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三宅先生講演
―CSCLトロント学会報告と       講義での実践報告―

 中京大学の三宅なほみと申します。  今、どういうふうにコンピューターを使っておられるかとか、ご興味について 聞かせていただきました。同じ問いへのお返事が5年前、3年前、去年、今年という 感じで変わってきているという気がしております。  15年前にはインターネットを使って英語教育をしていたのはほんの数人だったかも 知れないのですが、今は何が出来るかを、いろいろな経験や方法から導き出す時代に なっているように思います。認知科学もその方法の一つです。アメリカでも同じ様 でした、去年の12月にありました CSCL(Computer Supported Collaboration Learning) という研究組織の第2回大会のお話を少ししたいと思います。 ◆CSCLについて  CSCLの前にはCSCW、Computcr Supported Cooperative Work という研究組織が ありました。コンピュータでいろいろなことが出来るという話と、人はどのように 共同で賢い働きをしているかという認知研究とが、お互いの関心が近いことで 結びつき2年に1回会を開いています。毎回、企画者の興味によってCooperativework の話が中心であったり、Computer Supportの方にウェートがあったりします。 その母体はACM(American Computational Machinery)という学会で、その中に CHI(Computer Human Interaction)という組織があり、CSCWはそこから正式な サポートを受けています。 1995‐6年頃から、CHIのtutorialなどでCSCLという 言葉が出てまいりました。一方ではこれからはコンピュータによる協調作業が盛んに なってくるでしょうが、そういう現場に上手に適応してくれる人の教育について 興味がもたれるようになってきました。もう一方で、教育という、自分達が発見し 作ってきたものを次の世代にどう伝えていくのか、次の人達がどう乗り越えて行って もらうのかという話の中でコンピュータのサポートを考えていく必要があるだろう という興味関心の高まりがあって、1995年にAppleなどのサポートを得て始まった のがCSCLです。  2年後の昨年、CSCL’97が開かれましたが、86年から94年にかけてCSCWの分野 で起きた変化を2年間でいっぺんに起こしているという感がありました。 1995年の 大会ではテクノロジーに頼って、しかもお金をかけてというものが多く、例えば発表の 仕方ひとつをとってみても、CSCL’95の発表の8割以上がPowerPoint系だったと 思いますが、去年は逆に8割くらいがOHPのスライドに戻っていました。 みんながいろいろなものを混ぜて使うようになって、OHPで説明しながら どこかだけビデオをかけるとか、Power Pointで簡単に説明しておきながら ネットに繋いで一部分を見せる、と言うような形の変化が起きていると言う感じが いたしました。それはCSCWの中で起きたものと非常によく似た変化だと思います。 テクノロジーがあるから何かをしなければならない、という状況から、 何か自分の方にしたい事がある、そのために何がどういう風に使えるのだろう、 なかったら何を作ったらいいのだろうという取り組み方に変わって来ていると思います。  大切なのは、何が大事なのかがわかってくるまでには時間がかかるということ、 ある程度時間をかけて初めて見えてくることがあるという気分が学会の中で共有 されている、という点だと思います。今日ネットを入れて子供に教材を与えたら、 明日には結果が出ると思ってもそれは無理です。変化が起きるには10年なら10年 という重みが必要だと思います。 10年前にいろいろ始めた人たちに教えられた 子どもたちが10年経ち、小学生が大学生に、高校生や短大生だった人たちが 会社に入って中堅となり、主婦になったりしている。そういう中で時間をかけて 初めて変化が見えてくる。そういうものを探して、派手でなくていい、 急に効果が上がることを考えなくていい、だけど逆にじっくり何がおもしろいのか ということを見極めて、時間をかけてつきあっていきたいと思っています。  ◆知のとらえかた  こういう考え方の裏に「人が賢い」ということはどういうのかという知のとらえかた の変化というのがあったと思います。頭の中に数学の公式のようなものを覚えていて、 それを必要とされるときには出してきて使えばいつでも同じ答えがでる、そういう 類のものでは多分ない。カスパロフがチェスの解き方を頭の中に莫大な知識として 持っていてもディープブルーに負けたように、人間は敵が誰であろうとも機械で あろうともいつでも同じように常勝できるというようなものではない。「場」という ものがあって、その場の捉え方というのに従って出来ることが変わってきます。 人間は場に即応する力というものを持っており、日常、大体のことは有能に こなしている。その中で場に合わせながらでも少しずつ賢くなってゆくわけです。 私も何年も教師をやっておりますが、何とか自分の専門を繰り返しながら、少しずつ 新しいことを試し、毎年入ってくる学生が様変わりしていくのに合わせてこちらも 成長しながら変わっていく。私が全部のことを知っていなければならないのでは なくて、「知」というものはいろいろな人、いろいろな経験とのすり合わせによって 少しずつ成長していくものです。そういう意味で知は分散していますし、 いろいろな人のものの見方が絡み合っていく中で変化していくものです。 今日一番いいと思われるのが明日も一番いいものであるという保証は多分ない。 そういう考え方が「知」の研究の中で普通の考え方だと思われるようになってきた わけです。これを受けて「知」を伝達する、新しい「知」を作っていくという 活動の中心にある教えとか学びをどう考えたらいいかというめも変わってきていると 思います。  ◆構成主義(constructivism)について  そういう考えの中でも比較的単純明快なのが構成主義(constructivism)と言われる 考え方で,子供や大人が自分の方から理論を作って世界はこういうものなんだという ことが分かっていって、自分なりに賢くなると自分の知識の確かめ方というのを 身につける、人間であれば正しい知識を「自分で構成していく」、だから構成を 助けるのが教育なのだ、という考え方があります。この考え方は、学ぶ主体が 生徒自身だということをはっきりさせた点でかなり進歩的ではありますけれども、 多分これでもある意味ではまだ単純なところがあって、その構成そのものの何が いいのか、どういう知識を身に付けたいという風に子供が思うのか、先生がどういう 知識を身に付けて欲しいと思うのかということの決定そのものに、私達がお互いに 生きて・働いている・お互いにかかわり合っている相互交渉の場の中での価値付けが あるだろうと思います。こういう立場を私は相互作用主義interactionarismと呼ぶのが いいのではないかと思っています。  ◆何を教育の中でやっていくのか、    根本的な意味での変化  だから、何かを教える、何かを学ぶという時に教える側が一番一生懸命教えられるし、 学ぶ側も一番一生懸命学べることというのは、大体それが生きていく上で妥当だと 思えること、簡単にいってしまえば、自分がこういうことをすることが「了解可能で あること」という風になります。これがお父さんの職業、communityの職業をこのまま 継ぐんだと言う話になっていたときには非常に明確でしたし、国が非常に貧しい時、 なんらかの理由で隣の国とどうしても戦かわなくてはならない時、何をしなくては いけないかということの妥当性が非常に単純にきまりますので、そういう中では子供が 何を身につければいいかということも簡単にわかってくる。しかし、今の社会は そういう意味では変化が大きく、価値が見えにくくなってきていますので、 「何を教えていいのかわからない」という問題が起きてきているだろうと思います。 今の社会の中では、「できる」ということは大事ですが、「できる」ということよりも 「わかる」ということの方が大事であり、「わかる」というよりは「変えられる」と いうことの方が大事だというようなことが言われます。けれど本当にそうなったか どうか調べるには「できるようになった」かどうかを調べるのが一番簡単で、 本当に分かっているかどうかはなかなか分かり難く、将来この人は変化していけるか どうかを調べるのはもっと難しい。実際にはどう評価したらいいか分からないのが 現状です。さらに「教え」についても一人の人が何かを「知っている」のではなくて、 「知」そのものが分散しているのが現状ですから、一人の人が一つのことを一つの 見方で分かればいいというのではなくて、たくさんのことをたくさんの人と一緒に たくさんの方法で分かっていくということが必要のではないかと考えられるように なってきています。こういう一から多への変化とか、「出来ればよかった」ものが 「変えられたほうがいい」というところにいくというのはこれまでの価値観の180度の 転換です。教育の中で何をやっていくのかということについての根本的な意味での 変化が要求されるようになってきているのが今の時代だという気がします。  学校という社会の中での一つの特殊な場だと考えますと、学校のなかで適応的に 上手に生きる人は学校適応力が非常に高いタイプの人だということになります。その 学校から出てきた人を雇って会社でうまく仕事をしていつてもらうためには会社の 一部を学校化するということが起こります。こういうスキルを身につけて欲しいから、 こういう資格を身につけてくれたらこれだけの給料をあげるというやり方ですね。 社会全体をこのように学校化していくというごとは、何を学んだらいいかということを、 生活や自分の生き方というものと切り離して、ある種の技術が「出来るということを 証明する」ことで一定のポイントをもらうという形で世の中を構成していくという やり方です。これがうまく行くのは目標がはっきりしている場合です。こういう やり方で新しい知や新しい価値観を生み出すのは困難です。  「知」が新しい「知」を生むためには、学校の中で学校適応的な学びだけを推進 していたのでは間に合わなくなります。学校と呼ばれていた一つの特殊な場と社会と 呼ばれている場を融合させないといけなくなってくる。そういう動きの中で、CIEC の夏のconkrenceで出てきたような分かち持たれた「知」という考え方が出てきて います。いろいろな人がいろいろなことを知っていて、学校的な知に強い人もいるし 社会的な知に強い人もいる。その中でひとりひとりがその人の価値観やその人の強みを 研ぎ澄ますことができるような形のコミュニティの形成を学校自体だけでなく社会が 全体として考えていかなければならないということになると思います。  ◆データの共有と深め合い  この話とテクノロジー的にはネットワークの話や情報処理技術の発達がうまく 適合してくるわけで、ネットワーク化していろいろな人といろいろな情報が簡単に やりとりできる、発信も容易になる、受け取るのも容易になる、ということが起きますと、 それを媒介にした協調的な作業がしやすくなります。学校と社会がお互いに持っている データを共有していく。データの共有なりデータの深め合いが起きやすくなる。もう 一方では情報処理の技術の発達の一つとして、記録を保持しておいて編集をしていくと いうこと自体がやりやすくなる。私たち自身が自分達のやっている事の記録を外の世界 に出して比較したり吟味したりしやすいということが起きて知のコミュニティの形成を 助けてくれることになります。  たとえば私達は今まで比較的テキストというものに頼って知識を外の世界に表して 共有しようとしてきたわけですけれども、それだけでない人の考え方の発信、「場」を こみにした知識の発信のし方なり共有のし方があるだろうと思います。  そのような考え方に立って私たちのところでは非常にスケールは小さいのです けれど、普通の教師が普通の学生相手に時間と労力は山ほどかけていくつかの試みを はじめています。今の大学の中で、こんな程度のことは出来るんだという手造りの システムの話なのですが、聞いていただきたいと思います。 