時代を読む タジクの星になったサムライ 木村 汎 秋野豊さんは、なぜ今回のわれわれの調査団に加わらなかったのだろうか。 内蒙古自冶区は満州里郊外の大草原で満天の星空を眺めながら、私は考えていた。 秋野氏も私も、NIRA(総合研究開発機構)の研究プロジェクト「ロシアの総合的 安全保障環境」の日本側執筆者だった。同氏の担当分野は、ロシアおよびCIS (独立国家共同体)が直面している「新しい脅威」、具体的にはテロリズム、犯罪組織、 核の流出などだった。この分野において、秋野氏は紛れちなく国際的に通用する 第一人者である。事実、これまでの会合では、米、ロ、中、韓、日からの参加メンバー 相手に熱弁を振るい、同プ口ジェクトを積極的にリードしていた。 6月6〜7日の第二回モスクワ会合に、ドゥシャンベから寸暇を惜しんで飛んできた時、 彼が語ってくれたタジキスタンにおける勤務と生活の厳しさは、私たちロシア専門家を も驚かせてあまりあるものだった。住まいは、大統領官邸のすぐ隣であるために、 警備が完べきともいえる半面、同官邸攻撃に巻きこまれる最も危険な場所であること。 前任者五人が、既に殺害されていること。住宅と空港とを結ぶ地帯で銃撃戦が行われる ことが確実に予想されている時にも、空港へ仲間を迎えにいかなければならなかったこと。 モスクワのホテルは、日本人の眼からみると、設備やサービスがお粗末な代物に映るが、 タジキスタンから来た秋野氏にとってはまるで極楽浄土に思えたらしい。 靴底のようなビフテキを息もつかずに平らげるや、「久しぶりに旨(うま)いものを 食ったなぁ」と語り、その場に居合わせた全員をあ然とさせた。「ホテル到着後 真っ先にシャワーを浴びましたが、温かいお湯で身体を洗いながら涙が流れて 止まらないんです。文明って奴(やつ)はなんと素晴らしいものかと思って」。 高校詩代、ラグビーチームを率いて全国大会へ出場し、柔道においても北海道 チャンピオンとなった経歴を決して裏切らない容貌(ようぼう)の持ち主から、 このようなセンチメンタルな感想が発せられるとは。それを耳にした者は 「鬼の目に涙」の一句を念頭に浮かべた。 日本のロシア研究者は、荒っぽく次のように四分類しえよう。第一世代は、英語、 独語からの翻訳に依存した人々。第二世代となってようやく口シア語能力を備える ようになった。第三世代はロシア語文献を読むばかりか、会話もできるようになった。 第四世代はたんに書斎で文献を読むばかりでなく、ロシア各地へ飛び調査取材する 行動派。秋野氏こそは、わが国における第四世代のパイオニアにほかならない。 モスクワで別れた後、六月二十七日付で同氏からEメールが届いた。 「私は、タジキスタンの各地を飛び回り、最後のサムライというニックネームを 奉られています。明日、五〇度の猛暑の中、アフガニスタンヘ二百名のタジク戦士など を送還するために再び出掛けなければなりません。もしこの使命に成功すれば、 私は和平の過程を前進させることに少しは貢献した、と言いうるかもしれません。 その後、反対派の拠点であるガルム山脈に二ヵ月閻滞在することになります。 Eメール文通は、不可能となります。日本に帰国して少しの間でも骨休みてきればと 願っているのですが」 私は「学兄の国連タジキスタン監視団参加の決断こそが既に偉大な貢献である。 今後は無事に帰国することを第一義と考え呉々もご自愛下さい」と認めたが、 彼が私のEメールを読んでくれたことを確かめる術(すべ)はもはやない。 秋野さんは、私が北海道大学に赴任して最初に担当したゼミの学生だった。 彼は、英文テキスト輪読の宿題をしてこない学生の代行をいつも買って出る ボランティア精神と義侠心(ぎきょうしん)の持ち主だった。私は、今回の事件 発生時に海外出張をしており、事件の全貌を把握していない。 にもかかわらず、他の三人をかばおうとして真っ先に撃たれたのは、秋野さんに 違いないと確信している。 (東京新聞 1998年7月26日) この著者の木村 汎氏(元北海道大学スラブ研究センター教授)は、推理小説作家山村美紗の弟。