デジタルストレス

パソコン、インターネットは現代人にストレスをもたらすこともある。

ある著者の体験より
ニフティサーブのパティオ(閉鎖系掲示板)での事件
そこは作家ばかり十数名集まっていた。書くことが仕事の人たちだから
なんとひと月に400字づめ原稿用紙2000枚くらいの書き込みが続く。
内容は趣味のことや、出版業界情報、世間のことなど多岐にわたるが、
なんといっても個性の強い人たちの集まりだったから、ときには大論争になる。
「まあまあ」と仲裁してくれる人もいたが、そのうちに大分裂を呼ぶ喧嘩になった。
もともとが筆のたつ人たちだから、言われたら何倍にもしてお返しをする。
そのうちに嫌気がさして脱会宣言する人が現れたり、分裂して別のパティオができたりした。

ところがおもしろいことには、文字でのやりとりは凄絶なのに、みんなで集まって
オフラインの飲み会をすると、何事もなかったかのように楽しく談笑するのだった。
これで平和が戻ったと思ったら、またもパティオの中で激しいバトルが繰り広げられる。
こういうことを、2度も3度も体験すると、この著者は疲れて、とうとうそのパティオに
参加しないで撤退してしまったという。精神の衛生のためには、そのほうが
良かったかもしれない。

こうしたネットのバトルでは「言った」「言わない」というやりとりは起きないはずである。
いちおうは、書いたものが相手のパソコンに残ってしまうから。
しかし、一旦文字での論争が起きると、これが議論の原因になってしまう。
相手は引用符付きでこちらの発言をそのまま返してくる。
そして、こちらも「そう書いたが(それは誤解で)そういう意味ではない」と弁解する
ことになるのだが、当然相手も「この文章はこうとしか受け取れないじゃないか」と
書いたり、更には「日本語の勉強をしたほうがいいのではないか」とボルテージを上げてくる。
そして、ささいなことにこだわり、相手が止めるまで互いに傷つけあう地獄となっていく。

相手の顔が見えないから、相手がどのようなニュアンスでそれを書いたか分かりにくい。
たとえば、相手が「そう?」と書いてきたとして、素っ気なく言っているのか、
皮肉で言っているのか、疑問を投げかけているのか、驚いているのか、反意語として言って
いるのか、前後関係で判断するしかない。しかも人間の気持ちは自分でも信じられないくらい
変わるものだ。昨日は機嫌良くても、本日は歯痛でイライラしているかもしれないのだ。
「そう?(よかったね)」「そう?(だからなんなのさ)」「そう?(嘘だね)」
「そう?(ちがうんじゃないの)」「そう?(へえ、知らなかった)」 
相手も心も揺れるが、こちらも人間なので気持ちの波がある。沈んでいるときは
急いで返事のメールを送ったりしない方がいい。一晩寝たら平常心で考えられるかもしれない。
人間同士のコミュニケーションは、言葉よりも、相手の顔の表情、身振り、声の調子など
いろんなもので成り立っている。面と向かっていれば、それらの情報を無意識に
全部受け入れて、総合判断しながら理解をよくしている。
文字だけのインターネットの世界では、その文字数も限られているから、ますます
誤解する恐れがある。ストレスが発生しやすい環境にあると言える。

郵便の手紙は、便箋もインクも必要だ。遠方に配達されるのに時間がかかる。
電子メールは、しみも消しゴムかすもない、クリーンな存在で、しかも早い。
あっというまに世界中に送ることができる。でも、いいことばかりではない。
電子メールはクリーンでスマートだが、誤解による喧嘩が起きたり、不自然な(誤解
の上に成り立つ)恋愛が生まれることもある。生身の人間同士のつき合いでは生じない
よけいなストレスが生じている。何か人間の心にとって大切な価値あるものを
切り捨てているのではないだろうか。手紙を書いてポストに出しに行くのは面倒だが、
受け取った人はクールな電子メールにはない温もりや何か人間性を感じるだろう。

デジタル処理で得られるもの(利点)
圧倒的作業効率と処理速度  機械ゆえの恩恵
距離の克服  世界中に瞬時に送ることができる
高度な編集・加工  デジタルデータの特性
ゴミ発生やエネルギー消費の軽減  紙を使わず運送のエネルギーもいらない

デジタル処理で失われるもの(欠点)
人間の主導権  機械がないと情報が得られない。ディスプレィ表示の制限など
微細なニュアンス 限られたデジタル量から漏れたデータは真実を現さない
人間にやさしいスピード 高速大量のデータ処理の中で、人間性を失い溜まるストレス
デジタルに支配される人間 デジタル情報処理しやすいものしか扱えなくなる人間

参考にした本    鐸木能光:デジタルストレス、地人書館