在日の言葉
玄 善充 ヒョン・ソニュン
在日韓国人二世が書く
ややかたい在日コリアンの言葉社会
テレビが普及して人気のホームドラマによって、こちらを覗かれないで
「日本人の内輪」を覗くことが可能になった。
あのホームドラマを通して、親たちは「人々の内輪」の語彙を習得して、
我が家から元々少なかった朝鮮語が駆逐されていった。
テレビの普及は、在日朝鮮人の経済的な上昇とそれに比例しての集落の解体を
進める役割を果たした。
テレビは、在日朝鮮人と日本社会との距離を狭めた。
(テレビの普及により、方言を使う子どもが減ったように)
子どもにとってはもう一つの強い「味方」があった。それは学校だった。
「内輪」と「普通」は学校を媒介としてつながれた。
自分には、内輪の言葉に対する怯えや不信があるから、「普通」への移行の
手ほどきを施してくれるばかりか、それを価値として教え学ばせる学校は、
得難い場所であった。とりわけ、両親たちにはその種の機会がなかったという
事実を知っていたから、自らの幸運を喜びつつ学校に感謝してしまう。
そして、実際にそういうことを口に出しもするものだから、それは日本人から
見れば、異様に映るらしい。
しかも、建前上の民主主義の裏で、相当な差別を受けてきたはずの在日朝鮮人
の口からそんな台詞が飛び出すのだから、善意に溢れた進歩的な友人たちは、
「何を馬鹿な」と驚き、あげくは不審を買ったりもする。
しかし、私の「感謝」には多少の誇張も含まれてはいるが、実感であることを
否定できないのである。
この著者は選ばれて、高校3年生の時に「在日僑胞高校生野球団」のメンバー
として韓国を訪問して、韓国の高校生チームと親善試合をしながら
方々の都市を回る。そして、自分の故郷を訪れ親戚と再会する。
ソウルの空港に着くと、不思議なことを目撃する。本人が知らないのに
自分たち名義の持ち込み荷物が次々と現れる。
洗濯機、冷蔵庫その他の電化製品が続々と、それを見て狐につままれた気分の
高校生たち。
案の定、税関で悶着が始まる。役人が大声でクレームの気配。
そんなことは先刻承知という態度で、一行のお目付役はそ知らぬふりで税関員の
手元に小さな包みを数個置いて目配せをした。
その合図を目の端で受けとめた税関員は、これまたそ知らぬふりで、その包みを
自分の方に素早く振り落とし、何事もなかったかのような顔つきで検査をすすめ
始めた。まるで息を合わせたような一連の行為を見ていた高校生たちは、
なるほど、話には聞いていたがこちらの社会はこのように動いているのだと、
空港だけでずいぶん社会勉強をさせてもらった気分になるのだった。
やっと著者は故郷を訪問する。
離れ小島(済州島)の飛行場に迎えにきてくれた叔父さんは警察に勤めていた。
一族の伯父も案内役の叔父も植民地時代に日本語を学んでいるから、会話には
問題がない。久しぶりに再会した彼らはしだいに「彼らの言葉」で近況の話に
入り込んでいくが、高校生の著者は退屈になり足もしびれてくる。
「散歩でもしてきなさい」という叔父の救いの言葉に席を立って、部屋の外に
出てから便所を探す。
便所に関しては恐ろしい話を聞いていたから、心配で確かめたかったのである。
なるほど、豚小屋と便所が一体となっている。気配を感じたのかブーブーと
豚がこちらにやってくる。あわててズボンをたくしあげて逃げた。
便意のふきとんだ著者はそれから辛い便秘の3日間がはじまる。
夜の帳が降りた。電気どころか水道も通っていない田舎だった。
しかし、空を見上げると、今まで見たこともないような満天の星空だった。
思わず「すごい」と感嘆の叫びをあげた。感動している自分に気がつくと
また感動。
(豚小屋が便所であるというのは中国も同じ。中国では赤ん坊や幼児が土間など
に排泄したものを飼い犬が食べてくれるそうである。そういう小説があるという。
犬は幼児のお尻までなめてくれると書いているのは高島俊男氏の本)
ミッコウ
「あの人もあれや、(周囲を見渡して声を落として)ミッコウやがな。
