新韓国探見

北海道の新聞記者の本
青木隆直氏は1949年生まれ。
1992年から95年までソウル駐在  新潮社
現地を温かい目で見て書いている。

旧朝鮮総督府が取り壊されたのは1996年 その1年前の1995年8月15日に中央ドームの上の尖塔が切り離された。 このとき著者は既にソウルにはいなかったが、見に行けば良かったと思った。 韓国発展の風水地理を粉砕するため 日本はわざわざ朝鮮総督府を王宮のど真ん中に建てたと 韓国の人は思っている。 同時に、韓国の気と地脈、血脈を断ち切るために、 全国の主な山々の山頂に鉄でできた杭を打ち込んだ と思っていた。 そこで全国的に除去運動に乗り出したが 18本の鉄杭を発見したのみで しかも、それらの杭は方位測定用に(測量のため)設置したり 登山のために韓国人自身が打ち込んだという証言さえ飛び出し 「月刊朝鮮」は大半は殆ど根拠がないと書いた。 しかし、独立記念館には、それらの鉄杭が 「日本帝国がわが国の地脈を断ち切るために打ち込んだ」と 説明付きで展示されている。

   沙也可の里 壬辰倭乱のとき 朝鮮側に投降した日本の武将 沙也可 釜山に上陸したが侵略戦に疑問をもち 三千人の部下を率いて投降したとされている。 具体的な資料が残っていないから その素性は謎に包まれている。 慶尚北道(キョンサンプクド)達城(タルソン)郡嘉昌面(カチャンミョン)の友鹿洞という村を訪れた著者。 金忠善の子孫は健在である。 「賜姓金海金 始祖 金忠善」 子孫は七十戸、250人。 全国には8000人の子孫がいる。 「日本人の子孫だからといってイジメられることはなかった」 「先祖が、王から功を認められて金忠善になったことを韓国人なら皆知っている。 両班の列にも加わっていたから、子孫もそれに誇りを持って生きてきた」 沙也可は何者か。いろんな説がある。 鹿児島の陶工沈寿官氏は、沙也可は紀州雑賀衆出身ではないかという。 信長に滅ぼされた鉄砲集団の生き残り。 得意の鉄砲、火薬の技術を朝鮮側に伝授することで 秀吉の野望を砕き、信長に滅ぼされた一族の恨みをはらそうとした

   テレビもマンガもそっくりさん 日本人が初めて韓国に行ったら、テレビを見ていて CMからニュース、ドラマ、クイズのはてまで 日本そっくりな番組が続くのに驚く。 そうした体験は、初めて日本を旅行した韓国人も持つようで 日本留学の経験を持つ友人たちは、最初に日本のテレビを見た時 「あれ、韓国と同じだ」と大いに戸惑ったと口をそろえる。 もっとも彼らの多くは間もなく、それらのほとんどが、オリジナルは日本で わが韓国がそれを真似ていたという事実を知って愕然とするのだが。 そうした傾向は韓国に普遍のようである。 知り合いのディレクターなどは、「番組を安上がりに作るには、日本の真似を するのが最も手っ取り早いからですよ」とあっさりしたもの。 酒の席に勢いを借りて 「一方で日本が嫌いだとか、日本文化を入れるなと言っておいて、 それはちょっとヒドイんじゃないの」と言い返すと 彼は「そうなんだけど、こっちは何を作るにしても、とにかく、製作予算が 少なすぎるんだ。だからつい、安易な方法を選ぶ。それに日本で当たったものはたいてい、韓国でも当たる」と言う。 三十代の彼は若干バツが悪そうではあったが、そうやって見ていくと、 あるある、テレビ番組だけでなく、雑誌から車やお菓子のデザイン、デパートから街の商店の作りまで、そっくりさんのオンパレードなのだ。 雑誌などは、「主婦の友」「ヤングミセス」から始まって、週刊ベースボールならぬ週刊野球、航空ジャーナルや釣りの本など趣味の分野に至るまで、その徹底さには驚きを通り越して、感心してしまう。 マンガの世界も例外ではない。韓国の子どもたちも、日本と同じでマンガが大好きだが、1992年ころ人気を集めていたのが「ドラゴンボール」だった。 1995年にはバスケット漫画の「スラムダンク」に代わっていた。 これらは珍しく日本の出版社と版権契約を結び、正規な形で発刊されていたが、 それまではほとんどが日本のパクリだった。百パーセント写すか、セリフ部分を韓国語に翻訳しただけで、後はすべて複写して製本する海賊版がマンガ市場の主流を占めていた。 今でも日本の小学校にあたる初等学校の近くに行けば、子ども相手の本屋のどこをのぞいても、あれっ?どこかで見たことのあると思う海賊版を簡単に見つけることができる。 これはテルビアニメも同様で、「リボンの騎士」や「キャンディ・キャンディ」などを韓国製と信じて疑わなかった女性が、日本留学の後に事実を知って衝撃を受けたという。 今の20代から30代半ばまでの韓国の人々は、こういう環境の下で少年少女時代を過ごした。30代間近のある知り合いの女性は「学校では日本は悪い国だと教えられながら、家ではその日本が作ったマンガを楽しく見ていたなんてシャレにもならない」と憤慨していた。 おおらかというか、いい加減というか、この辺りが何とも韓国的なのだ。 その一方ではやはり「あふれる日本文化」に危機感を抱く人たちが反対運動に走る。 マンガでいえば、韓国漫画家協会が数年前からYMCAやYWCAなどを巻き込んで、日本マンガの追放運動に乗り出している。が、効き目はさっぱり。 漫画家協会会長が日本マンガは暴力的、刺激的で、子どもたちに悪影響を及ぼすと主張しても、韓国の若い漫画家たちが日本風の作品を競って描き始めているし、 若い読者が 「日本のものは内容も多彩で面白い」「韓国で表現できないものを描いていて楽しい」 と受け止めている。