益川さんの発表  益川、青木、ハ木の3人で卒業研究として協調学習支援システム ¨Reflective Collaboration Note”ReCONoteの開発と実際の利用観察を行ってきました。  ReCoNoteではネットワーク上で自分のノートや考えの元になった資料、 他人のノートなどを相互にリンクする機能を備えることによって相互参照の履歴を 活用することが出来るのが特徴です。この相互リンクを自分で作ることができる 「相互リンク機能」を利用することによって自分のノートから関連情報が見つけやすく なるというだけではなく、その相互リンクを共有することによって参考資料自身 からも、その資料自身がどのように使われているかということが分かります。 さらに他の人のノートを見ていく時にその考えの元になった資料を相互リンクで たどっていくと、他人の意見の根拠が見えやすくなり共同作業が進みやすくなると 考えました。 ReCoNoteはNeucapeNavigatorでの動作“を前提として、CGIを利用して 制作しました。 ReCoNote内は幾つかのメニューに分かれています。「個人のノート」、 「電子会議室」、「講義関連資料」、「グループのノート」、「個人提供資料」、「ReCoNote 情報」です。  使い方の説明をビデオでおこないます。(略)  資料を見るにしても資料を中心にみんなの作ったリンクをたどっていくことが できます。リンクの情報を利用して、グループ内である資料にどれだけリンクを張られ ているかの数を見ることで資料の重要さを推施したり、ある資料を探し出す時の 「あて」をつけていくことが出来ます。このように資料やノートを共有するだけでは なく、参照の履歴・考えたことをリンクという形で残すということによって、グループ で学習していく過程を支援していくことができます。このReCoNoteを実際に講義と 連動させて希望者に使ってもらダて、どのように使用されるかを3ヶ月向にわたって 観察じ評価を行いました。使用評価、対象クラスにはインターフェイス論という講義を 選びました。この講義を選んだのはグループ中心の作業が多く、ReCoNoteがより 活かされるであろうと考えたからです。もう一つの理由として、自分達自身が昨年度受講 した講義でしたので、講義自体の流れをある程度把握しており、さらに昨年度の講義で ネット上のニュースグループに投稿した内容を資料として活用できると考えたからです。  この講義の前半では、ヒユーマンインターフェースに関連する用語6つをピック アップして、6つのグループにわかれそれぞれ1用語ずつ調べてでもらい、その後、 そのグループの一人一人が別の人と新しいグループを作って、お互いに前のグループで 調べた用語について教え合いをするということを行いました。講義の後半では ヒューマンインターフェース研究に関わっている企業の方から、プロジェクトを いくつか提案していただき、その中から調べたい内容を小グループ毎に選んで調査や 分析を行いました。  以上のような中で講義と連動させて実際にReCoNoteソートを利用してもらいました。 受講者40名弱のうち、ReCoNoteに登録した人は28人にのぼり、その中でも アクセス数が多く、積極的に書き込みをしている常用利用者は10人前後でした。 ReCoNoteへの書き込みは全部で221件ありましたが、個人のノートヘの書き込みが 67%を占め、個人のノートを中心に利用されていたといえます。相互リンクが 作成された総数は91リンクとなりました。そのうち受講生が作成したリンク数は 37リンクで、作成した人数は12人と利用者の約半数がリンクを作成しました。 この相互リンクの結び付きを詳しく見てみると、自分のノートと他人のノートや 電子会議室へのリンクが殆どです。つまりリンクが張られた場合というのは、 利用が個人のノート中心であってもみんなで使うことを予測して書かれていた ということです。  最も使用頻度の高かった個人のノートに書き込まれたノートがどの程度他のものと 関連づけられていたのかを調べてみると、自分のノートヘの書き込み149件のうち 34件にリンクが張られており、相互リンクという事を考えると個人のノート全体の 25%は少なくとも何らかの形で共有できることになっていたことがわかります。 従ってReCoNoteでは、ノートを取るという作業とグループでの学習活動というのが うまく結びついていた可能性があると思います。相互リンク機能が利用されることに よって、書き込んだ自分のノートをどのように活用して、また、共同作業において どのような支援になったか、利用がどのように変わっていったかを、ReCoNote内の 相互リンクがどことどことで繋がったかを詳しく調べて、相互リンクの作成の変化を たどってみました。  ノートの共有、みんなで使うことを目的とした「共有」という観点から見てみると、 初めは自分のノートと関連する資料や自分の書き込んだ電子会議室の内容など自分中心 の内容だったものが、徐々にリンクを作成する場が他人のノートやグループでの内容が 書かれたノートに、さらには他の人が電子会議室に書き込んだ内容へとリンクが 広がっています。  このように徐々に自分中心の利用からグループでの共有、そしてReCoNote利用者 全体での利用を前提としたリンクが広がっていることがうかがえます。実際に、クラス の中でReCoNoteによって活発な共同作業が起きた例がいくつか確認されました。  このようにReCoNoteを利用することによって個人個人でめ利用は様々な使われ方が 観察されたのですが、ReCoNote上では共有という作業がうまく成り立っていました。 今回の講義連動での利用を観察して今後のシステムの改善になることも得られました。 ReCoNoteの利用は個人のノート中心での利用がほとんどでしたが、まだ書き始め のうちはみんなに公開したくないノートもあり、そういうノートもネットワーク上に 作りたいという意見もありました。現在のReCoNoteでは、個人のノートが原則として 公開になっているのですが、ノートの公開、非公開について検討していきたいと考えて います。また、ReCoNote内の情報がたくさん増えてきた時の、より有効的なリンク 情報の見せ方を考えていかなければいけません。