96PCカンファレンス特別講演
最近、ネットワークの利用が進むにつれ著作権が話題になっている。
今日の私のスライドの1枚目にも、無断複製行為を禁ずると、わざわざ
書かせていただいている。
テープレコーダー、ビデオカメラの使用は遠慮してください。

たとえば今日ここで自分が発言している中味をビデオテープなどに
とった場合、それが全体として伝えられれば、話の流れの中で
話者がどういう意図で発言しているか伝わるかもしれないが、部分的に
再生することによって発言の趣旨がゆがめられるということを恐れざるを得ない。
そのようなことも含めて、すべての無断複製行為を禁ずると書かせて
いただいている。

私の専門分野の生成変形文法で若干おもしろい例を紹介する。
これは1950年代、60年代からすでに始まっていたことだが、どの分野
でもジャーナルなどに原稿が印刷されて載るよりも以前に、原稿の段階で
仲間うちに流布することはあると思うが、生成変形文法の場合これが
非常に極端になっている。たとえば日本ならその時点その時点でアメリカの
主要な大学に留学している大学院生たちが一生懸命に博士論文や未発表の
論文を送ってくる。

日本のいくつかの大学で、そういった学生を送り出しているところでは、
そういった学生を送り出しているところでは、それを組織的にコピーして
流すというような傾向がある。
これは underground grapevine(秘密の人脈網)というが、この情報の
流れからはずれてしまうと、公開された雑誌の論文を見るまでは今の研究動向
がどうなっているかわからない。研究上の話題というのは雑誌に載った段階
ではすでに終わっている側面がかなりあるので、その情報の流れの中に
乗っているかどうかが、研究者として第一線の話題についていけるかどうかの
境目になるということがあった。

これは電子的ネットワークが生まれる以前から続いていた。ガリ版刷りの
ようなものから始まり、次には青焼きからフォトコピーという形で続き、
ここ10年くらいの傾向として電子ネットワーク上に移行している。
FTP、ウェブなどで研究論文の草稿がどこにあるかを知って、FTPで
持ってくるという体制がとれるかどうかで、第一線の研究者たちが今何を
考えているかの情報に触れるか触れないかが分かれてしまうということになる。

ネットワークにアクセスがない人たちは、相変わらず印刷された、あるいは
公刊された本や雑誌に載った論文という形でしか情報を得ることができない
わけである。それに対して、ネットワークにアクセスできれば、それ以前の
まだ議論が熱い段階の情報に触れることができる。こういったことは、
どの分野でもあることだと思うが、学部レベルではともかく、大学院レベル
の教育を場合、そうした環境を学生に整えてやるためには何をしたらいいかと、
我々大学の教員は問われているのではないかと思う。

言語学、あるいは認知科学の観点からコミュニケーションということを考える
と、今こうして私がここで話している、あるいは教室で学生に講義をしたり、
さまざまなやりとりをするということも含めて、広く、ある種のコミュニケー
ションだと思うが、人と人が直接面と向かって話をする場合には話し声があり、
その上にさまざまなイントネーションなどの supersegmental(超分節的)情報
があり、身振り手振りがあり、顔の表情があるといったようなコミュニケ
ーションが必要なわけである。

今マルチメディアというのが話題になっているが、つきつめて考えれば
メディアの存在を意識しないで済むのがマルチメディアだとも考えられる。
そこにテクノロジーの作り上げた情報伝達の経路があるけれど、人と人が
直接会って話をしているのと同じ、あるいはほぼ同じような環境が作られる
という側面もあるのではないかと思う。今こうしてOHPやスライドを利用
して見せているが、書いてあることはたいしたことではない。しかし、
こうやってキーボードを画面上に表示することによって、話す内容が若干
あちこちにふらふらしても、今何について論じているのか話し手と聞き手
が意識を共有する助けになる。

こうした視覚からの支援を私は visual grounding と呼んでいるが、grounding
というのは認知科学や自然言語処理の立場から対話の研究をする上で最近話題
になっている用語である。議論する、あるいは会話する上でお互いの共通理解
がなければコミュニケーションは成立しない。言葉と言葉で話をしている
だけでは、たとえば木と言ったときに何をイメージするか、車と言ったときに
何をイメージするか、ネットワークと言ったときに何をイメージするか、
人それぞれ違う。そこでコミュニケーションのずれが大きくなっていく可能性
があるわけだが、特に典型的なのは、教室で先生が一方的に言葉だけを連ねて
しゃべっていると、学生が考えていることと先生が考えていることとが
どんどんずれていく危険性があるわけである。そこにオーディオビジュアル
などの機器を導入し、写真を見せ、可能であれば実物を持ってくることによって
ずれを最小限にとどめる努力を考えないといけない。そういったことも含めて
マルチメディアの利用が、教育の現代化という上である種の必要性というか、
必然性のあるものになっているのではないかと思う。

インターネットのIDを取るということは、場合によっては外からわけの
分からない電子メールが学生のところに直接届く可能性があるということだ。
メールIDを持つということは、電話をアパートの自宅にひいたとき
わけの分からないセールスや勧誘の電話がくるかもしれない。あるいは
東京でひとり住まいをすれば、新聞の勧誘から始まってキャッチセールに
ひっかかるおそれがある、渋谷の街頭を歩いていればよく分からない
セールスにひっかかるおそれがあるというのと同じような事態が教室で
起こり始めているということである。こうしたメールを防ぐ対策をとるべきか
あるいは来たメールをどうしたらいいかという処世訓を学生に教えるべきか、
それとも「いろいろなものが来るんだよ」と言ってつきはなすべきなのか
よくわからないところである。

