いまからちょうど120年前にあたる1879(明治12)年の11月、一人のドイツ人学者が、 東京大学医学部の3代目のお雇い博物学教師として日本にやってきました。弱冠24歳の ルートウィヒ・デーデルライン(Ludwig H.P. Doederlein)です。デーデルラインという名 は、一般にこそあまり知られていませんが、日本で海産動物を収集した分類学者として学 問的にはつとに有名な人物です。彼は、三浦半島三崎周辺の海には他では見られない多様 な動物がすんでいることを、採集した膨大な標本をとおして世界に紹介した最初の研究者 なのです。その後、三崎には日本で景初の臨海実験所(東京大学)が設置されますが、 これも彼の研究がもとになっています。 デーデルラインは、大学との2年契約が満期になると、三崎をはじめとして日本各地で精 力的に収集した標本とともに本国に帰っていきました。持ち帰った標本の一部については デーデルライン自身で、また、専門家に依頼して分類学的研究がなされ、新種も多く記載 されました。手近な動物図鑑を開いてみてください。そこには、Clypeaster japonicus Doederlein(タコノマクラ)など、デーデルラインの命名した学名がたくさん並んでいる ことでしょう。しかし、当時の記載はおしなべて簡単であったために、その後の分類が混 乱している動物群も少なくありません。分類学的混乱を解消するためには、新種記載の基 となった標本(タイプ標本)を直接調べる以外に方法はないのですが、残念なことに、 それらの標本は長い間行方不明でした。 ところが、数年前、著者の一人(馬渡)のところに、朗報が飛び込んできました。デ一デ ルライン収集のコケムシ標本がフランスのストラスブール動物学博物館に保存されている というのです。早速、ストラスブールを訪れてみると、そこにはコケムシだけでなく彼が 日本から持ち帰った膨大な標本が大切に保存されていました。この中には、もちろんタイ プ標本も含まれていましたが、研究されていない未知の標本が埋もれている可能性も十分 にうかがえました。そこで、この「デーデルラインコレクション」の全容を把握するべく、 海産動物分類の専門家チームが1997年から98年にかけて現地で調査を行ったわけです。 この調査は、名古屋大学の西川輝昭教授が研究代表者となり文部省の科学研究費補助金の 交付を受けました。今回は、この2年間の調査の成果に基づき、日本の科学の礎を築いた 動物学者の一人であるデーデルラインを皆さんに紹介するとともに、博物館のあるべき姿 について考えていきたいと思います。 (昭和記念筑波研究資料館 並河 洋、北海道大学 馬渡峻輔) 1 デーデルラインの足跡と標本収集 デーデルラインは1855年にドイツラインラントのベルクツアベルンで生まれました。 ミュンヘン大学などで自然科学を学んだ後、独仏戦争後にドイツ帝国領となったばかりの シュトラスブルク(ストラスブール)大学で1877年に理学博士を取得しています。その 後高校の補助教員をしている時に、いわゆる「お雇い外国人教師」の一人として、1879 年、彼が24歳の時に日本へと赴任することになりました。フランスの船で一か月半もか かり日本に到着しました。 日本では2年間の間、東京大学医学部で動物学や植物学の教 鞭をとることとなりました。 デーデルラインは来日中、日本各地を旅行して、いろいろな動植物を収集し、また紀行文 なども残しています。彼が足繁く通った所の一つが神奈川県の江ノ島でした。江ノ島の土 産物屋で売られていたホッスガイなどのガラス海綿の仲間を入手することが狙いでした。 このホッスガイは実は江ノ島付近からではなく少し南の三崎の近くから採れることをつき とめ、三崎の沖でドレッヂによって海底の動物の採集を何度も行ったところ、ホッスガイ だけでなく、ウミユリ類のトリノアシなど珍しい動物を多数採巣することができました。 デーデルラインによって、三崎の近海が世界でも稀にみる希少な動物の宝庫であることが 発見されたのです。この発見がきっかけとなって、デーデルラインが帰国してから数年後、 三崎の地には、日本で初めての臨海実験所が誕生しました。三崎臨海実験所ではその近海 から非常に多様な動物が採集されることを生かし、日本の動物学を発展させる数多くの研 究がなされてきました。 デーデルラインの旅行先のうちもっとも良く知られているのは、鹿児島県の奄美大島です。 奄美大島へ旅行した一番の目的は、やはり海産動物の標本の採集だったのですが、残念な がら滞在中に台風に見舞われたことなどのため、採集はあまりうまくできなかったようで す。デーデルラインは奄美大島の紀行文を発表していますが、その中には奄美大島の自然 や人々の暮らしなどありとあらゆることが記されていて、この時代の奄美地方の民族学的 な情報源として、非常に貴重なものとなっています。 1881年の暮れに東大との契約が終了しドイツヘと戻り、シュトラスブルクの博物館に所 属し、日本から持ち帰った膨大なコレクションの整理を行いました。海綿類、軟皮動物、 魚類などについては自ら研究を進め数多くの新種を含む分類学的な研究を進めるととも に、他の動物群についても、それぞれの専門家に研究を依頼しました。しばらくして博物 館長となりましたが、シュトラスブルク大学でも教鞭をとり、後に日本にやってくること となるドフラインなどの多くの生物学者も育てました。しかし第一次世界大戦後にアルザ ス・ロレーヌ地方がフランス領となったため、1919年ドイツ人であったデーデルライン はこの地を離れざるを得なくなりました。自ら育て上げた博物館とそのコレクションの ほとんどをそのまま残し、ミュンヘンヘと移りすんだのです。 しかし、ミュンヘンでも練皮動物などの研究を続け、「ドイツ産動物検索」など専門書の 執筆も精力的にしています。 ミュンヘンにある国立動物学博物館館長、ドイツ動物学会 会長といった要職を歴任し、1936年に81歳でその生涯を閉じました。今は、ミュンヘン 市内の墓地に静かに眠っています。 (動物研究部 藤田敏彦、名古屋大学 西川輝昭) 以下省略 (国立科学博物館ニュース 第369号 1999.12.20)日本の博物学、特に動物学の基礎を作るのに大きな貢献のあったデーデルラインは
東大医学部の教師としての月給が235円、これは大臣の給料に匹敵する高給だったとか。
彼の持ち帰ってヨーロッパに今も残る標本は、日本の動物標本として価値あるもので、
その中には日本の絶滅種すらある。