アイルランドものがたり
ちらっとアイルランドの歴史を勉強してみよう。
合併されたアイルランド
1801年から1921年まで,アイルランドはイギリス政府に統治されていた。
この間、プロテスタントの多いアルスター地方では、ベルファストを中心に産業革命が
進行し、リネン工業(木綿工業はイギリスと競合するため政策的に発展を妨げられた)、
造船業などを中心に産業の近代化が進み、地主小作関係も安定していた。
しかし、現在共和国を構成する地域では産業革命もほとんどおこらず、
イギリス系不在地主制の下で貧しい農業経済が支配的であった。
19世紀前半には、ダニエル・オーコンネルの指導の下に立憲的なカトリック解放運動
が展開され、カトリック解放法(1829)の成立をかちとった。
これはさらに合併撤回運動へと発展した。
1845年から49年にかけてのジャガイモ飢饉は数十万人の死者を出し、
大量の移民が北アメリカやオーストラリアへ渡った。
第1次大戦中の1916年に、武力による独立を求めるイースター蜂起がおきた。
しかし、蜂起は敗北に終わり、指導者たち15人はイギリス軍に銃殺された。
この蜂起によりアイルランド人の愛国心と反英感情はたかまり、ついに
19年ダブリンで第1回アイルランド国民議会を開催、独立を宣言するにいたった。
宣言を認めぬイギリスとの間に独立戦争が勃発するが、イギリス・アイルランド条約に
より現実的解決がはかられ、22年イギリス帝国内の自治領としてアイルランド自由国
が成立した。
この間に、北アイルランドは南から分離し、独自の議会を持つ一地方として
連合王国にとどまった(アイルランド統治法,1920)。
こうしてアイルランド自由国内には、北アイルランドの分離に対する不満が大きく残り、
北アイルランドではアイルランド自由国から切り離されたことに対するカトリックの不満と、
分離を永続させようとするユニオニスト(プロテスタント)の強引なカトリック差別政治
とが続いた。
アイルランド共和国
自由国政府は発足当初から経済発展に力を注いだ。
土地購入代金のイギリスへの返済を拒否して対英経済戦争(1932‐38)をおこし、
その代金を国内政策に振り向けるなど、経済の立直しにあたった。
この間37年には憲法を制定して全島を国土とする〈主権をもつ独立民主国家〉と宣言し、
大統領を元首とし、国名をアイルランド語でエール(英語でアイルランド)と定めた。
第2次大戦に際しては中立を堅持し、戦争終結時にチャーチルが戦勝演説で
アイルランドを非難する場面もあった。
49年アイルランドは独立の共和国と宣言し、イギリス連邦からも離脱した。
55年には国連に加盟、73年には EC に加盟、92年には国民投票で
マーストリヒト条約に賛成した。
65年には、北アイルランド首相と共和国首相がはじめて会談し、
共同の経済開発などを協議した。しかし、68年の北アイルランドにおける
公民権デモを発端とする紛争再発は、両者の協力関係を再び困難にしてしまった。
北アイルランド問題について、イギリス、北アイルランドとの三者会談で
現実的解決策を協議するなど、共和国政府は落ち着いた対応をしている。
アイルランドの歴史は複雑だ。