今回の講義で蓄積された内容を今後の 講義に役立ててどう利用されるかを観察していきたいと思います。    ◇◇再び三宅先生◇◇  こういう類のことが、いろいろなところで起きているのではないかと思います。 どこかの大学がやったことであれば、そこから学んですぐ次にいければ便利なのですが、 今はまだやはり自分達の手でひとつずつ作っていて、その中ででてくる問題を共有して、 こんなことが出来るようになるかもという情報やデータを交換して、協調作業で コンピュ−タ自体をどう教育に使っていくかという事をみながそれぞれ考えて いかなくてはならない時代ではないかと思います。  例えばネットを使って何をやるのだろうということになったとき、企業の方達が 日頃こんなことを知りたいと思っていらっしゃる問題があるのだったら直接それを 教室に持ち込ませてもらってプロジェクトベーストといいますが、世の中でちゃんと 意味のある課題をどう解いていったらいいのかということを教室でも取り上げて やっていくという方法が考えられます。そういう形で学生同士もつながる、社会や 企業と学者なり学習の場もつながる、ということも大事ではないでしょうか。 こういう実践がアメリカでも随分はやりになってきていて、日本でもある程度 聞くようになってきています。やはりそこにも問題はあって、その先どうやって いったらいいのかが問題になり始めてきているという気がいたします。 学生が3年生であってもある程度社会に出して通用するレポートをまとめるという ためには、人が読んでわかる日本語が書けるというレベルの話から始まって、 大学教育が一応一定レベルの活動ができるような学生をサポートすることを考え なくてはいけない。いい教科書があってそれを何年も使い回していればすむという 時代ではないという以上、何が今大事なことか、そのために必要なコンテンツが どこにあるのかということを学生も教師も横並び一線で、お互いに刺激しあって 探っていく環境が必要になってくると思います。それは、言いかえればWeb自体を 一つの情報ソース、教育環境として育てていかなければいけないということで、 そういう形でのインターネットの教育利用ということをみんなで考えていく必要がある、 そういうところに時代は来ていると思います。いろいろなスケールで、これは おもしろそうだからと取り組めば、ブレイクスルーを遂げて新しいことができていく、 そういう時代ではないかという気がしています。 三宅先生質疑応答 司会……どうもありがとうございました。  自由にご質問・ご意見等を出していただき、三宅先生にお答えいただこうかと思います。 宮本……私は工学部におります。お話を聞いてなかなか進んでいると思いました。 参考になります。インターネットを使っての先生と学生、あるいは学生同士の コミユニケーションは、理解を交換しながら、より的確なものに近づいていく ということだと思うのです。私は構造力学を教えていますが、自分が分かったように 教えるだけでなく、学生の言葉でわかるように感想を聞きながら若い人の感覚で 捉え直し、それを来年使えるような改良バージョンにすればもっと分かるのではと 思います。帰ってから試みたいと思いました。  ひとつ否定的な話ですが、盗作というか、100人教えていたら3つぐらいの グループの答えが出てしまうことがあります。先生のところではそんなことは ないのでしょうか。 若林……去年のPCカンファレンスい、産能大学の妹尾堅一郎先生が慶應SFCでの, Webを活用した「社会調査法」の授業の発表をされました。妹尾先生と ティーチングアシスタント(TA)の人達が学生達にかなり刺激を与えながら Web上で社会調査の実践を進めて、そのプレゼンテーションをするという授業です。 その話をうかがって思ったのは、何らかの仕掛人、マーケティングで言う マーケッターが一生懸命刺激を加え統けるから、参加するユーザーは取り組みに 参加する気になる。とりあえず場だけ提供しても自発的には発展しない。 どのような場を形成できるか、ということとコラボレイティブをしようという気持ちが どう育っていくか、実際そのことが有意義に発達していくスキルみたいなもの、 との間に相互関係があると思うのです。互いに学び合う関係を育む中でどのように 仕掛人はイニシアティヴを発揮するのか、情報ネットワーク環境を生かしたそれの あり方についておたずねします。 板倉……三宅先生の立場というのは、教育を変えるということですか、 それともそうではないのですか。 三宅……やっていることの余波として教育が変わってしまうのではないかと思っては おりますけれども、変えること自体は私の研究の目的ではないです。 板倉‥‥‥・CIECの研究会で話を聞く人にとっては、現場の教育で泣いている、 あるいは目を回している、そこで、先生の話から何かを引き出して活かしたい、 そういうものがあると思います。  僕達CIECでは日本の教育を変えたい、ほんのわずかでもいい方向に力になろうと 思っているのです。例えば情報の共有化から始まっていろいろ成功するためのポイント を、うまくいったらどこがよくでうまくいったのか、また何がよかったのか、 そういうことが明確に分かるようになっていると伝わりやすいかと思うのですけれども。 松浦……「知識の分散あるいはデータを共有する、共有してコラボレーションを インターネット等を通じて行うことが、学習支援に有効である」というお話でした。 そういったことが教育に有効だということは、例えば実験で得たデータをもとに 研究室でディスカッションを行うと、我々自身も勉強になるし、学生も非常に成長する ということを経験しますので、良く理解できます。  そこで、ネットワークを使ったコラボレーションの生まれる必然性と言いますか、 現在このようにテクノロジーが発達し、使えるからこうなるのか、本来人間の社会と いうのはこういうものであって、人間が持っている本来のありようなのか、という ようなことについて教えていただきたいです。  それからもう一つ、おたずねします。 「公開しないことを前提にした個人のノートが最初にあって、それからリンクに 発展していった」という話がございました。