中臣氏と藤原氏

日本に仏教が伝来した頃、日本には伝統的な神祇(じんぎ)信仰があった。

豪族の中で、仏教の受け入れを積極的に表明したのは蘇我氏だった。
これに対して物部氏と中臣氏は反対側だった。
物部氏は軍事を担い、中臣氏は神祇にかかわっていて、どちらも保守派みたい
なものだから、異国の信仰を拒絶する体質があったのだろう。

やがて、物部氏は蘇我氏に討たれて排仏派が後退し、中立を保っていた
天皇家も仏教を受け入れるほうに傾いた。

本来は排仏派だった中臣氏であったが、中臣鎌足が中大兄皇子を助けて
蘇我氏を倒してから、蘇我氏の代わりに仏教の保護者になっていった。

もともと中臣鎌足は神祇をきらい、息子定恵(じょうえ)を僧侶にして
百済に留学させたくらいである。
しかし、定恵はその才能をねたまれ帰国後毒殺されたという。
この頃、中臣氏の一族は積極的に寺を造営している。

天智天皇は危篤の中臣鎌足を訪れて、長年の功績により
鎌足一代に与えられた「藤原」の姓を子孫代々使うことを許す。

その後の記録を見ると、驚いたことに、中臣姓を用いるときは神祇の仕事に関わって
いて、藤原姓を名乗っているときは一般行政の仕事にたずさわっていた。
つまり二つの姓を使い分けていたのだ。

やがて、不比等が中心となり大宝律令が制定されたが(701年)、それに基づき
国家組織として太政官と神祇官を二大頂点とする官僚体制が構築された。
そして、太政官の中心に居座ったのが藤原氏であり、神祇官を占めたのが
仲間の中臣氏であった。不比等は一族を太政官と神祇官に振り分けたのであった。

これから神仏習合の道がはじまったと言えそうである。

天武天皇が亡くなった時、皇太子草壁皇子は25歳だった。
しかし即位しなかった。当時は30歳にならないと即位できなかったらしい。
そして、母親が天皇の代行となった。
ところが3年後に草壁皇子は亡くなってしまう(28歳)。
そこで、母は正式に持統天皇として即位する。
はじめから天皇にならなかったのは、いったん即位すると亡くなるまで在位し
生存中に譲位することができないという当時の原則があったらしい。

しかし、持統天皇といえども、いつまでも元気ではいられない。
ついに、持統天皇は孫の軽皇子を一刻も早く即位させようとする。
かくして、不比等の協力により、15歳の皇子へ生前譲位するという離れ業を行った。

持統天皇の思いはとげられたが、この超法規的譲位の慣習化は、年少即位とあわせて、
上皇の存在に道をつけ、あるいは摂政関白という実質的な政権ができるようになってしまった。
天皇という絶対権力が、権威と権力に分化してしまった。
のちに武家政権と朝廷という、両者が牽制し、補完しあう、日本的な政治の柔構造が生まれた。
(村井康彦:日本の文化、岩波ジュニア新書)