高句麗:北朝鮮
新羅:慶尚道(金泳三)
百済:全羅道(金大中)

昼頃でした。畑で仕事をしていたら 面役所(村役場)から日本人が家にやってきた。 樺太で労働者が足りないので、2年間だけ行ってくれ と言われた。戦争のためだとも言われた。 私は無学だったので、樺太に行くのが規則だったのかと思った。 反抗なんか、できる状況じゃなかったから。「私の場合は、徴用ではなく表向きは募集という形でしたが、 結果的には行かなければならないようになっていたわけですし、 徴用と同じです」 嫌がる人には「お前が行かなければ、父親を連れていくぞ」 「明日から家族が食えなくなってもいいんだな」など脅されたという。 集団永住帰国者の入居した養老院「愛の家」京春線加平駅 大邱公害「大昌養老院」 集団帰国して、一度は故郷の肉親に迎え入れられたが 結局はなじめなかったり、金銭的な迷惑をかけられないと故郷を離れ、 ここに入居してきた。 「初めは息子の家に引き取られたが、行ってみると一家は貧しく ひとつの部屋で一緒に暮らさなければならない。 息子も最初は父が恋しく、何としてでも永住帰国させたい と思っていたが、実際に帰ってきてみると、父を満足に 食べさせることもできない。息子の嫁とはあわないし、 結局気まずくなって、ここへやって来たハラボシ(おじいさん) もいる」 「無縁故者といっても、全くの天涯孤独という人はほとんどいません。 遠い親戚の一人や二人は必ず韓国内にいるのです。 でも面会に一度も来ないケースも珍しくありません。 面会に来たとしても、引き取りを申し出た人はまだいません。 それどころか、例えば、施設入居に必要な書類を作るため、 肉親に連絡の電話を入れると、ほとんどがけんもほろろです。 サハリンに子どもや家があるのに、なぜ帰ってきたのか。 年もとっているのになぜサハリンに残らないのか。 私たちだって貧乏しているのに、どうやってそんな年寄りの 面倒を見られるというのか などとまるで荷物のように 扱う親戚も少なくないのです」

夫の墓のかたわらに 樺太の炭坑夫だった夫は、国の政策で九州に配置転換された。 日本人の坑内員も配置転換されたが、日本人は家族同伴で移動が認められた。 夫だけ樺太を離れ、残された母子はその後父と再会することはなかった。 その夫は韓国に渡り、韓国で再婚したが、夫はなくなり、韓国の夫人も再婚した。 このハルモニは子どもたちを樺太に残し、夫の墓のそばに眠ることを 希望して帰国した。 養老院で著者と話をしながら もう一度夫の墓参りをしたいというハルモニに、著者はその夢を実現させることになる。 ようやくさがして墓参りはすませたが、将来夫の傍らに葬られることはかなわぬことだった。 なぜなら、養老院では入居者が亡くなった場合、火葬に付して 遺骨を養老院の隣にある寺院の納骨堂に収めるのが決まりだったから。 火葬なら日本円で3.8万円。土葬にするならもっと費用がかかる(10万円)。 「ワシははじめ日本人ばかり恨んだが、今度は韓国人も恨むようになった。韓国ではもともと火葬なんかないのに、どうして。 もし、灰になったら何十年も恨んでやるんだ。とにかく粗末にされたくない」 著者はこのハルモニの話を新聞に紹介した。 ありがたいことに読者から10万円の浄財が送られてきた。 その後もお金が送られてきて、ハルモニはそのお金で夫の墓のすぐ横に 小さな土地を買うことができた。養老院から埋葬地までの運搬費用や埋葬費用も なんとか集まった。 彼女の場合、善意の人たちのおかげで念願は叶えられるが 他の入居者はそうはならない。 樺太にたくさん残っている。