実はCIEC会誌4号(5月末発行) で美馬のゆりさんが小学校の生徒とボランティアの科学者とのコラボレイションの 研究結果を書いておられますが、その中に、最初は公開を意識したノートには生徒は 何も書かなかったけれど、個人用のノートを用意したら、それにいろいろ書きはじめて、 それからいろいろなところに書きこんでいったという話です。美馬さんの論文では、 「アメリカではそういうことはなかったが、日本での自分達の研究では非常に重要で あった」ということです。国の違いかも知れないけれども、人間が何かを発信しよう と思うとあらかじめ自分で考える必要があるので、そういったことがどうしても必要な 気もしますが、あるいは日本の国民の特性として必要なのかといったあたりのことを おたずねします。 三宅……いい質問をたくさんありがとうございました。おもしろくて、どれか一つを 話し始めるとそれで後の30分が埋まりそうなので、整理をしていきます。  ネットワークは基本的には生徒と生徒、教師と生徒が意見交換が出来る場、そういう 面がすごく大きいと思いますが、面白いのは、私が教えている講義だと思っている ところに他の先生が「その話は私も3週間前の授業でしました」というのが入ってきたり、 既に単位を取ってしまった学生が見ていてコメントをしたり、卒業生がわざわざ 出てきて教師が理解していなかったところを教えてくれたりというようなことが 起きます。世の中の知の分散とその共有というのは多分こんなふうになっているの ですね。一人が「私、知っている人」で、その他にたくさんの「あなた知らない人」が いるコミュニティがあってその知っている一人から知識を渡すということでは ほとんどなくて、少しずつ知っている人たちの教え合いというものがある。 そういう意味ではみんなが少しずつ忙しくなるというのがネットワーク社会の困った点 ではあるだろうと思うのですけれど、ネットワークを導入するとそういう教え合いが 起きるというのは、教室というある種、不自然な場面が自然な場面になって、 自然な教え合いを許容する場面になるということなのではないかと思います。  盗作については、他の人のノートなり、二ュースの上のものを使って何かを作る、 それが一種の「編集能力」なんだと割り切ることにする必要があると思っています。 全く名前のところだけが違うというのは一発で分かってしまいますから電子的には かえって作りにくいです。 私のところではひとつのやり方として、レポートが 出たら「締め切りの前にWebに出してもいいよ」というようにしています。 いろいろな人から情報が来れば、それをつけ加えて書き直したものを出した方が 絶対点数がいいですから、そこまでやる気があったら先に出しても構わないと。 しかも、先に出した者にはボーナス点がいくとか。ネットワークはそういうことを 奨励してお互いが他の人から学んで編集能力を高めていく道具なのであって、 ひとりが何か本を写して手書きでやったらその努力に対してレポートの点を出しま しょうというトラディションみたいなものから私はさよならしたいと思っています。  仕掛けの問題、非常に面白い問題をありがとうございました。誰かが一生懸命 この分野で面白いことをやっていくと、私がこういうことを見つけたら面白かったと 他の人を引っ張っていける部分があるから、その分野で知の創造ということが 起きるのであって、そこで「この話はつまんない」というふうになったら、 見切りをつけることがあっていい。そういう意味での淘汰が学問の世界・研究の世界 にもあっていいと思っています。アメリカ的かも知れません。学生が集めてきて くれたデータがある。「先生、気になるんだけれど、まとまらない。これは何だろう」 と言ってきたときに、私のほうからは「これは面白い、大変だよこのデータは、 こんなふうになるんじゃないかしら」と。そういう位置にいられれば多分私の方が 引っ張っていける。そうでなかったら教師はつとまらない、と覚悟すべきじゃ ないでしょうか。あるいは「先生その実験だったらこの材料でやれば面白いんじゃないの」 と、別の目から見て広げてくれるようなことを低学年の学生が言ってくることも あり得ます。それがほんとにおもしろそうなら飛びつくべきですよね。 そうやって動いていく分野であるところが多分、一緒にものを考えていって 「面白いよね」とお互いに相手を刺激しあいながら、新しいものの見方なり 考え方なり知なりを創造していける分野なんだと思います。そこにみんな ネットワークでつながっていて、面白いところに自然に活気が出ていく。 大事なところに自然に人の努力、エネルギーが集まっていってものがよくなっていく。 そういうレベルにあるという辺りがこれからの生き残りに影響があるんじゃないかと 思います。  自分達がやってきた、こういうツールを使ってこの授業をやってみて、この年は こういう学生がいたからこうだったという、まとめようがないような 「ドロッとしたデータ」でもそういうもの自体も大事にしていかないといけないだろう と思いますね。むしろ金科玉条をやらないほうがいいだろうというふうには思っています。 ただ、私達が大事にしているキーワードとかそういうものがないわけではなくて、 頭の中で起きていることは出来るだけ外に出して互いに利用しようということで、 「外化」ということばをキーワードにはしています。  だから、あるノートを書くときにあの資料のことを考えながら書いているんだよな と思っているのだったら、思っているのだけではなくてリンクを張ってしまおう というシステムを作ったりするわけです。そうやって頭の中で起きていることを 外に出して記録を取っておくとあとからそこにいって自分が何を考えていたのか、 自分がどういうふうに考えてきたのかというのを見直すことが出来る。 外化をした ものの記録を履歴と呼んでいます。その履歴を見直して自分のやり方を作り替えて みよう、テクノロジーでそういう作り替えが支援できるのであったらそれなりに 支援する方法を考えてみよう、というようなことをやっています。  協調が必然的なものかというご質問については、これは必然的なものの考え方 なのだと思います。一生懸命物事を考える、その人が考えられる限りで正解と いうものが出てくる。その正解ではどこが足りないのかとかその正解に他の見方を したらちょっとまた別の発展があるのかということは、一生懸命考えてプロになれば なるほど他の考え方が出来なくなるますからやりにくくなる。