それから、ネットワークをひくことによって過剰なコミュニケーションが
起きたり、コミュニケーションが増えているかと思うとトラフィックが増えて
いめだけでコミュニケーションが成立しないというような事態が生じて
います。

コミュニケーション過剰ということであるが、私がメディアネットワーク
センター、あるいはその前の情報科学研究教育センターという組織の
教務主任になる前は、大体毎日夕方6時から夜中の2時ぐらいまで研究室
にこもって論文を書いたり、仕事をしたりする中で、日々2、30通のメール
が来ていた。「こんにちは」「じゃあね」という程度の軽いメールが大部分で
たまに仕事の都合で重要なお願いごとのメールを書くこともあり、難しい
メールは日に2、3本という状況だった。それぐらいのメールであれば
日常的にこなして、仕事が効率的に進むであろうと思う。ところが
情報科学研究教育センターという組織の教務主任になったとたんに、システム
の使い方に関する相談のメールも送り込まれ、システムが止まったときの
アナウンスのメールも送り込まれ、システムの調子が狂ってコンピュータ自体
がおかしくなったときにコンピュータがはきだすメッセージも全部流れ
こむというような状況になって、1日に200から300通(大部分は
ゴミなんですけれど)流れ込むという状態になった。これではメールを
一切使えないのと同じ状態になってしまう。メーリングリストというものが
世の中にあるわけだが、うっかりすると対応できなくなるようなもので
ある。教員の立場で1日の研究時間のうちどれくらいメールの処理に割ける
のかも含めて、コミュニケーションが過剰にならないためにはどうしたら
よいかも大きな課題である。

また、コミュニケーションの不成立についてであるが、ネットワークニュース
を見た方にはいうまでもないと思うが、ネットワーク上での議論はしばしば
言葉のすれ違いから過剰な、議論にすらならないやりとりになりがちである。
日常生活、あるいは教授会などの会議の場でもそれに近いことがおこりかねない
わけだが、顔と顔をあわせていると、ある程度以上人間関係を破壊すると修復
できない面があるので、抑えられる部分があるのではないかと思う。
ネットワーク上では、お互いに見ず知らずで人間関係がないから、どこまで
行ってもいいやと思うのか、それとも言葉だけを使っているので過激になって
いくのか、よくわからないが、grounding がないというのが非常に大きな問題
ではないかと思う。

学生たちにホームページを作らせようという動きがあちこちにあるのでは
ないかと思う。ホームページを持たないと就職ができないというような、
極端な意見が出てくると、ネットワークを運用管理しているところは
そうした要請に応えざるをえなくなってくるが、今までの情報処理入門教育
の中では倫理とかマナーということはなかなか、意識はされても手がまわらない
という側面があったのではないかと思う。

著作権がらみの話で言うと、法律の先生は必ずしもコンピュータの利用について
詳しくないと、自分で思っていらっしゃる。実は詳しかったりするのだが、
自分は詳しくないと思っていて、その話題について、自分のゼミの学生は
ともかく、広く全学的に情報を提供しようということになると必ずしも
動きやすくはないように思う。逆にコンピュータの先生は法律について
さほど詳しくないというふりをしたがるので、情報処理の入門教育のところで
著作権という話をしようとすると、なかなか手をあげて担当してくださる
先生がおいでにならない。

従来であれば、たとえば教室においてあるパソコンから勝手にソフトウェアを
コピーして自宅で使ったらいけないよというレベルの話ですんだかも
しれないが、WWWホームページとなると、どこかよそでみつけたものを
自分のホームページにあげる、あるいは雑誌の付録についていた絵や写真が
きれいだから自分のホームページにあげるということが非常に簡単にできて
しまう。できてしまって、「大丈夫?」と聞くと、「どうしていけないん
ですか。インターネットは著作権フリーなんじゃないですか?」という答が
返ってきてしまう。

最近はインターネットも商業利用がさかんになってきて著作権をうるさくいう
傾向が強くなってきたので、今までとは違うかもしれないが、非常に難しい
問題になっている。勝手にコピーして自分で使っている分には外から見えない
が、ウェブの場合張り付けたものが全部外から見えてしまうので、問題が
すっかり顕在化する。これはひとつの例だが、名誉毀損の問題とか個人情報の
取扱いとか、さまざまな難しい問題が生じる可能性があるわけである。これに
対してなかなか有効な対策がないという現状がある。

ということで、教育を現代化しようと思うとメディアの利用が必然である
ということを前提として、ただネットワークを教室に引き込んだとたんに
現実社会のさまざまな問題が教室に流れ込んできている。そこにどう対処
するか、少なくとも私はまだ十分有効な処方箋をもっていない。
          (原田康也、`96PCカンファレンス報告集)

原田康也先生は早稲田大学法学部の先生。
冒頭で「無断複製行為を禁ずる」と書いてあるが、この文章を引用する許可は 著者よりとってある。