危険な言語とみなされたエスペラント語


Urlich Lins著 栗栖継訳 岩波新書 946
危険な言語  1975

原書はエスペラント語で書かれている。
1887年 ワルシャワの青年医師ザメンホフが発表した。
それ以来、各国の独裁者や圧制者はエスペラント語を危険なものとみなし、
その言語を学んだり使ったり広めようとするエスペランチストたちを
妨害し、逮捕し、投獄した。

ザメンホフは、子どもの頃、ロシア人、ポーランド人、ドイツ人、ユダヤ人が
一緒に住んでいた中で育った。互いに憎みあう中で育った彼は、言葉の壁を
のりこえるため新しい国際語を作ろうと考えた。

彼がエスペラント語の草案を紹介する本の出版許可は、彼の父が出版の検閲官
だったので、父が他の同僚を説得して1887年におりた。
しかし、彼の父は失脚してから1888年にはワルシャワの検閲当局は
エスペラント語の出版を認めず、ペテルブルグの中央出版局に申請して
やっとニュルンベルクで印刷されたエスペラント語の本の輸入が認められた。

知識人や理想主義者たちの間で使われるようになったエスペラント語を
帝政ロシア当局は、疑い、その使用を妨害した。

1908年にUEA(世界エスペラント協会)ができ、UEAは国際連盟に対し
各国の子どもたちは母国語と国際的コミュニケーションのやさしい言語
であるエスペラント語を学ぶよう提案をした。
がフランスが激しく反対した。フランス語の地位が脅かされることを恐れたから。
1921年国際連盟第二回の総会に再び同じ提案がなされた。今度は日本を含む
四カ国の賛成を得ていた。フランスは強硬に拒絶した。
この運動の目指すところは、各国の言語関係を簡略化することよりも、子どもや大人の
思想を形成する民族文化の存在理由をなくするところにある。彼らのターゲットは
フランス精神である。フランス語はいつの時代でも文明世界の言語である。

人工語は表現力が不足している。
エスペラントは試験管の中で創られた生命力のない言語で、感情や情緒やニュアンスを
表現することはできない。

<民族語と国際語を学ぶべきであろう。>

国際連盟事務局次長の新渡戸稲造は、後の世の人から国際連盟が分別を欠いていた
とみなされるだろうと述べた。
「金持ちで教養のある人たちは文学作品や科学論文を言語で読むことができるが、
貧しくて身分の低い人たちはエスペラント語を互いの意見交換の道具としている」

第二次大戦前に東欧では、エスペラント語は労働運動家たちに使われるからという理由で禁止された。

ナチス
エスペラントは世界をラテン語の亜流化するたたかいの先兵である。
ドイツの栄光と幸福を願うものは、国際的ユダヤ人の創った反民族的反国家的なものに
まどわされてはいけない。エスペラントの背後には精神をぬきにした平等、
人類の一律化、精神的にすぐれたものの排撃と、脱民族化をねらう国際社会主義
あるいは共産主義が控えている。

1935年にGEA(ドイツエスペラント協会)は
GEAの会員はドイツ民族に属するものに限ることを明らかにした。
ユダヤ人は退会しなくてはならず、ザメンホフとその一族を協会から追放した。

魯迅のエスペラント語を支持する理由
世界の圧迫されている人々を団結させることができる。各国の文学の相互紹介に役立つ。

スターリン体制のエスペラント語の弾圧は資料が少ないため分析が困難である。
最初ソビエトはエスペラントにきわめて好意的だった。そのうちにエスペラント語を
国際語として考えるには時期尚早であると判断するようになった。レーニンは国際語を
知らなかった。レーニンにとって国際文化は、脱民族語を表現手段とする脱民族文化
ではなく、個々の民族文化のプロレタリア的、民主的要素を組み合わせたものだった。

スターリンの非ロシア諸民族のロシア化政策、ロシア人の愛国主義。
エスペラント運動の弾圧。
トルコ語、モンゴル語の文字のラテン語化中止、かわりにキリル文字化導入

中華人民共和国におけるエスペラント雑誌は宣伝誌のみとなった。

ユーゴのチトー大統領だけは、共産圏の国がコスモポリタニズムに厳しくのぞんでいて
大国は自分たちの言語が支配的であることを望んでいる。
その国のエスペランチストたちにも要求しているようだが、エスペラントには真に
世界的な性格があるのだ、そう述べている。チトーはモスクワに反旗をひるがえした。

エスペラント語を使って外国との接触をすることが統制できないから、
政治的理由で禁止した。エスペラントグループはコスモポリタン的性格とアメリカ
帝国主義のスパイ活動に利用されるおそれがあるから、すべての共産圏で禁止された。

今日おもてだってエスペラント語を危険な言語とみなし迫害する政府はないが
迫害される原因は依然として残っている。そのため各国の政府は自国の文化を守る
ために色々な政策をたてることにやぶさかでない。
たとえば、自国の国民が外国の国民と自由に交流し、自分たちの政府に対して批判的に
なることを恐れるため、国際文化交流を国家管理しようとしたり、一種の文化鎖国
政策を行い自国への情報の流入を制限しようとする動きはないとはいえない。
国をあげてエスペラント語の学習に力を入れるまでには遠い道のりがある。

この本を読んでの感想は、やがて岩手の偉人宮沢賢治にかえっていった。
賢治が岩手の土着のものこだわりながらも、世界に目を向けてエスペラント語を学んだ。
原体剣舞(はらたいけんばい)の伝統的な踊り。いまでも祭の時などで見ることができる。
「風の又三郎」の「どっどど どどうど」の歌  
永訣の朝の妹の岩手の方言「あめゆじゅとてちてけんじゃ」

おめでたい賢治は、母国語と国際語の共存を信じていたが
フランスをはじめとする大国の指導者は疑り深かった。
言語における帝国主義は人間的といえば人間的(自国言語の限りない発展を願う)。