  韓中の国交正常化 1992.8.24 両政府の突然の発表 明洞の台湾大使館は中国大使館になった。 実は1990年10月、領事業務を行う民間代表部を相互に設置。 1991年1月には北京に、4月にはソウルに それぞれ貿易代表部が開設された。 それに伴い韓国企業が熱にでも浮かされたように相次いで中国に進出、 人物往来も活発になっていた。 国交樹立は1989年ごろから目立っていた中国に住む朝鮮族の 韓国への出稼ぎを飛躍的に増やすことにもなった。 中国には、吉林省延辺朝鮮族自治区の84万人を含め、 東北地方を中心に約200万人の朝鮮族がいる。 もともとは、ロシアの了解の元に、清朝末期に朝鮮北部から 延辺地区に入植したのがはじまりで、その後日本植民地時代に 耕すべき土地を失って移ってきた末裔も多い。 その中から、韓中国交回復と前後して一攫千金を夢見て 韓国へ出稼ぎに来る人は後を絶たない。 韓国政府が外国人労働者の出稼ぎを認めていないから、大半が 親族訪問や韓国側の企業が引受人となって産業技術研修などという 名目でやってくるのだが、滞在許可期間を過ぎても帰国しない。 韓国内の工場に労働者としてもぐりこんだり、飲食店に賄い婦や 店員として住み込んで1年も2年も働く。いわゆる不法就労である。 経済成長著しい韓国では、すでに日本並みに若者の三K離れがすすんでいる。 若者は町工場や土木作業員など環境の厳しい職場には行きたがらない。 日本と同様に、韓国でもその穴を埋めるように外国人労働者が 入り込む。 雇う側からいえば、東南アジアや中東諸国より言葉の通じる 中国の同胞は願ってもない。雇われる方も2,3年も我慢すれば 中国での数十年分を稼げるとあって労をいとわない。 中国と韓国ではまだ生活水準、給与水準で天と地ほどの開きがある。

   満州も延辺も 延辺の発展はめざましい。 「中国人は拝金主義に陥った」「過消費をあおっている」「飲食店に田舎の女性が働きに出て売春をしている」などの批判も出ているが、相対的にそういう声は小さい。 延辺日報の副編集長は韓中交流に対して、長所も短所もあるが、基本的には大賛成だと断言。 「進出してきた韓国企業を見ていると、能率重視の考えや、礼儀正しさ など私たちが見習うべき点が多い。交流のおかげでここにいる朝鮮族の 視野も広くなり、情報の伝達も早くなってきた」 でも 「資本主義を知ることで、自分の国の良さがわかった。男尊女卑や、 女性の地位の低さ、人間の自主権(?)など、社会主義の方がまさっていることがわかった」 と付け加えることも忘れなかった。 中国・北朝鮮・ロシアの国境地帯の豆満江開発は将来性が中国でもトップクラス。 韓国の企業も将来性を見込んで力を入れている。 アジアの中心になるのはいいのだが、出稼ぎから帰国した朝鮮族の、韓国に対するイメージが決して良くない。 出稼ぎ職場が韓国人の嫌がる三K職場であり、彼らの中には不法就労という弱みにつけ込まれ低賃金でこき使われたとの思いが強い。 そんな話をソウルでもよく聞いた。 さらに悪いことに、延辺を訪れる韓国人の行動が、地元の人々の神経を逆なでしている。 「飲食店でも札束でほっぺたを張るような振る舞いだ。一部の韓国人は、まるでここが自分の国であるかのように勝手放題している。同胞であるがゆえ、彼らに対する市民の目も厳しくなってきている」 市内のホテルでも、そんな声を聞かされたが、「自分の国でもあるかのような振る舞い」ということを聞いたとき、 著者は韓国人との話の中で時々出てくる「延辺一帯はもともと、わが土地だった」という言葉を思い出す。 延辺を含んだ現在の東北地方はかつて高句麗の影響下にあり、高句麗滅亡後は その移民たちが8世紀に渤海国を建国、一時はその支配下に入った。 現在の中国と北朝鮮、ロシアとの三国国境地帯近くにあるロシアのポシェット湾は、渤海が日本と盛んに交易していた時の日本へ向かう良港だった。 韓国の歴史教科書では、それ以前の紀元前8,7世紀頃の古朝鮮時代も、今のハルピン近くまでを勢力圏内にしていたと教えている。つまり、この辺一帯は かつて朝鮮民族の国、領土だったというのだ。 こうした「歴史的な思い」があるのだろう、延辺にやって来る韓国人観光客の中には、 「東北地方はわが土地だった」ということを堂々としゃべる人もいて、中国側をえらく深いにさせている。 中国側から朝鮮民族の憧れの地、白頭山(中国の呼び名は長白山)に登り、山頂で韓国の国旗である太極旗を振ったなどという話も耳にする。 これはヒマラヤなどで登山家が山頂に国の旗を立てるのとは質が違う。 いつだったか、朝鮮日報だったかが、 「中国の東北地方はわが土地、などという時代錯誤的な発言は慎もう」 などと呼びかけていたが、新聞がそう書くところをみると、我々が思う以上にそうした人たちが多いということなのだろう。 韓国の人たちのこうした潜在意識と、延辺朝鮮族自治州の急速な経済発展を考えあわせた時、中華思想の漢民族が将来、この地域をどう見ていくのか、どう扱っていくのか、一抹の不安を感じざるを得ない。