ふえたなミッコウが。」
日本人の耳にでも入りしたら厄介の懸念があるものだから、ひそひそと囁かれては
いたが、在日朝鮮人の内輪の世界では十分に市民権を得た言葉だった。
「書類なし」や「紙なし」や「鑑札なし」とも言われた。
突然見知らぬ人から電話が入る。「無事に到着した。30万用意して、どこそこへ」
翌日、夜の明けないうちに、人気のない商店街の片隅の指定された公衆電話
ボックスから指定の番号に電話する。改めて指示を受け、路地を次々に経巡って
やっと到着。金と引き替えに人間を受け取り、周囲に警戒の目を怠らず
急いで帰宅する。
こういう闇の取引が在日朝鮮人の世界ではさして珍しくない時代があった。
ブローカーに所定の費用の半分だけ支払い、残金はこちらの親戚や仕事先の
主人が引き受ける。こうした方式で大量の韓国人が日本に出稼ぎに来ていた時代があった。
人々は費用を借金でかき集め、日本へ日本へと向かった。
船底で身動きもままならないままに息を潜める苦痛の数日を経て、
無事到着してもいつ逮捕の憂き目にあうかもしれない。
そうした苦痛と不安を乗り越えて、うまくいけば数年、あるいは10年以上
もの異国暮らし。長時間で過酷な労働と、闇の人間としての人目をはばかる孤独な
生活に堪え、借金を清算し祖国に送金した。未来の希望と瞼に浮かぶ肉親たちの
喜ぶ顔だけが頼りである。ところが気がついてみると、その送金先の祖国には
自分の居場所がなくなってしまっていた、という辛い話も数多くあった。
ともかくそういう人々のおかげで、辛うじて生き延びたり進学したり、
今や中流の幸せを享受している人々が韓国にはいる。
ということは現在の韓国の繁栄の一端を彼らの闇の生活が作り出したことにもなる。
そしてまた、その人たちの労働力で下請け孫請けの在日朝鮮人の零細企業が
保っていた時代があった。その低賃金労働によって日本経済が支えられていた
のだから、日本経済の繁栄のいくぶんかもまた彼ら彼女らに負っている。
しかも優秀の誉れ高い日本の公安警察がそういう闇の世界に無知であるわけはなく、
日本経済の健全運営に協力をおしまない。人手が余りだすと「ミッコウ」狩りが
頻繁に行われるといった具合に、「雇用調整」がなされたのである。
それだけではない。いわば「紙の斡旋屋」も存在した。真面目に勤めあげた
密航青年が生活の基盤を整えてもう大丈夫という頃合いになると、出入国管理の
元役人のお出ましとなる。自首を条件に「登録」をもらえる便宜を図り、
それ相応の金銭を受け取るわけだ。そういう「良心的」元官僚とそれと結託した
「良心的」現官僚とのおかげで無事「鑑札」を獲得して陰の存在を脱した人もいる。
人は金を求めて流れるという経済法則は、日本と韓国の間の「ミッコウ」に
おいても実証されたのであった。
(安い賃金で働く人たちの労働力で下請け孫請けの在日朝鮮人の零細企業が
保っていたように、今中国東北部や北の方から韓国企業に働きにくる同胞がいるという)
日本と祖国のはざまで
今から2,30年前のことであるが、末端に位置するとはいえ日本経済の繁栄に
食らいつき、それを支えて生きてきた在日朝鮮人の経済力は、
祖国の人々のそれをはるかに超えるものであった。そうして「成り上がった」
在日朝鮮人は自由往来が許されるようになると、堰を切ったように瞼の故郷に
里帰りした。もちろん手ぶらというわけにはいかない。
無理をしてでも、数多い親類縁者への大盤振舞、さらには祖父の地に資産を確保
して、故郷に錦を飾ったのであった。
たいていの在日一世は零細農民の出であるから、故郷に田畑を所有することは
一生の夢であった。ところが、当時の祖国では「海外僑胞」には不動産所有権が
認められていなかった。しかたなく親戚の名義を借りることになった。
彼らの生きるところはあくまでも日本である。田畑の管理を親族に委託し、彼らは
またしても日本であくせくと働きながら、ときには資産からの上がりを当てに
往来するということになった。つまり不在地主となったのである。