その時に、通りかかった 人が「ああ、でもあなたのやっていることと私の考えていることとはちょっと違う。」 と新しい風を吹き込んでくれることで物事が変わっていく。人間の知というのは 多分そういう意味でソーシャルにお互いにインタラクトしながら深まってきた というふうに捉えています。だから人間の知の在り方というのは、必然的に ソーシャルなもので必然的にコラボラテイプなものだと思いますね。そのことが ネットワークなり情報化の技術の中で少しはダイレクトに分かりやすくなっているし、 扱いやすくなってきている、というふうに考えてみてはどうだろうかと思います。  まず個人のノートが先かというお話については、多分、まず自分の考え方という ことをノートに取るなり、外化してある程度分かってきたら「ねえ、これどう?」 と比較的安心できる人達のところに見せに行くところから始めるというのもこれも 人間のもののやり方のかなりの必然で文化差の問題ではないと思います。 比較的早めに自分の考えを外に出せるかどうかは、小学校の頃からそれに慣れている アメリカと日本とは表面的に差が出てくる可能性があるとは思いますけれど。  多分その辺はかなり人間のものの取り組み方としてスタンダードなやり方だろう と思います。一時、なんでも共有できるのがいいというのがはやりになったときも ありますけれども、最近のシステムというのは大体、グループで一緒に仕事をする 部分と自分自身がとっておきたいいくつかの部分を作っておいて、そこの管理は 自分で出来ます。自分を大事に出来ることが他の人と一緒に仕事が出来ることの 基本であるという考え方の方がずっと多くなってきているだろうと思います。 そこのところには文化差は余りないのじゃないかと私は思います。 榊原……電子掲示板を使つて学生とやりとりをしているのですけれども、最初、 掲示板で学生とやりとりをしている時にはなかなか書いてくれない。で、どうしたか というと試験情報というのを流したのですね。それをきっかけにしていろいろと やりとりが始まった。そのうちに分かって来たのですけれども、先生と生徒との つながりが弱い感じがします。本当は直接会っていろいろ話をすればいいんで しょうけれど、生徒はインターネット上のほうが話がしやすいようです。  今、いろいろ話を伺って、なくなってしまうようなものはダメなんだと言われると 例えばテーマをどのように設定するかという事が非常に難しいなという気がしました。 特に今、ヒューマンインターフェースとかは非常に奥が深くて、例えば化学の分野ですと、 そのテーマを設定するのが非常に難しいのではないかと思いました。  参考にしたいことでは、学生にホームページを作らせて掲示板にリンクを張らせる とかそういう形でも今後いろいろ発展が出来るかなという感じがいたしました。 枝潭……私は1985年に三宅先生が発表されました青山学院での「英語教育の文化比較の 実践」に刺激を受け、真似事をさせでいただいております。私の場合は相変わらず e-mailで相手の方に質問mai1を送って、答えをもらって、それをまとめる。 そこでいつも思っているのが情報の共有です。リンクを張ればいいわけですけれども 学内の事情があるとか、女子の学生は機械音痴・機械が苦手という意識があって なかなかコンピュータの前に座ろうとしない。自分に来ている返事すら見てくれない。 そういう状況の中で本当に情報公開というのがスクリーン上でできるのか。 実際に先生のところで非常に活発になさっているようなんですけれども、日頃の授業 はどのように行われているのか。お教えいただきたいと思います。 三根……知というものについて、単純に言えば知識と知能とありますが、ひとつの ものとして受けとめられている場合もある。ここでの知能がどういうものであるか ということについて。 匠……認知科学で学んだことで一番大事だったのは人間の知的な活動の対応性だった わけです。パソコンの中でいろいろとやってそれはそれで発想が出来たりもする。 ところが我々の認知上でパソコンに向かっている時間というのは本当に限られている。 そういう意味では非常に限定された実験の限界というのを常に感じて、大学で認知 過程の実験ということで授業をビデオでとりまくったりしまして、100時間もビデオで ずっと追いかけたりもしました。その限界というのをやはり感じるわけです。  三宅先生の方では、リンク化をしてきたという認知科学の成果というのを どう見られているのか、コメントをいただければと思います。 三宅……一番最初の御意見の中では、ご専門の化学だと私達みたいに学生の気を引く テーマを広げていけないし「ここはちょっと難しいよね」という含みもおありの発言 かなともうかがったのですけど、「隣の芝生は緑」の部分があって自分がやっている 部分のところは難しいと感じるものなのではないでしょうか。身近なもので自分の 手元にあるからこそ難しさもアラも面白さも見えるのだろうと思います。  面白いテーマが出せるかどうか、私もいくつかのテーマを何年かやってみました けれど、その挙げ句の果てに今やっているのはよく訳の分からない認知科学です。 結局これが自分のテーマですから仕方がないんですね。でもこれも面白くなくなったら やめます。そういうようなものではないかという気がしています。  枝潭先生のお話で生徒の方が返事を待っていないのならば多分、そのプロジェクトは 学生さんに合っていないと思います。私も前の大学は短大でしたので2年間しか学生と つき合えなかったのですけれども、その中で学生が「これだったら私が英語でメールを 書いて、帰ってきたメールを読んでもいい」というテーマを見つけてくれるのに ゼミの時間の6〜7割はかかっていました。自分が知りたい、知らせたいものを 作るところにすごく時間がかかる。そこにはのんびり時間をかけてゼミをやっていました。 そうしないと続かないです。  情報科学部を作ったときにグループでの卒論をありにしようということにしました。 そういう新しいことが「わ−わ―」できるのが私立の新しい学部のいいところだと 思います。一人の人間が一年間で見られるのが、五つか六つにおさまっていてくれたら 嬉しいなというようなことを考えながら、ばらけそうなグループは一生懸命、何とか 一緒にやってよねというようなことをやったりもしています。