Faculty Development

Faculty Development 教育業績の評価 講演会に参加してきました。
・講師 名古屋大学高等教育研究センター教授
    名古屋大学総長補佐 池田輝政氏
・講演テーマ 授業改善の基本戦略
        =設計図なき授業改善に終止符を打つ=

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簡単な講演メモ

総長補佐の肩書きの割には、若いという印象で物腰の柔らかそうな先生でした。
その仕事は全学の先生とコミュニケーションをとることで、気長にしないと
だめだそうです。決して論理的に説得しようとしないこと。論理的に否定されるから。

講義のとき大事なことは、言葉と具体的なものを示すこと。
そりゃ、そのほうがわかりやすい。当然と思う。
学生の頭の中に伝えたいものは何か? それを考えながら講義する。

成長するティップス先生(ウェブ版と印刷版の授業秘訣集)
これはモデルがあり、米国1980年代の teaching Tipsを参考にして作った。
ゴーイングシラバス(授業に関するFD支援ツール)
可視化をはかった。 成長するシラバスといえる。

実際の授業に適用してみよう。初年次「基礎セミナー」
プレゼンテーションのスキルを身につけさせる。
例として「スターバックスはなぜ日本で成功したのか」というテーマについて
課題探求の方法を身につけ、その成果をプレゼンテーションしてもらうことを目標にする。
「教えること」と「身につけさせる」ことは別ものである。教師と学生の
両側の視点からが大切である。一方的に見るのでは、成果は上がらない。

出口としての学生の成果でもって評価されるべきである。
(工学部の私の場合、卒業生が大学教授や一級建築士や公務員として活躍している
のを見ると、それが教育成果として客観評価を受けているのだと思う)

学生はパワーポイントやエクセルの使い方をマスターしないといけない。
英語ができないと最先端の情報が得られないから、英語に慣れさせる。
こまめに成績評価をすべきである。しかし、効率的にしないと先生は疲れてしまう。

カリキュラム目標と授業設計の対応診断表 この基礎セミナーの場合
「知の探求プロセスを経験させ、専門のためのコモン・ベーシックを発展させる」
というねらいに対応しているか。学生も先生も評価反省する。
1.学習内容 academic content
  学生が自主的に取組むためのテーマとなっているか?
2.学習技能 academic skills
  多面的な知的トレーニングを与えるものになっているか?
3.学習経験 learning experiences
  共同作業の経験を与えるものになっているか?
これら全体のバランスを取るのはむずかしいという。
先生や学生の資質や性格で、どれかだけが成果のあがることがある。
詰め込みすぎても、学生が疲れるだけ。

私の感想
シラバスを書いても、実際の講義の場面ではよりよく訂正せよ。
講義を受けるときの注意は最初の時にせよというのは同感である。
講義中に弁当を食べる学生にはどうすべきかと聞かれ、私の場合、教室で
パンと飲み物で空腹を満たす学生は認めている旨を返事した。

現代の高校の先生は、その専門性に閉じこもる傾向がある。
実はこれは大学の先生にもあてはまる傾向なのだ。
それに対して、私の意見は、研究者の論文が分析的になるのは、査読制度の弊害と
思う。設計を勉強すれば統合する目が養われる。が統合性をそなえた設計は
業績評価がされにくい。それが問題。
現在の学問の進歩の奥の深さはあっても、境界領域というテーマもあるから
統合的なものの見方も必要であると思う。

大学の先生の中には、どうしてこんな学生を教えないといけないのかと思う先生が
かなりいるようであるが、そもそもそんな先生はすでにダメであるという。
池田先生の意見は、今の大学生はつきはなしてはいけないので、手取り足取りで
指導する姿勢が必要であるという意見だった。
そして、いつも手取り足取りでは学生が育たないから、
「つきはなしつつケアする」というのがよいと言っていた。
この話を聞いて、甘えの構造で有名な土居健郎教授の文章を思い出した。
生産技術研究所の原広司教授の講演「建築のゆとり」
住居のゆとりというのは、住居の内側と外側の間に境があるようでないというか、
両者の間にある種の透過性がある場合に成立する。
原教授はこのことを日本建築の和室やその他外国の例をあげて説明した。
ゆとりには、境があるようでないという点が味噌である。
境があるだけでも境が全然なくても「ゆとり」は生まれない。
たくさんの時間や空間やお金があっても、それだけでは
一見つまっているように見えて、もっとつめればそこにすき間が
あくという状態こそゆとりである。
だからまさに「忙中閑」である。忙だけでも、閑だけでも
ゆとりにはならない。忙中閑だからこそゆとりなのである。
これを要するに、ゆとりというのはある種の曖昧さを前提にしている
ということができる。私は前に「遊びと真面目の間に、あるいは
自由と制限の間に、ある絶妙のバランスを保っておられるのがゆとりである」
という文章を書いたが、これも同じような精神をあらわしている。

池田先生体験にも基づいていうから
先生の中に張り切ってやりすぎる先生がいると、他の先生は迷惑する
という本音の話もでてくる。
長続きするには無理をしてはいけないし、全体のバランスもあるから。

池田先生の場合、基礎セミナーは全部で18名の学生が受講していて
3人ずつの班で6班にわけて発表などさせたらしい。
発表は5分以内、画面も10枚以内など、制限をつけて発表させた。
発表者の人数が少くて理想的だ。岩手大学の場合そういう理想的な講義はできない
という質問があった。
池田先生は、50人くらいの講義がやりやすく、100人から150人くらいの
人数の講義はやりにくく、200人以上になるともう別の講義になるから
かえってやりやすいと言った。多くなると文化講演会みたいなものになるから
なのであろうか。

電子機材やインターネットを利用すると、コピーをする者が出てくる。
先生にとっての、コピー防止のノウハウが必要になってくる。
やはり私がしているように各個人から送られてくる提出資料はファイルに保管して
おいて、後でチェックすることも必要みたいだった。