そんなことが祖国の親戚との新たな問題や争いの原因となった。
さらに、長年の異国暮らしの結果、彼らは否応なく異国の眼差しを身につけて
しまった。豊かな日本から見れば、祖国は何もかも遅れているし貧しい。
本人に自覚がなくても、在日の金と先進性を鼻にかけるような態度が祖国の者には
腹立たしい。また、凱旋将軍的な歓待を受けているうちに、ついつい羽目を外す
ことになりがちになる。異国での並大抵でない苦労の見返りとして、祖国で憩いたい
という思いが、祖国の人々の顰蹙を買う「女漁り」という形になったりもする。
他にも、韓国がまだ自由な海外渡航が許されなかった時代のとき、親類が
親族訪問を名目に出国許可を得て日本に観光に訪れる。観光ついでに
この機会にぜひとも在日朝鮮人の生活を知ってほしいと、大阪の「朝鮮市場」を
案内するとどうも機嫌がよくない。デパートや日本橋界隈の電気街での、
目を輝かせて嘆息を洩らす様子とは正反対である。
「恥ずかしい、まるで乞食のようだ。あんな姿を日本人に曝して生きるのは
民族の恥さらしだ」
偽物という引け目をもつ在日は、本物の言葉に弱い。まるで叱られているような
気分でこの言葉を聞いてしまう。しかし、次第に反動が押し寄せる。
生きるために路傍で物売りをすることがなぜ悪いだろう。それよりなにより、
そういう外見など構わずに逞しく生きてこざるをえなかったのが、在日一世
たちの生存条件であり、そのおかげで二世三世が生きてこれたのだ。
暢気な二世が批判されるのならまだしも、体を賭けて生きてきた彼ら一世が
民族の恥であるはずがない。在日からすれば自分たちの苦労を知ってほしかった。
しかし、祖国の人々が日本を訪れる目的は懐かしい親族との対面、そして観光
である。日本の繁栄こそ見たいが、偽物(在日のこと)の実態を見たいはずがない。
因みに、彼らの希望にしたがって例えば大阪城見物に案内すると、彼らは実に
真剣である。かつて朝鮮侵略を企てた日本の王様「豊臣秀吉」の力の秘密を
探るような目つきなのだ。失敗に終わったとはいえ対外膨張の発端である
秀吉の栄華こそが、近年の日本経済の膨張の源とでも考えているらしく、
彼らはその秘密をつきとめ、日本に追いつき追い越せを目指しているという
わけである。食い入るように城と展示品を見つめる彼らの真剣な姿と、
それをあっけにとられて見つめている在日との食い違いこそが、在日朝鮮人と
祖国の人々との関係の一側面を表しているのではなかろうか。
「ミッコウ」者も祖国の人である。ようやくこちらの生活に慣れて一息つく頃に
なると、冗談口調で洩らす。「こんなに働かねばならないとは夢にも思わなかった」
「これほど働くつもりがあれば、あっちでも十分に食っていける」さらには
「それにしても日本人はよく働く」と。そうそう、その通りと在日は内心相槌を
打ちながら、それに続く一句を期待して口元に目をやる。
日本人がよく働くとすれば、それより不利な条件におかれた在日朝鮮人は、さらに
はげしく働かねばならないし、実際そうしてきた。そういう事実を認めてもらい
たく、その言葉を待っているが、そんな甘い期待はほとんどかなえられない。
「ミッコウ」者にとって在日朝鮮人は身内なのである。身内は無条件に彼らから
援助の手を差し伸べられるべきなのである。それが儒教に支えられた朝鮮の
美しい伝統なのである。そして、そのような期待が十分に満たされることは珍しい。
当然、身内なのに冷たいという不満が溜まることになる。そればかりか、
在日朝鮮人は彼らの低賃金の厳しい長時間労働のおかげで、いい目を見ている
という側面がないわけではなく、己を食い物にしている人間を誉め讃えるるわけが
ないのである。
接触が理解を生み出すという一般論は、個々の現実には必ずしも妥当するわけでは
ない。理解しようという意欲、お互いの立場を認める努力、そうしものが持続し
なければ、むしろ安易な反発が食い違いを増強して固定観念化しがちになるのだ。
「在日」の言葉 玄 善充 ヒョン・ソニュン 同時代社 316.8