・現代は、力タカナ語を通り越して、英語がそのまま入って くる時代になった。インストール、ダウンロード、 グローバリゼーション、インフォームドコンセント ・広辞苑第五版では23万の見出し語の10%が カタカナ語である。新しく収録した1万語では、 その3分の1がカタカナ語とのこと。 ・最近は(使いすぎで)カタカナ語の効用や神通力が薄れて、かえって 古くさい、ださい感じになっている。むしろ漢字や ひらかなの方が新しい印象を与える。今でもやたらに カタカナ語を使う雑誌や広告があるが、言語感覚が 貧しい印象を与える。お役所も、隅田川のほとりを 「ウォーターフロント」というが、川べりという方 がずっと豊かでかっこいいはずである。 <言葉も流行があり、カタカナ言葉の氾濫があきられてしまった> ・明治時代の人たちが「神経」「哲学」などの訳語を作った ような時間的余裕はない。パソコンやインターネットに関 する宵葉は、翻訳される時間もないまま洪水のように入っ てきている。新しい意味をもつものに対応する日本語がな い場合、それをダイレクトに理解してしまう力を若い人は 身につけている。<これは日本人の伝統の力か> ・「プライバシー」や「アイデンティティー」などは、 日本語に置き換えるにもぴったりの首葉がない。 ・そういう言葉を無理やり日本語にする必要はないが、 日本語で言えるのをわざわざカタカナ語に変えるのは インチキだ。<そうだそうだ> ・英語とスペイン語のまじり合った言葉「スパングリッシュ」 が、米国のヒスパニック系住民の間で使われている。 日本でも外国人が増えているので、将来、日本語にも こうした変化が起こる可能性がなくはない。 ・ハワイの日系人二世に日本語と英語をまぜこぜで 使う現象がみられたが、定着はしなかった。スパングリッ シュも過渡的な現象だろう。困際化が進んでも日本語は安 泰と思われる。 <英語にもドイツ語からきた言葉が残っているように、スパングリッ シュ的な表現は少しは残るのではないか。たとえばポルターガイスト、 ギャング、アイゲンバリュー(固有値)> ・日本語は、外国人に使われること、つまり外に向かって発信すること を想定していない言語だ。従来の国語辞書は、日本語を ある程度不自由なく使いこなす人のためのもので、助詞の 「は」と「が」の使い方の違いのようなことを解説して記述した ものはあまりない。外国語と比較してどんな特性があるかを 説明していない。外国人や帰国子女向けの日本語教育のため に、そうした辞書が必要だという声を最近よく耳にする。 ・インターネットの世界のように機械が英語を要求するから といって、私たちが日本語をあきらめるのは理不尽だ。 「そのリンゴ1匹くれとイラン人」という川柳がある。 外国人にとってリンゴは何個、動物は何匹と使い 分けるのは、確かに難しいだろうが、だからといって すべて「個」で数えることには反対する。 ・方言で絵本を書いた経験から、方言でないと 表現できない二ュアンスがあることを実感した。 同様に、日本語のほかに世界の共通語を学ぶことは必要だが、 感情の機敏を伝え合う言語としては、それぞれの国の言葉が 併存する。地球の中の一地域の「方言」として日本語は 残っていくと思う。<言葉には、その言語でないと表現できない、 翻訳困難な言葉もある。その民族の文化と密接につながっているから>
「東京音頭」や映画「キングコング」が大ヒットし、忠大ハチ公が有 名になった1933年(昭和8年)の雑誌や新聞を見ると、当時も日本 語が乱れてけしからんという記事がしばしば登場しています。 蟹工船の小林多喜二が虐殺され、貧乏物語の河上肇が治安維持法で つかまった年でもあります。 デモクラシーとかマルキシズムとか、新しい思想で荒れた日本を 締め直そうという気運が高まって、言葉の問題にも波及しました。 いわゆる「識者」による、使ってはいけない言葉のキャンペーンが 始まったのです。 