... 昭和22年のラジオドラマ「音楽五人男」の主題歌に 若山牧水の歌があてられたので、それに作曲した。 昔から若山牧水の短歌が好きだったから、何の苦労もなく 作曲できた。十代の時にお寺の住職と和歌に曲をつけて 楽しんだ経験が役に立った。 菊田一夫とのコンビ とんがり帽子、さくらんぼ大将、君の名は 彼の人生はまさに楽しんだ一生ではなかったか。 運の良い人だった。 参考にした本 古関裕而 日本図書センター(1997)