機械が苦手だったら 苦手でも、誰かを上手に使って返事が来ているようだったら必ずプリントアウトさせて おくというマネージメントスキルをリテラシースキルの一部として身につける というのもありかも知れません。そのうち自分でプリントアウト出来た方が便利だと 思うようになると思いますし。  テーマを決めるところにもう少し時間がかかってもいいのかも知れません。 「私、今こんなに面白いことをやっているのだけれども、手が足りないからやって」 と言うと周りの学生は「しょうがないなぁ」と言って参加してくれるなんていうことも あります。  人の巻き込み方については、ある意味ではどうしても私がのれないという時には ―緒に出来ないということが起こり得ます。その時には教師の側だって 「ごめんさない、興味が持てない。他でやって」と言わざるを得ない。そこは責任を 持つ限り正直になるべきだと私は思います。  認知科学の成果とは「何々を調べてみたらこういうことができました」というもの ではないでしょうね。あるものの見方がが出てくることで、「えっ、本当なんだろうか」 「わたしだったらどういう見るだろう」、「そういう話があるならば私も自分のものの 見方を変えていきたい」みたいな話であって、多分、ものの見方であるとか人間の どういう部分を大事だと思うかという価値観の持ちかたであったりとか、そういう ところで人間科学の成果、認知科学だけではないですけれども成果が出てくるものだと 思うので、認知科学の成果としてはこれこれですという言い方は、私も出来たら いいなと思ってはいますが一筋縄ではいかないですね。  学生一人ひとりの価値というのはその人がどれだけのものを自分自身の力で 書けるかではなくて、その人が周りの人を巻き込んでいろんなことを一緒に考えて いった時に全体として「何かこれは前よりも確からしい話」に近づいたという、 そういうコラボレーションを起こすことが出来たら、それはプロジェクトに関わった ひとりひとりの個人の力だと思います。そういう中にしか、ある意味での人間の 在り方の本質というのを見ていけないんじゃないかということ自体が認知科学の 成果かも知れません。 山田……内容的には先程のReCoNoteの話に。三宅先生の1回目のお答えの最後の ところでですが、「自分のノート」というのと、「グループのノート」というのが あり、コラボレーションしていく上でプライベートな知識というか、ノートをしっかり してという話だったと思うのですけれど。「自分のノート」に他人が何か書き込んで くるというのは、非常に不愉快な場合があるのではないのかと思うのです。 もしそうじゃないのであれば、「自分のノート」と「グループのノート」と両方を 公開していくことの意味はどこにあるのかという辺について、何かコメントを いただきたいと思います。つけ加えさせていただくなら、もし「自分のノート」に 他人が書き込んだときに不愉快じゃないとすると、それは、みんなの思考パターンが 画一化してきているという、すごく恐るべき状態を表しているのではないかと思うのです。 益川……自分のノートとグループのノートがあるのですけれど、それは一応、他人も 読むこともできるし書くこともできる形になっています。特に制限はしていないの ですけれども実際にこの今回の中で使ってもらった時には他人のノートに直接 書き込むというということは1件しか起きていません。 三宅……今のReCoNoteにないのは、「他の人から見えない自分だけのテリトリー」 というのがないですね。ただ、全ての作業をReCoNoteの上だけでやろうということは 全然考えていなくて、紙のノート等資料を私も配ったりしますし、いろんなものの中の 一つなので本当に自分のためだけのノートというのは別の媒体あるいはReCoNoteとは 別のシステムで作るということをやっていた可能性はあります。  広い文脈の中でこれがどう使われていたかというのを見なければいけない、 というのは確かにぞうだろうと思いますけれども、どこかで人が見ても不愉快じゃない のだとするとそれは画一化ではないかというお考えには、必ずしもそうではないという 気がします。  みんなそれぞれ、自分の「意味の関連」を持っているんですよね。で、「自分のノート」 というのは、公開する以上ある程度他人にも分かる必要があるけども、基本的には自分 だけの「意味の関連」に従って書く。だから、他人のノートヘの書き込みというのは、 相手が「不快だ」ということに対する遠慮もあるけども、その人の「意味の関連」を 理解した上でないと、うまく書けないというのもあるんじゃないでしょうか。 下手に書くと、ノートの上に表現されている、相手の「意味の関連」の体系を 崩してしまうでしょうから。邪魔なんだと思います、あんまり書かれると。 まあ、けっきょくこれが「不快」ってことなんでしょうけど。 三宅……実はコラボレーションということがうまくいくために必要なのは 「私の考え方というのはこうで、そこには他人がどれだけいろいろリンクを張ってきて もタグを付けても私自身はなくならない」というある意味では強い自分の考え方が しっかりした個人がいて初めて出来上がるのが協調だというところがあるのですね。 そうじゃないと「誰かが何かと言いました、私もそういうことにしました」 というだけではコラボレーションにはならないです。  そういう意昧で人が読んでも構わない自分の意見の交換の仕方というのがある。 あるいは人が一生懸命他人の中に入り込むつもりでも入り込めない部分というのが 必ず人間の知識なり知識構造の中にあると思います。  このシステムを作る前に学生同士がどうやってノートを使っているのだろうかを 調べてみましたら、書いているのは確かに黒板に書いてあることがほとんどなの だけれども、貸し借りOKだったのですよね。学生の間ではノートに書いたことぐらい のことであれば、他の人が見てコピーして試験の時に使うのはOKであるという、 そのレベルのものがノートに出ているのだ、その下にノートに出せない部分と いうのがどれくらいあるのかは個人によるというような感じ方を持っています。 (CIEC Newsletter 別冊 1998.6.15)

