和歌など読むと文語文特有の言葉を知らないと理解できません。
現代の短歌でもそうです。
荒城の月も音楽の教科書からはずされるという噂が全国に流れていますが、確かにあの歌詞も難しい。

暮れなずむ(暮れ泥む)  日が暮れそうで、なかなか暮れない状態ですね。 なぜか 芹洋子、南沙織、武田鉄也 を連想する私。 泥む(なずむ)とは口語というよりは文語で、行きなやむ、はかばかしく進まない 様子をいいます。万葉集「雪消の道をなずみ来(け)るかも」 雪が残っていたり、ぬかるみ道を歩くときは、足もとが大変なので なかなか先に行かれないのでしょう。 舗装された道ばかり歩いている都会人にはなかなかわからないでしょうが、 北海道の雪道を(誰も歩いたことのない道を)最初に歩いたり、 春先のどろどろのぬかるみを苦労して歩いた私には、よ〜くわかります。 語学の勉強をしていると、なかなか先に進まないこともあります。 氷が解けるにも時間がかかります。あれは物理学では潜熱というのだそうです。 物質の組織がかわるのにエネルギーが使われ、そういう過程をへて氷から水に変わる。 体制が整うまで時間がかかるものです。語学の勉強も、頭の中で 知識が整理され血となり肉となるのに時間がかかるのかもしれません。 ワインやウィスキーも樽の中で熟成されるのには、時間がかかる 岩手の薄倖の女流歌人西塔幸子の短歌 「九十九(つづら)折る 山路を越えて 乗る馬の ゆきなづみつつ  日は暮れにけり」 この歌碑のある押角峠のトンネルの新里村側出口に立てば、北上山地の 絶景のすばらしさと通行の厳しさを今も感じることができる。 う〜ん いま気がついたのだけど、「ゆきなづみつつ」は「ゆきなずみつつ」 ではないだろうか。 専門の先生に質問したところ この場合は、「なづむ」でよいとのこと。  「泥む」の古典仮名遣いは、「なづむ」となっており  短歌では、現在の作家でも、「文語調」を生かすため、古典仮名遣いを用いる作家  が少ないないのであるが、西塔幸子の時代はほとんどが、古典仮名遣いを用いている。  したがって、西塔幸子の歌で「なづむ」は間違いではない。


短歌も俳句も、少ない文字数で多くを表現できる文語調を使いたいからのようです。