例えば、映画の「超大作」とかデパートの「超特価」とかの「超」 や、博徒の隠語である「インチキ」などはけしからんとされ、「パパ」「ママ」 を使うやつは日本人ではないなんて言われています。 下に否定をともなう「とても」という言葉ですが、「とてもきれいだ」などと 肯定文のつく言い方がはやり、これも批判されました。芥川龍之介も、 こういう使い方は非常に不愉快だと、書いてあります。 <今の「全然」も下に否定がくるのが本来の使い方なのに、肯定がきている> 60年以上前の日本語の乱れ論からも分かるように、言葉が悪く変わ っているというのは、どんな時代でも聞かれる意見なのです。 <江戸時代の文献にもきっとそう書いてある> 一方、変わらない言葉もあります。千年以上前にできた日本で最も 古い百科事典[倭名類聚抄 わみょうるいじゅうしょう」では、 中国から入ってきた漢語と、日本人が使っていたやまと言葉を対応させ ていますが、そこに書かれている基本的な生活語彙はいまと変わってい ません。 つまり、私たちの使う単語は、やまと言葉が一番下の層にあって、そ の上に漢語という中国の文字、中国の読み方などの層があり、さらにそ の上にヨーロッパ語の層がある。この3つの層を私たちは操作しなが ら毎日の生活を送っているわけです。 例えば「思いつき」というのはやまと言葉で、漢語にすると「着想」 になります。無色透明な「思いつき」に比べ、なんとなく「着想」は いいもののような二ュアンスがあります。英語では「アイデア」です。 同様に「決まり」、「規則」、「ルール」であり、「技」、「技術」、「テクニック」 となります。この3つを私たちはいつも使い分けているんですね。 「月」とか「山」「母」「米」など身の回りのことや、「縫う」「買 う」など私たちの生活の基本は、やまと言葉がしっかりと支えていま す。ここが崩れて、みんなが「ああ、きょうはいいムーンだな」とか 言い出したら、日本語はちょっと危ないかもしれません。 <英語でも、生活用語は元のドイツ語が生きている。「風」「手」など スペルは同じ> 芝居(戯曲)というのは、大和言葉で書かないと失敗します。 客席のお客さんに、芝居を見ながら考えさせてはいけないからです。 自分の周りの基本的なことは大和言葉がしっかりとおさえているのです。 まだ日本語にはしっかりとした文法があります。例えば 『むかしむかし、あるところにおじいさんとおばあさんが住んで いました。おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に……」 という文章があります。「むかしむかし、おじいさんとおばあさん 『は』住んでいました」とは言わない。国語学者の大野晋さんが、未知 を示す「が」、既知の「は」と整理されましたが、文法は知らなくて も、私たちは両者を使い分けています。 日本語のしっかりした文法は健在です。表層の言葉は変わります。 それでも、私たちが人間として生きていく限り、大和言葉はいつまでも 生き残っていくでしょう。さらに、最後にはしっかりとした文法があります。 日本語が滅びるということは、大和言葉の基本がくずれ、先祖からの文法を 失ったとき、ついに最後がくるというべきなのです。 日本語はもう完成していて、その完成した日本語に対していま使って いる(流行の)言葉が問違いであるというふうに考える人がいますが、実はまだ日 本語というものは成立してないんです。ですから、それが乱れていると いうのは間違いで、本当はこれからなんです。 <これからも日本語は外来語を取り入れて発展していくだろう。 また、時代の要請にしたがって表現方法も変化させていくだろう> 外来語など、漢語と同じように日本の中へしみ込んで、やまと言葉の ように使われていく言葉も出てくると思います。それは世の中の要請と して受け入れながら、文法とやまと言葉をしっかりとつかまえておけば、 あまり慌てる必要はないのではないでしょうか。 (井上ひさし氏の基調講演から一部紹介)
(平成10年11月16日 朝日新聞、平成10年11月20日 産経新聞)