さて、楽しい新しいヒントをたくさん与えられた三宅先生の話でした。
その感想を整理してCIEC事務局に送ったら、ニュースレターの掲載される ことになりました。


第4回研究会 感想
                岩手大学工学部建設環境工学科
                             宮本 裕会員

 三宅先生の講演にはフレッシュなものを感じました。たぶん理科系の私は
文科系の世界の話に、違う価値観や訴しいものの見方を教えられたからでしょう。

 (質疑応答のときに)私があえて、電子メールで課題の回答を集めると、学生が同じ
回答をするという例を出したのは、本学の情報工学科の先生の発言の紹介ですが、
同時にインターネット世界におけるオリジナル性尊重と他人のアイデアを発展させる
能力のことを指摘したかったからです。

 三宅先生は相手の意見に対しても、ストレートに反論せず、やんわりと違う立場の
考え方も紹介していました。あの答弁は学会発表では参考になります。
早速マネしましょう。

(ここから具体的な感想に)

 さすが専門家、キーワードが出ました。「知の分散」、「知の共有」、「自分の足りない
ところを補いあう」、分野によっても違うと思いますが、三宅先生の分野では学生の
新しい感覚とか視点が、教師にも良い刺激を与えることが多いのでしょうね。私の専門
の工学では、たくさん知っている教官の方がリードしている傾向はあります。でも、
学問体系の整った伝統的分野と、絶えず進歩が繰り返され教科書も1年たったら
古くなる分野では、大分傾向がちがうようです。

 前者の学科は保守的体制的(偉い教授の方が知っている)で、後者の学科は
進歩的民主的(学生の方が知っている)と言われます。

 はたして皆様のところではいかがでしょうか。

 知の共有リンクに他の先生やOBの割り込みがあって活発になる、というのは愉快
ですね。

 非常勤講師の先生に他の先生もシラバスを公開すべきではありますが、
なかなか自分の講義のシラバスを公開したがらない先生もいますね。

 結局、情報公開、協調的な学習方法、学生の活発な書き込み等はそれを受け入れる
雅量のある敦師にして実践できること。学生のPCやネットワークのパワーもうまく
活用すれば教育研究は進む。

 人のレポートを丸写しするのは、さすがに三宅先生も認めていないようです。
他人のものを参考にすることはあっても何かプラスαを入れることが、本人のためにも
必要ですね。

 私の宿題では、たいてい計算問題なので正解は1つ。でも、難しい問題を出すと、
全員間違いということもある。そういう時でも、間違いのグループが3ヽ4つの集団に分
けられる。(グループ内では同じ間違いをする)1人だけユニークに間違っているのを
私は評価するわけです。

 みんな自分の部屋に自分の意見を書いて、関係する他人の意見にはリンクするだけ
なら相手はそう目くじらを立てない(?)が、世の中には自分の意見に何か批判
めいたことを言われるだけでもナーバスになる人もいます。そういう人は
ネットワーク社会では生きていけない(?)

 公的(パブリックな)掲示板にはなかなか書き込めない。みんなが書く雰囲気なら、
自分も書くのだが。そういうときには、とりあえず自分の部屋に書いてみる。そして、
みんなの反応をみるというのも無理のないところでしょうか。

 こういうことができるには学生も全員簡単に電子メールが使える環境にないと
いけません。三宅先生の方式は大学院の講義や演習で使えそうに思いました。
私の学科でも4年生以上は電子メールが使えるが1〜3年生には教育端末室で
ネットワーク講習会を自分(宮本)でしないといけません。

 4月から教室の大画面で私が作ったホームページなども見せられるようになります。
インターネットで橋の写真や新技術紹介も教室に持ち込めるのです。いろいろ
チャレンジしたいと考えています。 CIECの雑誌はホームページの活用には
参考になることが多いと思います。

 大岩先生の講演は前にも同様な講演を聞いたことがあるので、私には新しい発見は
ありませんでした。たとえば平成元年に東北大学で開催された文部省主催情報処理
教育研究集会報告書にも、同じようなことが書かれてあります。

 たぶん大岩先生も三宅先生とそう違う意見ではないのに(研究会を盛り上げるために)、
対立点を明確にするため喧嘩口調になったのでしょう。

 要するにコンビュータ利用の専門教育では、コンピュータはツールなのだが、
進歩する技術に学生が卒業後もついていけるような教育をすべきである。だから
いつになっても価値がある原理本質を教育すべきである。かつ実際に役に立つ応用面も
大事にする。柔軟な発想、すみやかに新しいものを受け入れる積極性を育てる。そして
コンピュータはどういう使い道があるか、どう使えるかをたえず発展的に考える姿勢
がほしい。

 プログラミングのとおりに動くのであって人間が感じたようには動かないというのは
言い得て妙。エレベータに乗っても行き先ボタンを押さないとエレベータは動かない。
 昔のFORTRANのミスですが
 A(l)=0             *数字のイチ
は実行してくれるのに、
 A(I)=0             *ローマ字のアイ
は実行してくれません。
DO文をつけないといけません。
カッカしている私にはわからなかったのを教えてくれた相談員は偉かった。

 しかし、プログラミングの通りに動くのではなく、それをコンパイルしたり
インタープリターした結果機械語になったので、その機械語の通りに動くのですね。
このあたりのコンパイルの特性や限界を考えたら翻訳技術に相似するのかと思いました。

 (研究会の)帰りに新幹線の中で読んだ新聞に書かれてあったことを紹介します。
***人材輩出の環境について(紙面批評、産経新聞、1998.3.29,)***
長年情報産業にかかわってきた体験によれば、
「徹底した基礎教育」
「フイールドワークに代表される現場での体験」
「異文化に接触することによって受ける刺激」
の3つが創造性のある人間の形成につながっている。
つまり、情報処理教育も
 将来発展するための基礎教育
 応用体験
 教官学生どうしの違う観点からの意識交流が必要である。これは28日の講演の
ポイントと見事に一致しています。
(CIEC Newsletter No.7 1998.4.30)

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