  日本には何を書いてもいい 韓国マスコミのこれまでの対日報道の例として、従軍慰安婦と挺身隊を同じものと扱い、 「日本は小六の女児まで従軍慰安婦に仕立て上げた」という記事は日本でもよく知られているが、日本たたきは過去の日韓問題だけに限らない。 1993年10月 ロシアによる日本海への放射性廃棄物の投棄が国際問題化していた時期に、日本の原子力発電所が基準を大幅に上回る放射性廃棄物を大量に海に垂れ流している、という刺激的な記事が、韓国の新聞各紙に大々的に掲載された。 「日本核廃棄、ロシアの4千倍」(京郷新聞) 「日、東海・太平洋核廃棄、ロシアの千倍投棄」(ソウル新聞) ところが、これが事実とは全くちがったのである。 来日したロシアの原子力相の発言を真に受けて報じたのだが、 この発言の直後、日本の科学技術庁が事実と違うとの見解を明らかにして 韓国政府もわざわざソウルで記者たちを集めて 「日本の処理には何の問題もない。むしろ、韓国の原発から出る排水の方が日本のそれよりも数倍も数値が高い」 とまで説明していたのである。 にもかかわらず、韓国各紙はこれを無視して日本が基準を上回る廃棄物を垂れ流していると書いた。 さらに、数社が「日本はロシアに抗議する資格はない」「日本よ、恥を知れ」と社説で追い打ちをかけた。 これをそのまま受け取った韓国の環境保護団体が、「日本はアジアを汚すな」と書かれたプラカードを掲げて、 ソウルの日本大使館に抗議に押し掛ける騒ぎとなった。 さすがに大使館側は、韓国マスコミ各社を集めて、「事実無根であり、訂正を」と異例の記者会見を行ったが、訂正記事を出したり、テレビで取り上げた ところはなく、 「日本の放射性廃棄物垂れ流し」は事実として韓国国民の脳裏に刻み込まれることになったのである。

芽生え始めた小さな交流
韓国に駐在した日本人は「昼は反日、夜は親日」いう韓国人の使い分けにとまどうことが少なくない。
「夜に酒を酌み交わす時など日本に理解を示すようなことを言うが、昼の会合とか公式の場では全く逆のことを言う。一体どうなっているのか」
という声を駐在したての日本人からよく聞く。

韓国社会にはまだ相手が日本となると、素直になれないところがある。
何かきっかけでもない限り、日本を褒めたり、「そうは言っても日本にもい所があるぞ」と公にはなかなか言えない雰囲気がある。
これからの日韓に必要なのは、「本音の交流」をいかに育てるかのひとつにかかっている。

ではそのためにはどうするか。
日韓双方での歴史教育はもちろんのこと、若者の交流を地道に続けていくという「生きた教育」しか方法はないと思う。

朝鮮半島で何か動きがあると、在日朝鮮人の子どもたちがチマ・チョゴリを切られたとか、石をぶつけられたとか、いまだに起きるお国柄である。
在日韓国・朝鮮人が、本名では肩身の狭い思いをしなければならない社会である。
一方は、日本は悪い国だと教え込まれてきた社会である。
相互不信は根深い。時間はかかる。しかし、時間はかかるが、やっていくしかない。

襟裳岬に近い様似の小学校と慶尚南道馬山市の城湖国民学校(初等学校)と
姉妹交流を続けて、1週間だけ互いの学校を訪れる。その際のホームスティは重要である。
先入観が洗い流され相手の国に良い面を見つけて帰ってくる。